第93話:嫌がらせ(前編)
「わからない男ね」
キャサリンは、冷たい声で吐き捨てた。
「あの女の家に、いくらで雇われているのかと聞いているのよ」
「……それを聞いて、何をなさるおつもりですか」
パットは1歩、後ろに下がった。彼女は彼をにらみつける。
「使用人ふぜいが知る必要はないわ。倍のお金を渡すから、私のために働きなさい」
「…………それは」
パットは迷って目をそらした。キャサリンが彼に詰め寄る。
「使用人のくせに、口ごたえする気?」
「いえ、そんな……」
パットはどうにか逃げようとしたが、狭い船の上ではうまく動けず、背中が手すりにぶつかってしまう。
「私はただ、クリス様と2人きりになりたいだけよ。協力してくれてもいいでしょう。あなたにも得があるのだから」
キャサリンが懐から、金貨の詰まった袋を取りだす。パットは恐怖で固まっていた。手すりから、体がはみ出す。
(……あ。落ちる……)
海に向かって、体が傾く。キャサリンは彼を助けもせず、金貨袋を突きつけた。
「何をしてるの。早く受け取りなさい」
はいもいいえも返せなかった。パットはただ、恐ろしくて、逃げたくて。死にたくもなかったけれど、狭い船の上ではそこしか行き場がなかっただけだ。
緊張で、時間が止まったように感じる。その空間を、鋭い声が切り裂いた。
「……何をしているのか、聞きたいのはこちらだ」
キャサリンが目を見開いた。手すりから落ちかけていたパットは、その声に驚いて、さらに体を傾けてしまう。重心が偏って、彼は頭から海に落ちそうになった。
「パット!」
駆けだしたクリスは、キャサリンに目もくれず2人の間に割りこむ。そして彼は、パットの体を掴んで止めた。彼はクリスよりも小柄だったから、難なく助けることができる。
「……大丈夫かい?」
呆然としているキャサリンを置いて、彼は青ざめたパットの体を下ろした。床に座りこんだ少年は、クリスの腕の中で震えている。パタパタと、軽い足音が聞こえてきた。
「……いったい、どうなさったの?」
後から来たジュリアが、3人の前で立ち止まる。彼女は息を切らしていた。クリスはその姿を見て目を細める。
「……こみいった話は後にしようか。こんなところで、話すことでもないからね」
ジュリアと共に来たポウムが、気をきかせて人払いをする。キャサリンはキョロキョロと、落ち着かない様子であたりを見回していた。
「お逃げにならないでくださいね」
ジュリアは笑ってクギを刺す。キャサリンは急に動きを止めて、目を伏せた。




