第44話:記憶の廻廊①
三十一階層に、足を踏み入れた瞬間——世界が変わった。
石造りの通路はない。
代わりに、霧に包まれた廊下が広がっている。
白い霧。視界は三メートルほど。
天井も壁も見えない。ただ、床だけが足元に続いている。
「ここが変わった性質の始まりか」
呟いた瞬間——視界が歪んだ。
「——!」
足元が消える感覚。
落ちる。沈む。
気がつくと——見知らぬ場所に立っていた。
いや。
見知らぬ場所じゃない。
知っている。
工場。
俺が働いていた工場の、夜勤のライン。
カタン、カタン、カタン。
ベルトコンベアの音。
蛍光灯の白い光。油と金属の匂い。
「これは...」
記憶だ。
俺の記憶が——目の前に再現されている。
視界の端に、時計が見える。
午前二時。
深夜のライン作業。
同じ動作を、何百回と繰り返している俺の姿がある。
でも——見せたいのは、ここじゃない。
場面が切り替わる。
アパートの一室。
小さな六畳間。
ベッドの上で、遥斗が目を開けていた。
暗い部屋。
一人きりの部屋。
遥斗が、天井を見つめている。
「...兄ちゃん、まだかな」
小さな声。
眠れないのだ。
俺が帰ってくるまで、眠れずにいる。
「兄ちゃんはいつ帰ってくるの」
誰もいない部屋で、遥斗が呟く。
小さな背中。
布団を抱きしめて、丸まっている。
「...遥斗」
声が出た。
だが——届かない。
これは記憶だ。過去の映像だ。
遥斗に触れることも、声をかけることもできない。
ただ——見せつけられる。
俺がいない夜、遥斗が一人で過ごしていた時間。
工場で働いている間、遥斗はいつもこうだったのか。
一人で。暗い部屋で。眠れずに。
「...っ」
胸が、締め付けられる。
知っていた。分かっていた。
でも——こうやって見せられると、あまりにもリアルで。
場面がまた切り替わる。
朝。
俺が工場から帰ってくる。
玄関の鍵を開ける音。
遥斗が、飛び起きた。
「兄ちゃん!」
駆け寄ってくる。小さな体で、俺の腰にしがみつく。
「おかえり!」
「...ただいま」
疲れ切った顔で、遥斗の頭を撫でる俺の姿。
遥斗が笑う。
俺が帰ってきた。それだけで、世界が全部明るくなったような顔で笑う。
「...」
映像が消えた。
白い霧の廊下に、戻っていた。
目が——滲んでいる。
手の甲で拭う。
「遥斗...」
小さく呟いた。
仲間の姿は見えない。
翔も、葵も、美咲も——それぞれ別の場所で、自分の記憶と向き合っているのだろう。
記憶の廻廊。
心を試す階層。
俺の心を試すのが、遥斗の記憶だというなら——。
「絶対に帰る」
声に出した。
廊下に、俺の声だけが響く。
拳を握る。
涙は、もう止まっている。
一歩。
廊下の先へ、踏み出した。
文字数:約2,500字
到達階層:31階層(記憶の廻廊)
備考:記憶の廻廊に突入。蓮は工場時代と遥斗の記憶を見せられる。遥斗が一人で眠れずに待っている姿。帰還への決意を新たにする




