15ー2章 彷徨(さまよい)(2)
十二月の空は、高すぎるくらい高かった。
朝、浦和駅西口へ向かう途中。
吐いた息が白く伸びて、すぐに消える。
冬の空気は輪郭がはっきりしている。
遠くのビル。
駅前ロータリー。
信号待ちをしている人たち。
全部が妙に鮮明だった。
街路樹はほとんど葉を落とし、枝だけになっている。
その隙間から差し込む朝日が、歩道をまだらに照らしていた。
受験の季節だった。
コンビニの入口には『受験生応援フェア』の張り紙。
レジ横にはカロリーメイトと栄養ドリンク。
街全体が、“これから何者になるのか”を問われているみたいだった。
そんな空気の中で。
俺は、少しだけ立ち止まる。
冬の朝独特の、静かな痛みみたいな空気が好きだった。
寒い。
でも嫌いじゃない。
むしろ、この季節になると、自分がちゃんと前へ進んでいる気がする。
もっとも――。
感傷に浸る暇は、今の俺にはあまりなかった。
◇◇◇
放課後。
俺の家。
部屋の窓はうっすら白く曇っていた。
暖房はついている。
でも窓際だけ少し寒い。
机の上には参考書。
赤本。
単語帳。
使い込まれたシャーペン。
ページをめくる乾いた音だけが、部屋へ静かに積もっていく。
井上さんは英語長文を解き、多江ちゃんは数学を整理し、夏村さんは小論文を読み返していた。
そして。
那奈だけが、少し遅れている。
それは誰の目にも分かった。
俺は、シャーペンを置く。
カチ、と小さな音。
それだけで、部屋の空気が少し変わる。
「……話がある」
井上さんが顔を上げた。
「珍しいね。その言い方」
俺は一度全員を見る。
冬の夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
その淡いオレンジ色の中で、俺は静かに言った。
「那奈は、俺が責任持って合格まで連れていく」
一瞬。
空気が止まる。
「……は?」
最初に反応したのは井上さんだった。
「急に重いんだけど」
「重いのは分かってる」
「いや、そういう問題じゃなくて」
多江ちゃんも静かに視線を向ける。
「……どういう意味?」
俺は落ち着いた声で言う。
「今、一番手を離したらダメなのは那奈だから」
那奈が目を見開いた。
「……え?」
「井上さんはもう自分で勉強回せてる。多江ちゃんも同じ」
二人が黙る。
否定できない。
「夏村さんも模試判定は十分ある。TOEICも武器になる」
夏村さんは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「でも那奈だけは違う」
窓の外では、夕方の風に電線がわずかに鳴っていた。
「二学期から本格受験始めた時点で、時間が圧倒的に足りない」
那奈は唇を噛む。
それは本人が一番分かっていた。
周囲が受験へ向かっていく中、自分だけが取り残されている感覚。
参考書を開いても、何をやればいいのか分からない恐怖。
夜、布団へ入った瞬間、“もう無理なんじゃないか”と思ってしまう感覚。
それを、那奈はずっと抱えていた。
「だから、ここからは俺が最後まで見る」
俺の声は静かだった。
でも、その言葉だけ妙に重かった。
軽い励ましじゃない。
逃げない宣言だった。
「ちょっと待って」
井上さんが言う。
「それって、夏村さんより優先するってこと?」
「そうなる」
「……」
部屋が静かになる。
俺と夏村さん。
二人の関係は、“夏村さんを大学へ合格させる”という約束から始まっている。
だから、その優先順位を変えることの意味は大きかった。
「かずや」
夏村さんが口を開く。
俺が視線を向ける。
「俺のことは大丈夫だよ」
その一言に、空気が変わる。
俺は少しだけ目を見開いた。
一年の頃なら、夏村さんは絶対こんなことを言わなかった。
隣にいてほしかった。
独占したかった。
でも今は違う。
「模試も取れてる。TOEICもある。前みたいに何も分かんねぇ状態じゃない」
夏村さんは少し笑う。
「だからさ」
一拍。
「俺の力が必要なやつが頼ればいい」
冬の夕方の光が、夏村さんの横顔を淡く照らしていた。
その顔を見た瞬間。
俺は、胸の奥が少しだけ熱くなる。
夏村さんは変わった。
支えられる側から、支える側へ。
それが、嬉しかった。
「……ありがとう」
「礼はいらねぇよ」
夏村さんは肩をすくめる。
「その代わり、那奈は絶対受からせろよ」
「当然」
「落としたら承知しねぇからな」
那奈は、そのやり取りを黙って見ていた。
少しして。
「……なんかさ」
小さく言う。
「めちゃくちゃプレッシャーなんだけど」
井上さんが吹き出した。
「そりゃそうでしょ」
「いやマジで無理なんだけど!」
「でも」
多江ちゃんが静かに言う。
「高松くんがそこまで言うってことは、本気なんでしょ」
俺は頷いた。
「責任持つ」
その言葉は、部屋の空気へ静かに沈んでいった。
◇◇◇
そこから、那奈は変わった。
最初は酷かった。
「むりー」
「覚えらんない」
「英単語死ね」
そんなことばかり言っていた。
ノートの端には落書き。
集中は十五分続かない。
シャーペンを回し始めたと思ったら急に別の話をする。
アイドル時代の癖なのか、“空気”で乗り切ろうとする部分が残っていた。
でも。
少しずつ変わる。
「今日はここまでやる」
「この問題、なんでこうなる?」
「英語、昨日より聞こえた」
自分から言うようになる。
冬が深くなる頃には、俺が来る前に机へ向かっている日も増えていた。
窓の外では、夕方になるのが早くなっていく。
午後五時には、もう空が青黒い。
その薄暗い部屋の中で、うちの教室だけが蛍光灯に照らされていた。
俺はある日、その姿を見て言った。
「……変わったな」
那奈はシャーペンを回しながら笑う。
「誰のせいだと思ってんの」
「知らん」
「うわ、最低」
でも、笑っていた。
その笑顔には、二学期初めにあった“空っぽ感”が少しずつ消えている。
未来を考える人間の顔になっていた。
◇◇◇
共通テスト当日。
朝からニュースは受験特集だった。
駅には受験生。
コンビニにはカイロ。
電車の中には単語帳を握る高校生。
空気そのものが張り詰めている。
でも。
俺の部屋だけは妙に静かだった。
那奈は共通テスト利用ではない。
俺も当然共通テストの受験は辞めた。
だから今日は普通に勉強していた。
窓の外では、曇った冬空が街を覆っている。
時折、風が窓を揺らした。
「……みんな、今ごろ戦ってるんだよね」
那奈がぽつりと言う。
「ああ」
「なんか不思議」
「なにが」
「去年まで、自分が大学受験するとか考えてなかったから」
俺は少し黙る。
アイドルを辞めたあとの那奈を思い出していた。
夢もない……アイドルとしての人気がなく自分からあきらめていた。
進路もない……得意のダンスでダンサーの道を選ぶも仕事はなし。
何もない。
そんな顔をうちの高校に転校してきた。
でも、今は違う。
那奈は、自分の未来を見始めている。
窓の外では、冬の空が少しだけ明るくなっていた。
春はまだ遠い。
でも、季節は確実に動いていた。
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