第35話:酒場(前編)
坂道の先。街の大通りに面した場所に、その酒場は建っていた。中に入ると、大勢の客が入っていて、若い娘が忙しそうに動き回っている。
「あら、またお客さん? ちょっと待ってね」
酒場の娘は、マントとフードで姿を隠している2人を見ても、特に疑問を持たず出迎える。クリスがわざと声をガラガラにして、普段と違う口調で返した。
「今、シリルはいるか?」
「ありゃ、あの人の知り合い? いるよー。待ってねー」
2人を空いている席に案内しようとしていた娘が、足を止めて方向を変える。彼女が向かう先には、見覚えのある三白眼の男がいた。
「……誰だ?」
「ん? アンタが呼んだんじゃないの?」
不思議そうな娘を置いて、クリスはシリルに近づく。そして、小さな声でささやきかけた。
「何……!」
シリルが目を見開く。彼は周りを見回して、席を立った。
「裏に行く。食事と酒は、そっちに持ってきてくれ」
「……え」
娘の顔色が青くなった。彼女は立ちつくし、シリルはクリスを睨みつける。
「何のつもりか知らないが、ここでは話せない。ついてこい」
(おい本当に大丈夫か?!)
ジュリアは思わず、彼の手を掴んだ。クリスが口調を変えた理由も、彼女には分かっている。だから声は出せない。
(声を出せば、周りに俺たちの正体が知られちまう。だから……だけど……)
クリスもまた、何も言わず、シリルの後についていく。
彼を信じたい気持ちと、自分を嫌う人間が周りにたくさんいる恐怖で、板ばさみになりながら。ジュリアはゆっくりと、足を進めた。
酒場のカウンターに立つ主人が、2人のほうに目を向ける。だが、彼は何も言わない。
「こっちだ」
酒場の奥にあるドアを開けて、シリルは2人を小部屋に招く。バタンと音をさせて、ドアが中から閉められた。シリルはそのまま、ドアにカギをかけてため息をつく。
「……で、なんで来たんだよ、王子サマ」
「うん? ここは君たちの、馴染みの店なんだろう? だから来たんだけど」
「それはフィリクスにも話してねえことだ。……なんで知ってる」
「……あ」
そこでクリスは、ようやく気づいた。シリルは彼を警戒している。それはそうだろう。王子に革命軍の情報がもれているのだから。彼の立場からすれば、内部にスパイがいる可能性を真っ先に考えるはずだ。
「……ええと、そうか。君は僕のことを誤解してるね」
「誤解だと?」
「うん。僕は君たちのために、本気で国を変えようとしているんだ。だからこの店のことも調べたし、フィリクスにも言わずにここに来た。彼女だけを連れてきたのも、そのためだ」
それでもクリスはうろたえず、穏やかな声で返した。




