第89話:宴の前(後編)
2人が乗った馬車は王都から街道に出て、曲がりくねった道を進んだ。使用人たちは別の馬車に乗って後から来る。2台の馬車は並んで進み、アボット伯爵領に入った。
やがて、潮の香りが漂ってくる。
「船に乗るのは初めてなの。あなたは?」
「……俺も乗ったことはないな」
クリスの口調が柔らかくなったことに、一瞬引っかかりを感じながらも。ジュリアは特に追求せず、外を見た。
「町の騒がしさは、どこでも変わらないな」
「ええ、そうね。……ここなら魚を生で食べてもいいと思うんだけど」
「あー、いいな! 刺し身食いてえ……」
2人とも、中身は現代の日本人だ。生の魚や卵を食べたいと思うことはある。
ただ、保存も流通も、衛生観念も。中世ヨーロッパをベースにした世界では、流石に怖くて手が出せない。それだけに、とれたての魚を生で食べたいと思う気持ちは強かった。
「でも、船の上だと出ないんだろうな……」
「あー、分かる。調理するの、俺らが連れてきたシェフだもんな」
「……こっそり頼んでみる?」
「そんなヒマがあるか?」
「ないね……」
相談のすえに、2人は落ちこむ。この世界には、寿司どころか刺し身すらないのかと。
「まあでも、魚料理は出るだろ。王都だと食べられないものがあるんじゃないか?」
ジュリアが結論づけたとき、馬車は海岸線に作られた堤の前で止まった。2台目の馬車も、後ろに並んで停車する。
「……じゃあ、続きは後で」
ニッコリと微笑んで、クリスは意識を切り替える。彼女も彼を見習って、優雅な笑みを浮かべた。
「はい。……行きましょうか」
手を取り合って、2人は馬車から下りる。その目線の先、2台目の馬車から、ポウムたちが姿を見せた。
「お嬢様!」
駆け寄ってきた彼女が、太陽のように輝く笑顔をジュリアに向ける。後から走ってきたパットは、眉を下げて困ったような顔をしていた。
「……あの船ですか?」
彼は港にある船の中でも、ひときわ大きな物に目を向けている。船と陸地の間に渡されている板の上では、人々が忙しそうに行き交っていた。
「そうだよ。あれが、今日乗る船だ」
クリスはジュリアの腰に手をそえて、船のほうに歩いていった。渡し板の周りにいた人々が、彼らの姿を見て道を開ける。
「すごいねえ」
気楽な様子でポウムがつぶやく。パットはその横で視線を落とした。
「……君はうらやましいと思う?」
「えー、なんで? 私は平民だもの。うらやんでも、仕方ないよ。こうしてお付きになれるだけで、十分だから」
ポウムはキョトンとした顔で返す。それを見て、彼は少しだけ気が楽になったようだった。




