第九十九話
週末の土曜日。秋晴れの高く澄んだ空の下、三神家のインターホンが控えめに鳴った。
休日の昼下がり、リビングでスーパーの特売チラシの整理をしていた三神零が、「はーい」と声を上げて玄関のドアを開ける。
「こんにちは、三神くん。休日に突然ごめんなさい」
「……羽衣さん? どうしたんですか、今日は」
そこに立っていたのは、私服姿の日本トップエース——羽衣緋雪だった。
秋らしい上品なベージュのトレンチコートに身を包み、手には有名洋菓子店の紙袋を提げている。彼女は少しだけ気まずそうに、しかしその頬を微かに桜色に染めながら頭を下げた。
「実は今日、三神くんに謝罪しておかなきゃいけないことがあって来たの」
「謝罪、ですか?」
「ええ。うちの情報班の新実少佐が、あなたに失礼な『同意書』を送りつけた件よ。それに、修学旅行先の京都にまで出向いて、あなたに接触しようとしたでしょう? 私がもっと早く上層部に掛け合って、彼女を止めていれば、あなたに怖い思いをさせずに済んだのに……本当にごめんなさい」
緋雪は深々と頭を下げた。
(京都で由鶴少佐を返り討ちにしたのは福音の鐘のルディアだし、俺はまんまと逃げおおせたから全然怖い思いはしてないんだけどな……)と内心で思いつつも、零は慌てて手を振った。
「いや、頭を上げてください。俺は別に実害を受けてないですから。同意書も秒でシュレッダーにかけましたし、京都でも……まあ、なんか彼女、大怪我してヘリで運ばれていったみたいですし」
「……ええ。由鶴は今、全身打撲でミイラみたいになって特別病棟に入院中よ。だから、当分はあなたにちょっかいをかけることはできないから、安心してちょうだい」
「それは何よりです。……わざわざその報告と謝罪のために来てくれたんですか?」
「え、ええ! もちろんよ! 私は協会を代表して、一般市民であるあなたに……その、誠意を見せようと思って……!」
緋雪はキリッとした表情を作って言い切ったが、その瞳はチラチラと零の顔を盗み見ている。
大義名分は『協会としての謝罪』。
しかし、彼女の内心の七割以上を占めていたのは、『堂々と三神家を訪問して、零に会える!』という、極めて邪(不純)な乙女の下心であった。
(や、やったわ……! 謝罪という名目で、彼の家に上がれる自然な口実ができた! 今日の私服、彼好みか分からないけど、三時間も悩んで選んだし……!)
内心でガッツポーズを決める日本トップエース。世界を救う氷の女王も、恋する高校生の家を訪問する前ではただの純情な少女である。
「立ち話もなんですから、上がってください。お茶でも淹れますよ」
「い、いいの!? お邪魔します!」
零が招き入れると、緋雪は嬉しさを隠しきれない様子で、小走りで玄関を上がった。
リビングに入ると、キッチンの方から「あらあらー!」と、すっかり聞き慣れた明るい声が響いてきた。
「緋雪ちゃんじゃない! いらっしゃい! またうちの零に会いに来てくれたのねぇ!」
「あ、お母様! こんにちは! これ、つまらないものですが……」
「まあ、有名なお店のケーキ! ありがとうねぇ。ねえあなた、零の彼女の緋雪ちゃんが来てくれたわよー!」
奈々美の声に、庭に通じる窓際のソファから「おおっ!」と野太い声が上がった。
そこに座っていたのは、スポーツ新聞を読みながら缶ビールを飲んでいた、大柄で豪快な雰囲気の男性——零たちの父親である三神五郎だった。
「おお! 母さんからいつも話は聞いてるぞ! 君がうちの零の彼女さんか! よく来てくれたな、歓迎するぞ!」
「ち、違う父さん! 羽衣さんは彼女じゃなくて、ただの知り合いの……!」
零が全力で否定するが、五郎はガハハと笑って全く聞く耳を持たない。
「照れるな照れるな! こんなべっぴんさんを連れてくるなんて、俺の若い頃にそっくりだ!」
「は、はじめまして、お父様……! 羽衣緋雪と申します!」
「うむ! 礼儀正しくていいお嬢さんじゃないか! よし、母さん! 今日は天気もいいし、お客さんも来たんだ。昼飯は庭で『バーベキュー』にするぞ!!」
五郎の唐突な鶴の一声に、リビングの空気が一気に活気づいた。
三神家の父親である五郎は、平日は仕事で帰りが遅いが、休日は家族サービスを全力で楽しむタイプの豪快な男なのだ。
「いいわねバーベキュー! お肉も野菜も冷蔵庫にいっぱいあるし!」
「マジで!? ヤッター!」
「お父さん最高!」
奈々美が賛同し、二階から降りてきた澪と玲奈も歓声を上げる。
もはや零の意見など入り込む余地はない。三神家の休日の予定は、瞬く間に『庭でのBBQ大会』へと決定してしまったのである。
「えっと……私、お邪魔じゃありませんか……?」
緋雪がオロオロと遠慮するが、五郎がドンッと胸を叩いた。
「なにを水臭いことを! 緋雪ちゃんも遠慮せず、腹いっぱい食っていきなさい! よし零、お前は緋雪ちゃんと一緒に、台所で野菜と肉を切ってこい! 俺は庭で炭火を熾す!」
「……はあ。分かりましたよ」
零は深くため息をつきつつも、主夫としてのスイッチを切り替えた。
なんだかんだ言っても、野外でのBBQは嫌いではない。それに、冷蔵庫で少し期限が近づいていた野菜の一斉消費にもちょうどいい。
「羽衣さん、無理しなくていいですよ。リビングで座って待っててください」
「ううん、私にも手伝わせて! ほら、謝罪に来たのにご飯だけご馳走になるわけにはいかないし!」
緋雪が目をキラキラさせて身を乗り出してくる。
奈々美が「じゃあ緋雪ちゃん、私のエプロン貸してあげるわね」と、ピンク色のフリルエプロンを持ってきた。
トレンチコートを脱ぎ、フリルのエプロンを身につけた銀髪の美少女。そのあまりの破壊力に、零は思わず「……似合ってますね」と呟いてしまった。
「ほ、本当!? えへへ、ありがとう……!」
緋雪は顔を真っ赤にして、エプロンの裾をギュッと握りしめた。
三神家のキッチン。
零はいつもの黒いエプロン姿で、手早く冷蔵庫から食材を取り出していく。
玉ねぎ、ピーマン、カボチャ、トウモロコシ。そして、特売で買い溜めしておいた厚切りの牛カルビと豚バラ肉だ。
「よし。羽衣さん、ピーマンの種取りと玉ねぎの輪切りをお願いできますか? 俺は肉の下処理とカボチャを切りますから」
「ええ、任せて!」
緋雪は気合十分に包丁を握った。
かつての彼女の料理スキルは、文字通り『壊滅的』であった。しかし最近は、三神家のキッチンに立つ日を夢見てこっそり料理教室に通い、少しだけ技量を向上させていたのだ。
トントントンッ!
不器用ながらも、教わった通りに左手を猫の手にして、少しずつ玉ねぎを輪切りにしていく緋雪。以前なら二ミリと三センチが混ざるような惨状だったが、今はゆっくりとだが着実に均一な幅で切り進めている。
「お、随分上達しましたね、羽衣さん。いい感じです」
「ふふん、でしょ? 最近、ちょっとだけ練習してるのよ」
褒められて嬉しそうに微笑む緋雪だったが——続くカボチャとなると、少し勝手が違った。
「じゃあ、次は私、このカボチャを切るわね!」
「あ、羽衣さん。カボチャは硬いから気をつけて……って、待ってください羽衣さん!!」
緋雪がカボチャに向かって包丁を振り上げた瞬間、彼女の手元から『チリッ』と絶対零度の冷気が漏れ出した。
硬いカボチャを前に、料理教室では絶対に教わらない『魔獣の甲殻を斬る時の癖』が無意識に出てしまい、包丁の刃に氷の魔力をエンチャント(付与)しようとしてしまったのだ。
「日本刀の素振りじゃないんですから、魔力はしまってください! カボチャがシャーベットになっちゃいます!」
「ああっ、ご、ごめんなさい! つい癖で……っ!」
慌てて魔力を引っ込める緋雪。
零は苦笑しながら、緋雪の手からそっと包丁を取り上げた。
「カボチャみたいな硬いものを切る時は、力任せに刃を入れると滑って危ないんです。包丁の背に左手を添えて、テコの原理を使って体重を乗せるように……こうです」
ザクッ、と音を立てて、硬いカボチャが綺麗な半月切りにされていく。
隣でその手際を見つめていた緋雪は、カボチャよりも、真剣な横顔で料理をしている零の姿に完全に釘付けになっていた。
(……素敵だなぁ。それに、こうやってキッチンで並んでると……まるで、新婚さんみたい……っ!)
緋雪の脳内で、とてつもなく都合のいい妄想が暴走を始める。
同じキッチンに立ち、肩が触れ合うほどの距離で、エプロン姿で共同作業。これが恋人同士の休日の姿でなくてなんだと言うのか。
「よし、野菜はこんなもんですね。あとは肉に隠し包丁を入れて……羽衣さん? どうしたんですか、顔が真っ赤ですよ? 玉ねぎが目に染みましたか?」
「な、なんでもないわっ! お、お肉の準備、私も手伝う!」
慌てて顔を背け、緋雪はタッパーに入った牛肉を並べ始めた。
その間も、零は、肉の筋を見極めて包丁を入れていく。このひと手間があるだけで、特売の安い肉でも高級焼肉店のような柔らかさに化けるのだ。
「おーい! 炭の準備できたぞー! 肉はまだかー!」
庭から五郎の豪快な声が響く。
「今持ってく!羽衣さんお皿運ぶのお願いできますか」
「ええ!」
零と緋雪が、山盛りの肉と野菜が乗った大皿を持って庭に出る。
三神家の庭には、すでに折り畳み式のアウトドアテーブルと椅子がセットされ、バーベキューコンロでは真っ赤に熾った炭がパチパチと心地よい音を立てていた。
「おっ、さすが零! いい手際だ! さあ緋雪ちゃん、ドンドン焼いて食ってくれ!」
「はいっ! いただきます!」
ジュワァァァァッ!!
網の上に肉を乗せると、食欲をそそる脂の焼ける音と香ばしい煙が立ち上る。
五郎は缶ビールを煽り、澪と玲奈は「お肉! お肉!」とはしゃぎながらタレの準備をしている。
「ほら、羽衣さん。まずはこのカルビからどうぞ。焦げる前に」
「ありがとう、三神くん。……んんんっ!?」
焼きたての肉を一口食べた緋雪が、目を丸くして固まった。
「美味しい……! お肉がすごく柔らかくて、タレの味がしっかり絡んでる! スーパーのお肉って聞いてたのに、全然そんな風に思えない!」
「筋切りをしっかりやって、タレにすりおろしたリンゴとニンニクを少し混ぜて揉み込んでおいたからな。柔らかくなってるはずですよ」
ドヤ顔で解説する零を横目に、奈々美がニコニコと笑いながら言う。
「ふふっ、緋雪ちゃん、いっぱい食べてね。うちの零、将来絶対にいい主夫になると思うのよ。緋雪ちゃんなら、お母さん大歓迎だからね!」
「母さん! だから変な誤解を招くようなこと言うなって!」
零がツッコミを入れるが、緋雪は顔を赤くしながらも、「はいっ! 私、三神くんのご飯、世界で一番美味しいと思います!」と元気よく答えてしまった。
「ガッハッハ! いいぞいいぞ、若いってのは素晴らしいな!」
五郎が大笑いし、家族全員の笑い声が庭に響き渡る。
秋の爽やかな風が吹き抜ける中。
魔法少女協会のトップエースである緋雪は、すっかり三神家の家族の輪の中に溶け込み、満面の笑みでバーベキューを満喫していた。
由鶴の暴走による謝罪という大義名分は、いつの間にかどこかへ消え去り、そこにあるのはただの『平和で賑やかな休日の食卓』である。
(……まあ、羽衣さんが楽しそうなら、いっか)
網の上の肉の焼け具合をトングで完璧に管理しながら、零はふっと微笑んだ。
世界の裏側で暗躍する組織の陰謀や、自身の正体バレの危機など、この平穏な家族団欒の前では些細なことだ。
最強の魔法少女(兼・主夫)の休日は、香ばしい焼肉の匂いと共に、穏やかに更けていくのだった。




