第87話:宴の前(前編)
アボット伯爵領は、東の海ぞいにある。王宮からは、馬車で1時間ほどかかる場所だ。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
ジュリアの髪をとかしながら、ポウムが口を開く。薄いピンク色の服を着た彼女は、鏡に映る自分の姿を見つめていた。
(……いつからだろう)
最初は女として生まれたことに戸惑っていた。それがいつの間にか慣れてきて、違和感もなくなっている。
(同じ男を、好きになったからか?)
ジュリアは甘やかされて育った娘だった。だから今までは、自分勝手に振る舞ってきた。ただ、彼女の中にいる孝太は、親に厳しくしつけられた記憶があるからワガママを言わないだけだ。
(それに、クリスも同じ価値観を持ってるし……)
あるいは、今なら。少しくらいワガママを言っても許されるかもしれない。けれどジュリアとしての自我が、クリスに愛される自分でいたいと叫ぶから。孝太もそれに同調して、大人しくしているのだ。
「支度はできた?」
彼が声をかけてくる。それだけで、ジュリアの心臓が高鳴った。
「……ええ」
同じ部屋で寝泊まりする。そんなことは、今までになかった。ジュリアとしての感情は、ただ嬉しいというだけだ。けれど孝太は、その先のことを考えてしまう。
(……しかたねえだろ。オレは高校生なんだから)
男から女になってしまっても、やりたいことは変わらない。
ただ、クリスが優しい男だということは彼にも分かっている。彼は決して、自分からは手を出さないだろう。
それに女になったとはいえ、まだ男に抱かれる覚悟まではできていない。
「お待たせしました」
ポウムがジュリアから手を離す。彼女は立ち上がって、クリスの隣に並んだ。彼は自然に、彼女の腰を抱き寄せる。ただ、それ以上は何もしない。
(……これでいいんだ)
彼女は無理やり自分を納得させる。そして連れだって外に出た。馬車はすでに、王宮の前に止まっている。
「ほら、見て。シリルも見送りに来てくれてるよ」
クリスにうながされて、ジュリアは正門をくぐる前に横を見た。そこではシリルが、真顔で立っている。軽く手を振ると、彼は黙ったまま同じ行動を返してきた。クリスが満足そうに笑う。
「……お前はさ」
言いたいことはいくつもあった。だけどそれを伝えたら、嫌われるかもしれないと思って。彼女は1言だけ告げる。
「あいつらのことが好きなんだよな。このゲームが好きだったから」
「うん、もちろん」
うなずく彼は分かっていない。馬車に乗りこんで、動きだした車の中で。彼女は小声で問いかけた。
「じゃあ、最推しとかいたのか?」




