第一話 役立たずの保存倉庫
「食料しか入らない倉庫だと?」
王の声が謁見の間に響いた。
俺は目の前の半透明な表示を見つめていた。
【保存倉庫/容量五百キログラム/食料・飲料のみ/収納中の劣化停止/生成不可】
俺の名はタクト。
日本では食品卸の配送管理をしていた。
異世界の神様がくれたのは、ずいぶん職歴に忠実な能力だった。
「勇者として戦えるのか」
「戦闘能力はありません。ただ、保存と輸送には――」
「ならば無用だ」
宰相が言葉を切った。
「戦時の国庫に余裕はない。銀貨三枚を与える。城から去れ」
周囲の貴族は笑った。
「荷車以下の勇者だ」
俺は怒りより先に、彼らが食料を軽んじることに驚いた。
軍隊だって食べなければ戦えない。
それを説明する相手は、もうこちらを見ていなかった。
門の外へ出されると、街には焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
立派な城壁の下で、痩せた子供が店先の屑を拾っている。
店主は追い払った。
子供は抗議もせず、次の店へ歩いていった。
俺は市場の値札を見た。
パン一個が銅貨十二枚。
銀貨一枚は銅貨百枚。
安宿が一泊三十枚。
手元の金は、食事と寝床で数日もすれば消える。
「昨日の売れ残りはありますか」
パン屋の親父は怪訝な顔をした。
「硬くて客には出せねえぞ」
「十個で銅貨二十枚なら買います」
「全部持っていけ。捨てるよりましだ」
袋を受け取って路地へ入り、能力を試した。
袋が手から消え、表示の残容量が減った。
取り出してもパンは硬いまま。
収納前の状態が保たれている。
便利だ。
だが、硬くなったパンを柔らかく戻すことはできない。
保存倉庫は奇跡ではなく、道具なのだ。
市場で俺はもう一つ、奇妙な光景を見た。
魚屋が売れ残りを木箱に積み、通りの外へ運んでいたのだ。
「それは捨てるんですか」
「夕方には臭くなる。仕方ない」
「安く売ることは?」
「値下げを待つ客が増えたら、朝の値段で買う客がいなくなるだろう」
店主は当然のことのように言った。
俺は反論しなかった。
商売には商売の事情がある。
売れ残りを無償で渡せば済むという話でもない。
ただ、売れない食料と買えない人が同じ通りにいる。
その距離が、俺にはひどく遠く見えた。
市場の掲示板には、王国軍への納入を優先するという布告が貼られていた。
干し肉、豆、麦。
軍が買い上げるため、民間の価格が上がっているらしい。
「戦争中だからな」
掲示板を読んでいた老人が言った。
「南は豊作だったそうだが、ここへ運ぶには峠を二つ越える。途中の通行料で値段が倍になる」
「南の村は余っているんですか」
「余っている村もある。だが、余ったからといって無料で配れるわけじゃない。来年の種も税もいる」
俺は答えを急がず、目の前で確かめた事実から次の手を考えた。
どこかの食料を奪って別の場所へ運ぶだけでは、救済にならない。
余剰を適正な価格で買い、輸送費を抑え、必要な場所へ届ける。
日本で当たり前にやっていたことが、ここでは難しい。
「お兄さん、字が読めるのかい」
老人に尋ねられた。
「ええ。不思議とこの世界の文字は読めます」
「なら、あの荷運びの募集を見てみな。力仕事だが、食事は出る」
俺は掲示板を見た。
日当は銅貨四十枚。
ただし荷車を持参すること、とある。
荷車がない。
馬もいない。
住所も保証人もない。
能力だけでは生活できないという現実が、容赦なく並んでいた。
それでも、配送という仕事の形はある。
街道も、市場も、需要もある。
俺が知らないのは、この世界でそれらを結ぶ方法だ。
「ありがとう。まずは町のことを調べます」
老人は手を振って去った。
宿を探していると、道端で少年が崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か」
「……お腹、空いた」
頬はこけ、指先は冷たい。
意識はあるが、立てない。
俺は近くの食堂で湯を分けてもらい、黒パンを細かくちぎって浸した。
「急がず食べて。喉につまらせるな」
少年は一口食べ、泣いた。
「甘くないのに……おいしい」
「名前は?」
「トト」
「家は?」
「ラトナ村。母ちゃんが寝込んでる。村長が食べ物を買いに行けって……でも、銅貨が足りなかった」
大人が子供を一人で送り出したのか、と腹が立ちかけた。
だが少年の靴底は擦り切れ、荷物は空だった。
村には送り出せる大人も金も残っていないのかもしれない。
「ラトナ村には何人いる」
「四十七人。前は五十人いた」
前は、という言い方が胸に刺さった。
「畑は?」
「夏に雨が降らなかった。井戸も浅くなった。商人が来なくなった」
市場には食料がある。
ここから歩いて一日半の場所では、人が飢えている。
足りないのは食料だけでなく、届く道と買える値段だった。
「トト、明日、村へ案内してくれ」
少年が目を丸くした。
「食べ物、持ってきてくれる?」
「少しだけな。四十七人分には到底足りない。だから村の状況を見て、次を考える」
安請け合いはできなかった。
できない約束ほど、飢えた人間を傷つけるものはない。
トトは器の底に残ったパン屑を指で集めた。
「母ちゃんに、持って帰ってもいい?」
「明日はもっと持っていこう。これは今、君が食べて」
彼はしばらく迷ってから、最後の一口を食べた。
宿の主人に街道の治安を聞くと、夜間は盗賊が出るという。
俺は夜に歩かないと決めた。
食料を持っていることを知られれば狙われるかもしれない。
能力を隠すべきか、協力者に説明すべきか。
答えはまだ出ない。
ただ、知らない土地で無理をしないことだけは決めた。
俺は掲示板の場所を覚え、宿へ向かった。
役立たずと言われた日だったが、何も学べなかった日ではなかった。
宿の主人には、明朝の買い出しに使える店を尋ねておいた。
そのとき、宿の入口で、昼間に店先を追い払われた別の子供が、空の木箱を抱えて立っていた。
トトより少し年上に見える。
「明日もここに来るのか」と聞くと、子供は首を振った。
「弟が南門の外で待ってるはずなんだ。でも見つからない」
俺は買ったパンを差し出しかけ、手を止めた。
手元のパンを渡すだけでは、弟がどこにいるのか分からないままだ。
「弟は今夜、どこで寝るんだ」
子供は南門の外を指した。
俺は宿の主人に事情を話し、残りの硬いパンを兄弟二人分として預けた。
主人は顔をしかめたが、門番に声をかけて弟を探してくれると言った。
夜の街道へ飛び出せば、トトもラトナ村も救えなくなる。
弟を捜すのは宿の主人と門番に託し、翌朝、無事を確かめてから村への荷を整える。
宿代を払う手が震えた。
明朝、二人の無事を宿の主人に確かめてから村へ出発しよう。
その晩、トトは宿の隅で眠りながら
「母ちゃん、先に食べて」と呟いた。
俺は銀貨を机に並べた。
帰りの宿代を残せば、村へ持っていける食料は減る。
残さなければ、帰る場所を失うかもしれない。
銀貨を一枚、明日の食料代として脇へ寄せた。
だが明日の帰り道を失うわけにはいかない。
宿の主人に安い相乗り便を尋ね、帰路に必要な費用を確かめた。
荷車に乗れる区間と歩く区間も聞き、無理のない帰路を考えた。
「お兄ちゃん、帰れなくなるよ」
いつの間にか目を覚ましたトトが、震える声で言った。
「帰りの便は調べた。必要な金は残して、村の食料を買う」
「……母ちゃんにも、パンある?」
「ある。ただ、四十七人全員の腹を満たすには足りない。村で一緒に方法を探そう」
トトは眠る前、俺の手に小さな木の実を一つ押しつけた。
「お兄ちゃんも食べて」
腹を空かせた子供が差し出した最後の食べ物だった。
俺は木の実を受け取り、半分に割って二人で噛んだ。
甘くもない実なのに、王宮のどんな褒美より重かった。
明日の豆と麦は、夜明けに市場で買う。
四十七人の腹を満たすには足りない。
村に着いたら、足りない分を村人と一緒に考えよう。
俺が灯りを落とすと、眠っていたトトの手が、そっと俺の袖を握った。
王宮を出たとき、俺の手には何も残っていないと思っていた。
その小さな手を起こさないように、俺は夜明けを待った。




