第55話:遥斗の存在
四十七階層の休息の間で、泉の水を飲んだ。
冷たい、澄んだ水。
疲れ切った体に、染み渡っていく。
四十六階層と四十七階層は、連戦が続いた。
大型の敵が多く、全員がボロボロだ。
翔の槍には刃こぼれがあり、葵の衣はあちこち破れている。
美咲の矢筒も、半分ほどになっていた。
俺の剣にも、いくつか細かい傷が入っていた。
「はぁー……やっと休めた」
翔が、大の字に寝転がった。
「今日は、長かったな」
葵が、泉のそばに腰を下ろす。
足を水に浸しながら、小さく息を吐いた。
美咲は、黙って弓の手入れを始めた。
俺は、壁に背を預けて座った。
剣を膝の上に置き、目を閉じる。
しばらく、四人で黙っていた。
先に口を開いたのは、翔だった。
「なあ、蓮」
「ん?」
「遥斗って、どんな子なんだ?」
目を開けた。
翔が、仰向けに寝たまま、天井を見ていた。
不意に振られた話題だった。
これまで、遥斗の話は——俺から、ほとんどしてこなかった。
話しても、仲間が重く受け止めすぎる気がした。
だから、あえて話題にしなかった。
でも。
昨夜、翔には、弟のことを少しだけ話した。
翔が覚えていたのかもしれない。
葵と美咲も、こちらを見ていた。
気づけば、三人が俺の答えを待っていた。
俺は、少し黙った。
それから、静かに話し始めた。
「……八歳だ」
「おお、まだ小さいな」
「両親が、数年前に亡くなった」
翔が、少し体を起こした。
葵が、息を呑む。
「それから、俺が育ててる」
「……一人で?」
葵が、小さく聞く。
「ああ」
俺は、続けた。
「工場で働きながら、朝ごはんを作って、学校に送り出して、夜中に帰ってくる。毎日、同じことの繰り返しだった」
「毎日、同じ……」
葵が、呟く。
「単調な毎日だった」
俺は、少しだけ笑った。
「でも、それが俺の全部だった」
遥斗が起きる前に、朝ごはんを作る。
卵焼きと、味噌汁と、ご飯。
ほぼ、毎朝同じメニュー。
遥斗は、文句一つ言わずに食べてくれた。
「兄ちゃんの卵焼き、うまいね」
そう言って、笑ってくれた。
本当は、自信なんてなかった。
料理なんて、得意じゃなかった。
味噌汁が濃すぎることも、薄すぎることも、よくあった。
でも、遥斗が笑ってくれるなら——それで、よかった。
夜、工場から帰ると、遥斗は既に眠っていた。
電気を消し忘れたまま、机に突っ伏していることもあった。
宿題の途中で、疲れて寝てしまったんだと分かった。
俺は、そっと遥斗をベッドに運んだ。
毛布をかけて、頭を一度だけ撫でた。
それだけの毎日だった。
代わり映えのしない、単調な毎日。
でも、それが俺の全部だった。
「……遥斗くん」
葵が、ぽつりと呟いた。
「待ってますよね」
俺を見る葵の目が、少し潤んでいた。
「ああ」
短く、答えた。
美咲が、弓の手入れを止めた。
「蓮」
静かに、俺を呼ぶ。
「その子のために、絶対に帰りましょう」
美咲の声に、迷いはなかった。
俺は、頷いた。
「……ああ」
翔が、また仰向けに戻った。
「俺も、会ってみたいな、遥斗に」
「……会わせるのか?」
「当たり前だろ。帰ったらお前の家に押しかける」
「迷惑だ」
「いいからいいから」
葵が、笑った。
「私もです!」
「……葵も?」
「はい!遥斗くんに、お土産持っていきたいです」
美咲が、珍しく口の端を上げた。
「私も、会ってみたい」
俺は、三人の顔を順に見た。
翔が笑っている。
葵が、涙を拭いて笑っている。
美咲が、静かに微笑んでいる。
——不思議だった。
遥斗の話をしただけで。
ただ、それだけで。
三人が、こんなにも温かい顔をしている。
俺は、少し黙ってから、静かに言った。
「……帰ったら、会わせてやる」
翔が「よし、言ったな!」と起き上がる。
「約束だぞ」
「ああ」
葵が、嬉しそうに頷いた。
美咲が、弓を鞘に戻した。
四人で、また泉を見つめる。
俺は、胸の中で確認した。
——俺が俺でいられるのは、遥斗が待ってるからだ。
そして、今は——三人も、いる。
帰る理由が、増えていた。
休息が終わる。
翔が、槍を担ぐ。
「さて、行くか」
四人で、次の階段を登り始めた。
足取りは、少し軽かった。




