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15ー4章 彷徨(さまよい)(4)

 筑波大学の合格発表の日。

 キャンパスの空気は、妙に静かだった。

 合格発表というのは、もっとこう――ざわついているものだと思っていた。

 歓声とか、ため息とか、そういう“感情の音”が混ざり合う場所。


 でもここは違う。

 人はいる。

 確かにいるのに、全員がどこか距離を保っている。

 まるで、自分の結果とだけ向き合っているような空気だった。


 ――その中に、井上さんがいた。

 いつも通りの立ち姿。

 背筋が伸びていて、無駄な力が入っていない。

 ただそこにいるだけで、周囲の空気が少しだけ整うような、そんな存在感。


「来たんだ」


 俺に気づいて、短く言う。


「まあね。数か月前に来たから道筋はわかっているのでぶらぶらしながら来た。その時とは気分が全然違うけど」

「合格者の余裕ね」

「でも遅れなかっただろう」

「うん、私が早いだけ」


 淡々とした会話。

 でも、その“いつも通り”が、逆に少しだけ不自然だった。

 井上さんの指先。

 ほんのわずかに、動いている。

 落ち着いているように見えて――緊張している。


「……じゃあ、行きますか」

「うん」


 それだけ。

 余計な言葉はない。

 俺が合格者発表への同行を希望した。

 井上さんは少し嫌がったが最後は喜んでくれた。

 ただ、会場には別々に来たいというのでそれに従った。


 掲示板に着く。

 受験票に記載された受験番号を確認する。

 掲示板を見上げる。

 その一連の動作が、妙に長く感じた。


 そして――。


「……」


 表示された文字を、何度も読み直す。

 〇〇〇〇番。

 その五文字。

 シンプルすぎて、逆に現実感がない。


「……どうだった」


 井上さんの声。


「受かった」

「そう」


 短い返答。

 でも、そのあとすぐに。


「私も」


 そう続けた。

 それだけで十分だった。


「……おめでとう」

「そっちも」


 言葉は少ない。

 でも、その中にある意味は分かる。

 努力。

 積み重ね。

 到達。

 そして――俺と同じ大学への合格。

 

 井上さんは、少しだけ息を吐いた。

 ほんの一瞬だけ、肩の力が抜ける。

 それを見て、俺は初めて実感した。

 ――ああ、こいつもちゃんと緊張してたんだなと。


「で」


 井上さんが言う。


「どうするの」

「何が」

「これからのこと」


 当然の質問。

 反射的に俺は話をはぐらかした。


「筑波大に行って医者になって起業するかな」

「……そう」


 その返事に、ほんのわずかに間があった。


「井上さんは?」

「決まってる」


 即答。


「筑波に行く」

「だろうな」


 それは、知っていた。

 あいつは迷わない。

 最初から、そのためにここまで来ている。


「教育学類」

「ああ」

「……同じ大学」


 小さく言う。

 それは確認。

 でも同時に、意味のある事実。

 少しだけ、沈黙。

 周囲では、誰かが小さく笑っている。

 別の場所では、肩を落としている人もいる。

 でも、この空間だけは、妙に静かだった。


「ねえ」


 井上さんが言う。


「なに」

「もしさ」


 少しだけ、視線を外す。


「もし、同じ大学に行くとして」

「……」

「どうするの?」


 その言葉は、曖昧だった。

 でも、意味は分かる。

 “関係”の話だ。


「どうって?」

「そのまま続けるのか」

「……」

「それとも、変えるのか」


 井上さんは、まっすぐ見てくる。

 逃げ場はない。

 でも、責めてもいない。

 ただ、確認しているだけだ。


「……ある程度決まっている……。でも誰も傷ついてもらいたくない」


 正直に言う。


「そう」

「でも」


 一度、言葉を区切る。


「簡単に決めるつもりはない。何回も何回もシミュレーションして最善解を探す」


 井上さんは、少しだけ目を細めた。


「だと思った」


 小さく笑う。


「高松君はそういうやつ……。ねえ」

「なに?」

「私さ」


 少しだけ、声が変わる。


「多分、誰よりも“現実的”だと思う」

「……そう、だな」

「だからさ」


 一歩、近づく。


「期待はしない」


 その言葉は、冷たくも聞こえる。

 でも違う。

 それは“覚悟”だ。


「でも」


 続ける。


「ゼロでもない」

「……」

「そのくらいの位置でいい。断られても関われる距離に居たい」


 それが、井上さんの距離感だった。

 近すぎず、遠すぎず。

 逃げず、縛らず。


「……強いな」

「そうでもない」


 すぐに返す。


「ただ、分かってるだけ」

「何を」

「自分が、どういうタイプか」


 淡々とした口調。

 でも、その裏には積み上げがある。


「私ね」


 井上さんは言う。


「高松君と一緒にいるとき、一番“普通”なんだよ」


「……」


「無理しなくていい」


「……」


「張らなくていい」


 少しだけ、笑う。


「それってさ、結構すごいことだと思う」


 その言葉は、静かに刺さった。


「でも」


 井上さんは続ける。


「それが答えとは限らない」

「……」

「だから」


 少しだけ、距離を取る。


「ちゃんと考えて」


 まっすぐな視線。


「逃げずに」


 その一言で、分かる。

 こいつは――。

 選ばれたいんじゃない。

 “正しく選ばれたい”んだ。


「……ああ」


 短く答える。

 風が吹いた。

 キャンパスの木々が揺れる。

 葉が一枚、落ちる。

 それを見ながら、井上さんが言った。


「もしさ」

「なに?」

「私じゃなかったとしても」

「……」

「ちゃんと納得できる理由、用意して」


 その言葉は、静かだった。

 でも逃げ場はなかった。


「適当に流したら」


 少しだけ笑う。


「たぶん、許さない」


 冗談みたいに言う。

 でも、冗談じゃない。


「……分かってる」


 井上さんは、それ以上何も言わなかった。

 ただ。

 少しだけ、柔らかく笑った。


「じゃあ、また」

「……ああ」


 背を向けて、歩いていく。

 迷いのない歩き方。

 それが、井上さんという人間だった。


 ――強い。

 でも。

 あの一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけ。

 “揺れていた”。


 それを見てしまったから。

 たぶん、俺は逃げられない。

当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
悩んでる、悩んでる。 その上で『答えも、ある程度決まっている』っと言っている。 なら、それは覆る事はないでしょうね。 実際は『ある程度』ではなく。 100%決まってる上で、その言葉を使って先延ばしに…
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