第82話:クリスの涙(前編)
その後のことを、クリスはよく覚えていない。ただ、ボンヤリとしていたら、いつの間にか時間が経っていた。彼は自室に戻っていて、目の前には医者の姿がある。
「ひとまず峠は越えられました」
医者の声が、遠くから聞こえるように感じる。クリスは無言でうなずいた。
「しかしまだ、予断を許さぬ状況です。私はお近くにひかえて、お世話を続けるつもりですが……」
「……頼む。お父様には、まだお元気でいてもらわなければ」
自分の言葉すら、どこか別の場所から聞こえてきているような気がする。そんな彼を、シリルは心配そうに見つめていた。報告を終えて、医者が出ていく。それと入れ替わるように、誰かが部屋に入ってきた。
「何があったのですか」
フィリクスの声がする。クリスはそこで、ようやく我に帰った。
「……お父様が、お倒れになった」
「そうですか。それは……」
彼は何かを言おうとしたが、青ざめたクリスの顔を見てやめる。クリスはまだ本調子ではなかったが、それでも無理やり笑みを浮かべる。
「……君にとっては願ってもないことか。国王が動けない今なら、計画の達成もたやすい」
「ええ、そうですね」
フィリクスは否定しなかった。シリルの厳しい視線にも怯まず、彼は続ける。
「ですが、まだ動くつもりはありません。今は警戒も厳しくなっていますからね」
クリスは黙って、話を聞いた。少し落ち着いた彼は、その場にあったイスに腰を下ろしてフィリクスを見る。
「……それなら、もうここに用はないだろう」
2人の視線がぶつかる。先に目をそらしたのはフィリクスのほうだった。
「……そうですね。ジュリア様に、知らせるだけでいいでしょう」
ジュリアの名を聞いて、クリスが目を見開く。フィリクスは彼が何かを言う前に、部屋から出ていった。残されたクリスは、目を伏せて深いため息をつく。
「……シリル」
「はい、兄さん。オレはここに」
今まで何も言わず側にいたシリルが、クリスの手を取ってひざまずく。
「君は動揺していないね。お父様に、ついていたいとは思わないの?」
「思わない。……なあ、兄さん。オレにだって分かってる。あの写真は、とても信じられるようなものじゃねえって。……それでもいいんだ。あの写真があったおかげで、1人だったオレに、信じられる兄さんと姉さんができたから」
その言葉で、クリスは悟った。シリルは国王のことを、父だと思っていないのだと。
「そうか、君は……」
また、泣きそうになる。彼はシリルを手まねきして、近づいた彼の頭を抱き寄せた。
「シリル、ここにいて。彼女が来るまで、僕と……」




