第53話:先人の記録、続き
迷宮の深部に、隠された部屋があった。
水中迷宮を突破した後。
通路の壁の一部が、他と微妙に違っていることに美咲が気づいた。
「ここ、石の色が違う」
美咲が指差す。
翔が、壁を押してみた。
軋む音がして、一部が内側に開いた。
「おお、隠し部屋かよ」
四人で、中に入る。
狭い、石造りの小部屋。
天井は低く、広さも畳六畳ほどしかない。
だが——壁一面に、文字が刻まれていた。
びっしりと。
上から下まで、隙間なく。
一人の人間が、長い時間をかけて刻んだような筆致。
「誰かの記録だ」
翔が、低く呟いた。
葵が、壁に近づく。
「読んでも……いいんでしょうか」
「ここに残すってことは、読んでほしいから書いたんだろう」
美咲が、静かに答える。
四人で、壁の文字を読み始めた。
——『塔を登り始めた。仲間は三人。皆、優しい奴らだ』
冒頭は、そう書かれていた。
——『十階層を越えた。鍛冶屋で剣を鍛えた』
——『二十階層で、仲間の一人が死んだ。名前は……思い出せない』
葵が、息を呑んだ。
——『三十階層で、もう一人が死んだ。顔は覚えている。でも、名前が出てこない』
「これ……」
翔が、言葉に詰まる。
——『五十階層。俺は一人になった。登り続けるしかない』
——『七十階層。数字が、意味を持たなくなってきた』
文字が、壁の中ほどに差し掛かる。
——『九十階層。何度目かの登頂だ。何度目かは、もう数えていない』
「何度目か……」
美咲が、低く呟いた。
「この人も、ループしてたってこと?」
誰も答えられなかった。
俺は、ただ文字を追い続けた。
壁の下の方。
記録の終わりに、近づいていく。
——『頂上まで来た』
短い一文。
——『門の前に、立った』
もう一行。
——『でも、俺はもう』
——『誰かの顔を、思い浮かべることが、できなかった』
文字が、そこで止まっていた。
それ以上、何も刻まれていない。
部屋の中が、静まり返る。
「……同じ文章だ」
翔が、喉の奥から絞り出すように言った。
「三十六階層で見たのと、同じ」
俺も、覚えている。
二十階層のボス——永劫の獄卒を倒した後の休息の間。
壁に、同じ文章が刻まれていた。
『頂上まで来た。門の前に立った。でも、俺はもう誰かの顔を思い浮かべることができなかった』。
同じ人間が書いたのか。
おそらく、そうだ。
筆致が、似ている。
葵が、震える声で呟いた。
「頂上まで来たのに……誰の顔も、思い出せなくなった……」
「……どういうことだろう」
葵が、壁を見つめたまま、止まっていた。
「家族の顔も?」
「友達の顔も?」
「誰の顔も、思い出せないって……そんなことって、あるんですか」
誰も答えられない。
美咲が、静かに壁に触れた。
「何度も登っている間に、忘れていったんじゃないかしら」
低い声。
「一周目は覚えていた。二周目でも覚えていた。でも、何十周もしているうちに、少しずつ薄れていった」
「忘れていく……」
葵の声が、小さくなる。
俺は——何も言わなかった。
言えなかった。
頭の中に、遥斗の顔が浮かんでいた。
朝、寝起きで目を擦りながら「おはよう」と言う顔。
学校から帰って「今日ね、」と話し始める顔。
夜、眠そうに「おやすみ」と呟く顔。
全部、覚えている。
三周目までは、全部。
でも——何十周も繰り返したら。
何百周も繰り返したら。
この顔は、いつか、薄れるのか。
喉の奥が、冷たくなった。
「……俺は」
ようやく、声を出した。
三人が、振り向く。
「俺は、絶対に忘れない」
静かに、そう言った。
翔が、目を見開く。
葵が、少し涙ぐむ。
美咲が、静かに頷いた。
俺は、壁の最後の一文をもう一度見た。
『誰かの顔を、思い浮かべることが、できなかった』。
——この人は、忘れた。
——俺は、忘れない。
そう、胸の奥で決めた。
だが、本当にそうだろうか。
本当に、俺は忘れずにいられるのか。
答えは、まだ出なかった。




