第85話:準備期間(中編)
「……忘れていたんだ」
しばらくしてから、クリスは言った。
「原作では、テキストで書かれただけだった。だから余計に、衝撃を受けて……」
「そういうことか。……たとえ仲が良くなくても、突然親が倒れたら心配するよな」
ジュリアは納得したようにうなずいた。クリスがイスの背もたれに体重を預ける。
「……シリルはじきに、ポウムとパットを連れてくるだろう。パーティーまでは、王宮に泊まってくれ」
「言われなくともそうします」
ジュリアは立ち上がりながら返した。窓に近づいて、彼女は外を見る。大通りは相変わらず、人が大勢行き交っていた。その中に見覚えのある姿を見つけて、彼女はつぶやく。
「あの子たちが戻ってきたわ」
その目線の先。シリルは2人の使用人を連れて、王宮に入るところだった。
「お嬢様のお世話ですって」
「……よくそんなに喜べるね」
「あら、パットは嬉しくないの?」
「嬉しいもんか。あの人は悪魔だよ」
2人の会話が、聞きたくなくても耳に入る。シリルは目を細めた。
(グラファ家の令嬢はワガママで、1度怒ると手がつけられなくなるんだったな)
だが、彼が見た彼女は違っている。中身が丸ごと別人に変わったような姿に戸惑っていたのは、彼も同じだ。
「いらっしゃい、シリル。ポウムとパットも、よく来てくれたわ」
客室のドアを自分の手で開けて、ジュリアは3人を出迎えた。パットが目を見開いて固まる。
「……な、なんで……」
彼の声は震えていた。シリルがため息をつく。
(無理もないな。使用人のために、自分から動く貴族はいない)
彼女は彼らを、同じ人間として扱っている。その証拠に、ポウムは当たり前のような顔で客室に入っていった。
「……行くぞ」
シリルは無理やり、パットの体を押して入る。全員が部屋の中にいるのを確認して、ジュリアは扉を閉めた。
「楽になさい。今は特に用事がないから」
「はーい。じゃあ、お昼ごはんをもらってこようかな。実は食べそこねちゃって……」
「使用人の食事の時間は過ぎているから、私のぶんだと言いなさい」
その言葉に、パットはまた変な顔をする。クリスは苦笑を浮かべていた。
「……驚かせてしまったね」
「い、いえ、そんな……!!」
パットは慌てて首を振る。そして目を伏せて続けた。
「……その、ジュリア様はこれを覚えていらっしゃいますか」
おずおずと、彼が右手を差しだす。その指にはヤケドの痕があった。傷を見た瞬間に、彼女は過去を思いだす。
「……ごめんなさい」




