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第54話:蓮の恐怖

眠れなかった。


隠し部屋を出た後。


通路の途中で、四人は一度休息を取ることにした。


翔と葵と美咲は、壁に背を預けて目を閉じている。


泉のような休息の間ではない。


ただ、少し広くなった通路の一角。


俺だけが、眠れなかった。


壁に刻まれていた文字が、目を閉じるたびに蘇る。


『誰かの顔を、思い浮かべることが、できなかった』。


その一文が、頭から離れない。


ループを繰り返すほど、俺は強くなる。


反復回数が増えるほど、スキルは鋭くなる。


それは、紛れもない事実だ。


でも——。


強くなった先に、何があるんだ。


あの挑戦者は、強かったはずだ。


頂上まで来た。


門の前に、立った。


ここまで来られる人間は、限られている。


なのに——。


誰の顔も、思い出せなかった。


喉が、渇いていた。


静かに立ち上がる。


仲間を起こさないように、少し離れた場所へ歩いた。


月の光も、日の光もない。


塔の中は、石の壁がぼんやりと発光しているだけだ。


自分の両手を、見つめる。


剣を握り続けた手。


何千回、何万回と、同じ動作を繰り返してきた手。


強くなった。


確かに、強くなった。


でも、この手は——俺の手のままか。


「なあ」


後ろから、声がした。


振り返ると、翔が立っていた。


「何考えてるんだ」


起きていたらしい。


眠そうな目をしているが、こちらを見る視線は、真っ直ぐだった。


俺は、少し黙った。


翔には、言ってもいいかもしれない。


いや——翔だからこそ、言える。


「……ループを繰り返すほど、俺は強くなる」


静かに、口を開いた。


「反復回数が増えるたびに、スキルが磨かれる。仲間への指示も、迷いがなくなる」


「ああ、実感してる」


翔が、頷く。


「でも」


俺は、一度、息を吐いた。


「強くなりすぎた先に、何があるのか、分からなくなった」


翔が、ゆっくりと壁に背を預ける。


黙って、俺の言葉を待ってくれる。


「あの壁の挑戦者も、頂上まで行ったんだ」


俺は、続けた。


「強かったはずだ。ここまで来られる人間は、限られている。でも……最後は、誰の顔も思い出せなかった」


翔が、何も言わない。


「俺も、いつか、そうなるんじゃないか」


自分でも、驚いた。


こんな言葉を、口に出すとは思わなかった。


「遥斗の顔が、いつか薄れるんじゃないか。仲間の顔が、いつか思い出せなくなるんじゃないか。強くなることと引き換えに、俺が俺じゃなくなるんじゃないか」


口に出したら、止まらなかった。


言い終わって、俺は少し俯いた。


翔が、長く息を吐いた。


それから、静かに笑った。


「馬鹿だな、お前」


「……何が」


「お前が蓮じゃなくなることは、絶対にない」


翔の声は、迷いがなかった。


「なんで、そう言い切れる」


俺が、聞き返した。


翔が、肩をすくめた。


「毎日、遥斗のことを思い出してる奴が、自分を忘れるわけないだろ」


「……」


「お前さ」


翔が、続ける。


「戦闘中も、休憩中も、時々ふっと遠い目をしてる時あるんだ。あれ、弟のこと考えてるんだろ」


知られていた。


俺が、少しだけ息を呑む。


「……ああ」


「それだけ考えてるんだから、忘れるわけない」


翔が、立ち上がった。


「もし忘れそうになったら、俺が思い出させてやる。お前には弟がいるって。家で待ってるって」


俺は、翔の顔を見た。


笑っていた。


いつもの、呑気で、でも芯のある笑顔で。


胸の奥が、少しだけ熱くなる。


「……そうか」


俺は、短く答えた。


翔が「ま、そういうことだ」と言って、仲間の方へ戻っていった。


その背中を、俺はしばらく見送った。


ひと言、礼を言うべきだったかもしれない。


でも、翔のことだ。


言えば「気持ち悪い」と笑って流すだろう。


だから、言わなかった。


俺は、一人、通路に残った。


遥斗の顔を、もう一度思い浮かべる。


朝の寝起きの顔。


学校帰りの顔。


夜のおやすみの顔。


全部、覚えている。


薄れていない。


——まだ、大丈夫だ。


そう、胸の奥で確認した。


翔の言葉が、そこに、静かに重なっていった。


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