第十八話 少女が売ろうとした銀の髪飾り
ベルクの水の問題が少し落ち着いた頃、フィアが俺を訪ねてきた。
手には小さな布包みを握っている。
「これ、買ってくれる?」
布の中には銀色の髪飾りがあった。
飾りの端に、小さな花が彫られている。
「どうしたの、これ」
「お母さんの形見。街で売れば、弟の薬が買えるかなって」
俺は返事に詰まった。
リーナの診察で弟の熱は下がり始めたが、体力はまだ戻っていない。
必要な薬と栄養のある食事には費用がかかる。
「俺が買うよ」
と言いかけた。
しかし、そこで止まった。
形見を手放したいわけではないはずだ。
困っているから、他に方法がないと思っている。
「本当に売りたい?」
フィアは首を振った。
「でも、弟がまた苦しくなったら嫌だ」
「じゃあ、売る前に別の方法を探そう」
俺はリーナとマルタに相談した。
医療費を無条件で俺が払い続ければ、すぐに資金が尽きる。
だが今必要な治療を遅らせるわけにもいかない。
「共同の救急費を作れないかしら」
リーナが提案した。
「現金がない人は、後でできる仕事で返す仕組み。ただし、返せない人を治療から締め出さないこと」
マルタは頷いた。
「村に残るわずかな金を集めよう」
「その金は冬の薪代でしょう」
俺が言うと、マルタは笑った。
「冬に生きているために使うんだ。無駄ではない」
それでも足りない分を補うため、俺は街の薬屋と交渉した。
薬屋の主人は難しい顔をした。
「掛け売りはできん。前にも踏み倒された」
「現金で一部を払います。残りは、次の木工品の売上から直接お支払いします」
「保証は?」
俺は北の市場で受け取った注文書を見せた。
納品後の支払予定額と日付が書かれている。
主人はしばらく計算し、言った。
「全額は無理だが、半分なら待てる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。約束の日に払ってくれ」
ベルクへ戻ると、フィアは井戸のそばで水汲みを手伝っていた。
俺は髪飾りを返した。
荷台を洗ったあと、俺は濡れた麻袋を干す場所を探した。
乾かす順番で揉めた二人に、ハンスが袋の持ち主ではなく中身の傷み具合を見せた。
俺たちは傷んだものを先に調べ、食べられる量だけを次の便に記した。
俺は帳面をハンスの方へ向け、どの荷を先に出すか相談した。
帳面に数字を書くたび、そこに暮らす人の顔が浮かんだ。
ミリが一人で背負わずに済むよう、畑の当番を大人たちで組み直した。
トトは銀の髪飾りを売ろうとした少女の名を忘れないよう書き留めた。
俺は寄付の記録とは別に、本人へ返す品の欄を作った。
「まだ売らなくていい」
「でも、お金は?」
「村のみんなで、急に病気になった人を助けるお金を作ることになった。弟もそこから支えてもらえる」
フィアは髪飾りを握りしめた。
マルタが救急費の箱を開くと、硬貨は思ったより少なかった。
村の老人が
「病人の家だけ使うなら、俺は出さん」
と言う。
フィアは髪飾りを握り直した。
俺は彼女が差し出す前に首を振り、
「病気になった順に借金を背負わせる仕組みにはしません」
と答えた。
リーナは薬代の支払い先と期限を板に書き、マルタは毎月の収支を村会議で確認すると約束した。
老人はしばらく黙ってから銀貨一枚を置いた。
「俺が倒れたときも、同じようにしてくれ」
フィアの指からようやく力が抜けた。
「私も返せる?」
「大きくなってからでいい。今はちゃんと食べて、寝て」
「何もしないのは嫌」
俺は少し考えた。
「じゃあ、配給の札を数えるのを手伝ってくれる?」
「できる!」
彼女は嬉しそうに頷いた。
その日の夕方、フィアは配給所の前で札を並べた。
字の読めない老人には、トトが名前を読み上げた。
「おじいちゃん、今日はこっちの列だよ」
「ありがとうな」
フィアは照れくさそうに笑った。
俺はその様子を見ながら、帳面に新しい欄を作った。
『緊急支援費』
支出した金額だけでなく、誰が承認し、いつ精算するかを書く。
返済できない人が責められないよう、個人名の扱いにも気をつける。
だが翌朝、村の掲示板に紙が貼られていた。
『外部の運び屋は、村人を借金漬けにしている』
差出人は書かれていない。
ハンスが紙を剥がそうとした。
「待って」
俺は止めた。
「疑問があるなら、説明できるようにしておこう」
広場で帳面を公開し、救急費の仕組みを説明した。
患者の病名や名前は伏せ、収支だけを見せた。
「金を貸して支配するつもりはありません。もし俺が約束を破れば、村の会議でこの仕組みを止めてください」
沈黙のあと、最初に手を挙げたのはフィアだった。
「私、札を数えてる。お兄ちゃんは、誰にもお金を払えって怒ってない」
マルタが静かに頷いた。
救急費の相談では、返済の条件を巡って意見が割れた。
働ける者だけが返すなら、不公平だという声が出た。
だが、病人や老人まで同じ仕事を求めれば、助けるための制度が罰になってしまう。
俺は村人に決めてもらうことにした。
金を出せる者は金で、仕事ができる者は仕事で、何もできない者は返済を求めない。
その代わり、収支は定期的に確認する。
マルタは
「これは貸し借りだけの話ではない」
と言った。
「明日、誰が倒れるか分からない村の約束だ」
その言葉に、反対していた老人も静かに頷いた。
「なら、わしら自身で確かめ続けよう」
誰が紙を貼ったのかは分からなかった。
それでも俺は、信頼は感謝の言葉だけでは守れないと知った。
仕組みを誰でも確かめられるようにすること。
薬屋を出ると、フィアが髪飾りを差し出した。
「これを預ければ、薬を先にもらえる?」
俺は首を振った。
「形見を担保にする約束はしない。薬の支払いは大人たちが引き受ける」
「でも、私だけ何もしないのは嫌」
「なら、弟が良くなってから、やりたい仕事を選ぼう。薬の代金を返すためじゃなく」
その晩、フィアは弟の額に濡れ布を置いた。
「お母さんの髪飾り、売らなかったよ」
弟は目を開け、かすれた声で言った。
「よかった。姉ちゃん、ずっと触ってたから」
フィアは笑いながら泣いた。
俺は戸口から離れた。
助けたことを見届けるために、家族の涙まで自分のものにする必要はなかった。
それが、次の配達を続けるために必要だった。
少女は髪飾りを包み直し、商人に差し出す手を引っ込めた。
「売らない。
でも、母さんの形見を守るために誰かを飢えさせたくもない」
その言葉を聞いた老人が、古い針箱を持ってきた。
村の衣服を繕う仕事なら、少しずつ対価を払えるという。
少女は針を握ったが、最初の縫い目は曲がった。
笑う者はいなかった。
翌日、彼女が直した上着を着て、配達の御者が出発した。
飾りを売らずに済んだことより、少女が自分の手で明日の食事に近づいたことが嬉しかった。
フィアが縫い直した布袋を、俺は配給所で受け取った。
縫い目はまだ不揃いだったが、底の二重縫いは丈夫だった。
「これなら豆を入れても破れない」
フィアは髪飾りを指で確かめ、今度は弟の薬代をどう記録するか自分から尋ねた。
俺は支援の帳面と仕事の賃金帳を分けて見せた。
助けてもらった分を働いて返さなければならないわけではない。
けれど働いた対価は、誰にも遠慮せず受け取っていい。
彼女は少し考え、賃金帳に自分の名をゆっくり書いた。
マルタはフィアの縫った袋を、他の職人の品と同じ棚に並べた。
「今日は三枚売れた。代金はこの通り。残った袋は次の市まで預かる」
フィアは硬貨を受け取ると、すぐには握らなかった。
「これを薬代にしてもいい?」
「好きに使っていい。でも弟の診察を受ける条件じゃないよ」
とリーナが答えた。
少女はやっと息を吐き、髪飾りを胸元へ戻した。
母の形見を売らずに済んだだけではない。
自分で選べるお金が初めて手に入ったのだ。
翌朝、フィアは弟の枕元に縫いかけの小袋を置いた。
「これ、まだ売り物にならないけど、薬を入れられるよ」
弟は細い指で縫い目をなぞった。
「姉ちゃんが作ったの?」
「うん。失敗したところは直すんだって」
「じゃあ、僕が元気になったら、糸を切る係になる」
フィアは笑った。
弟の熱はまだ完全には下がっていない。
だからリーナは診察を続けるし、村の支援も止めない。
フィアは髪飾りを掌に載せたまま、売り場の前で動けなかった。
それは母が最後に結ってくれた日の形を覚えている品だった。
弟はそれを見て
「売らなくても、僕は姉ちゃんのこと分かるよ」
と言った。
フィアは弟の額に手を当て、熱が下がったら一緒に行きたい店の名を小声で教えた。
髪飾りを差し出した少女の手を、母親がそっと押し戻した。
売るかどうかを決める前に、俺は今夜の食事と明日の働き口を別々に探した。
フィアは銀の髪飾りを結い直し、弟の額に触れて仕事場へ向かった。
弟は戸口に椀を二つ並べた。
姉が帰ってきたとき、二人で食べるためだった。




