第九十七話
週末の握手会から数日が経った、ある平日の夕暮れ。
三神家の二階、零の自室では、シャーペンが紙を走るカリカリという音だけが静かに響いていた。
「……よし。これで数学の課題は終わりだ。次は世界史のレポートだな」
特S級の未登録魔法少女としての顔を持つ三神零だが、その本分はただの男子高校生である。魔獣をワンパンで粉砕できても、学校の宿題が自動で終わるわけではない。
ふう、と息を吐き、机の上のマグカップに手を伸ばした、その時だった。
——ピロピロピロピロピッ!!
部屋に置いていたスマホの『魔獣探知アプリ』が警告音を鳴らした。それとほぼ同時に、一階のリビングからも、協会が支給している正規の端末のアラームが二つ、甲高く鳴り響く。
ドタドタと足音を立てて、姉の澪と妹の玲奈が階段を駆け上がってきた。二人とも、すでに訓練校の制服に着替えている。
「零! 近くのショッピングモールに魔獣が出たみたい! 近くにいる正規の魔法少女が少ないから、訓練生にも避難誘導とサポートの緊急要請が出たわ!」
「お兄ちゃん、夕飯までに帰ってくるからね!」
「お、おい待て! サポートって言っても危険だぞ。それに今日は……」
零が止める間もなく、意気揚々とした姉妹は嵐のように家を飛び出していってしまった。
残された零は、急いで自分のスマホの探知アプリを確認する。自作の非正規アプリゆえに、協会のレーダーよりも早く、そして正確に魔獣の『居場所』を割り出すことができるのだ。
「……冗談だろ」
画面に表示された波長の解析結果を見て、零の顔からサッと血の気が引いた。
ショッピングモールに出現したのは、ただの雑魚ではない。特A級——それも、非常に硬い装甲と凶暴性を持つ『重装甲型』の魔獣だ。
協会のシフト表によれば、現在あのエリアのパトロールを担当しているのは、先日デビューしたばかりの新人・星宮きらり(伍長)ただ一人。
「……あんな新人の子と、訓練生の姉ちゃんたちだけでどうにかなる相手じゃない。死人が出るぞ!」
誰かの命を——何より、自分の大切な家族を失うわけにはいかない。
零は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、胸のペンダントを強く握りしめた。
漆黒の魔力が全身を包み込み、男子高校生の私服が、白フリルをあしらったゴシックドレスへと変貌する。銀の長髪が闇夜のように黒く染まり、骨格や声帯も再構成され、冷徹な紫の瞳を持つ『本物の美少女』へと変化を遂げる。
「——行くぞ」
ゴーストへと変身した零は、自室の床の影に沈み込み、現場へと直接空間跳躍した。
「キャアアアアッ!」
「逃げろ! 建物が崩れるぞ!」
駅前の大型ショッピングモール。つい数日前、零と稔がカードを買いに来たその場所は、今や阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
全長八メートルを超える、全身を岩のように硬い甲殻で覆われた『重装甲型アルマジロ魔獣』が、強靭な爪でモールの外壁を次々と破壊している。
「みんな、落ち着いて! こっちの非常口から逃げて!」
「押さないでください! 順番に!」
澪と玲奈が、瓦礫の舞う中で必死に市民の避難誘導を行っていた。訓練生とはいえ、日々の厳しい訓練の賜物か、恐怖に震えながらも懸命に声を張り上げている。
そして、その姉妹や市民たちを背中で庇うように立ち塞がっているのが、フリフリの星柄衣装を纏った星宮きらりだった。
「やぁぁぁっ! 【スターライト・アロー】!!」
きらりが杖を振り抜き、無数の光の矢を魔獣に放つ。
しかし、光の矢が魔獣の甲殻に直撃しても、火花が散るだけで傷一つつけられない。
「嘘……! 私の最大出力なのに、全然効いてない……!」
きらりの顔が絶望に染まる。
魔獣が、目障りな光を放つ小さな少女を標的に定め、その巨体を丸めて巨大な岩の砲弾と化し、猛烈な速度で突進してきた。
「きらりちゃん!!」
「危ないっ!!」
澪と玲奈が悲鳴を上げる。
回避する時間はない。後ろにはまだ避難しきれていない市民と、姉妹がいる。自分が躱せば、彼らがミンチになる。
(……ここで、私が止める……!)
きらりは覚悟を決め、光の盾を最大展開して目を閉じた。
——しかし。
いつまで経っても、衝撃は訪れなかった。
「……え?」
恐る恐る目を開けたきらりの視界を覆っていたのは。
闇夜に溶けるような美しい黒髪と、絶対的な威圧感を放つ漆黒のドレスの背中だった。
「——【絶対零度の防壁】」
静かで、冷徹な声。
巨大な岩の砲弾と化した特A級魔獣の突進が、突如として空間に展開された分厚い氷の壁に激突し、凄まじい轟音と共に『完全に停止』させられていた。
「ゴ、ゴースト……さん……!?」
きらりが驚愕に目を見開く。
協会未登録の、特S級の化け物。その黒髪の美少女が、紫の瞳を細めて魔獣を見据えていた。
「下がりなさい、新人。そしてそこの訓練生二人、早く市民を連れて安全な場所へ行きなさい」
ゴーストは、背中に背負った【漆黒の大剣】をゆっくりと引き抜く。
自分の家族が、そして純粋な新人が、今まさに傷つけられようとした。その事実が、特S級の亡霊の心に『完全なる殺意』を呼び覚ましていた。
「硬い装甲を誇っているようだけど……凍らせてしまえば、ただの脆い氷細工と同じよ」
ゴーストが大剣の刀身に、特S級の魔力を限界まで圧縮していく。
周囲の気温が一気に氷点下へと叩き落とされ、アスファルトが凍りつき始める。
「——【深淵なる氷華の檻】」
ゴーストが大剣を一閃した。
大剣の軌跡から放たれた絶対零度の闇の波動が、特A級魔獣を飲み込む。
ピキィィィィィンッ! という澄んだ音と共に、強靭な甲殻を誇っていた八メートルの巨体が、一瞬にして中身まで完全に凍結した氷の彫像へと変貌した。
そして。
カチン、とゴーストが指を鳴らす。
次の瞬間、特A級魔獣の巨体が音もなく崩れ去り、キラキラとしたダイヤモンドダストの粒子となって空中に消え去った。
「……嘘。特A級を、たった一撃で……」
「すごい……」
尻餅をついたままのきらりや、避難誘導をしていた澪と玲奈が、声も出せずにその圧倒的な光景に見惚れていた。
血の一滴すら流させない、完全無欠の討伐。
(よし。これで姉ちゃんたちも安全だ。正体がバレる前に、さっさとズラかろう)
ゴーストは大剣を納め、足元に影のゲートを開いた。
しかし、その時。
「——みんな、大丈夫!? 遅れてごめんなさい!」
上空から、私服姿のまま日本刀を構えた一人の少女が舞い降りてきた。
休日で非番だったはずの日本トップエース——『氷の女王』羽衣緋雪だった。彼女は近所で買い物をしていた最中に警報を聞き、急いで駆けつけてきたのだ。
「ひ、緋雪大佐!」
きらりが安堵の声を上げる。
しかし、緋雪の蒼い瞳は、魔獣が消滅した跡と、そこに佇む漆黒のドレスの少女——ゴーストの姿を捉え、鋭く細められた。
「……またあなたね、ゴースト」
緋雪は油断なく刀の柄に手を掛けたまま、ゴーストと対峙した。
(げっ。よりによって大佐まで来たのか。マジで早く帰らないとボロが出る!)と、ゴーストの内心は焦りでいっぱいである。
「……別に。私はただ、この街の静寂を乱す羽虫を掃除しただけよ」
ゴーストは必死にクールな(中二病的な)声色を作って応えた。
「そう。……とにかく、市民と後輩たちを助けてくれたことには感謝するわ。でも、あなたの正体と目的が分からない以上、協会としては……」
「あ、あのっ!」
緋雪の言葉を遮るように、きらりがふらふらと立ち上がり、ゴーストに向かって声を上げた。
きらりの目は、恐怖ではなく、どこか不思議そうな、戸惑いの色を浮かべていた。
彼女の特異な才能——『オーラ(魔力波長)の質を視覚と温度でなんとなく感じ取る能力【星眼】』が、無意識にゴーストを捉えていたのだ。
最初、ゴーストから感じられたのは、底知れぬほど冷たい、圧倒的な闇のような気配だった。
しかし。魔獣を倒し終え、澪や玲奈の無事を確認して(夕飯の支度に思考が戻り)戦闘用の殺気がスゥッと引いた瞬間。
きらりの【星眼】は、その冷たい闇の奥底に、なんとなく……ぽかぽかとした、あまりにも優しく温かい『温度』を感じ取ったのである。
それは、数日前の握手会で、緊張で押し潰されそうになっていた自分をそっと気遣ってくれた、あの……。
「ゴ、ゴーストさん……間違ってたらごめんなさい。でも、その……すごく、温かくて、安心する感じで……」
「(……ん?)」
「あなたから……あのショッピングモールの握手会に来てくれた、『抹茶クッキーのお兄さん』と……同じような、優しいオーラを感じるんです」
——ピクッ。
ゴースト(零)の背筋が、一瞬だけ硬直した。
「もしかして……あの時のお兄さん……? い、いえ、でもゴーストさんは女の子だし、そんなはずはないんですけど……すごく、似てて……」
きらりは、自分でも突拍子もないことを言っている自覚があるのか、首を傾げながら戸惑うように問いかけてきた。
(えっ!? なんで!?!?)
ゴーストの内部で、三神零の魂が激しく動揺していた。
(なんでそんなこと疑われてんの!? 俺、今は黒髪の美少女だぞ!? 声も体つきも完全に女性化してる本物なのに!! 『なんとなくのオーラ』だけで、あの時の俺と今のゴーストの共通点を見出したっていうのか!?)
凄まじい冷や汗をかきながらも、ゴーストは必死にポーカーフェイスを維持し、鼻で小さく笑ってみせた。
「……何を言っているのかしら。私が男に見えるのかしら?クッキー?お兄さん?なんのことかわからないわね」
「あ、ええと……ですよね。ゴーストさんは女の子だし……気のせい、ですよね。ごめんなさい」
とっさに口から出た痛々しい中二病の誤魔化しに、きらりは「やっぱり私の勘違いか」と申し訳なさそうに身を縮めた。
「ちょ、ちょっときらりちゃん? ゴーストに向かって何を言っているの?」
隣で聞いていた緋雪が、素っ頓狂な声を上げて首を傾げている。澪と玲奈も「ゴーストがお兄さんってどういうこと?」とポカンとしていた。
(よし、誤魔化せた! これ以上ここにいたら、この直感お化けの新人にマジで正体を暴かれかねない……ッ!)
「……無駄話は終わりよ。この街の平穏を乱す者がいれば、私は再び現れる。それだけよ」
ゴーストは冷たい言葉を残し、足元の影のゲートへと沈み込むように姿を消した。
「あっ、待って……!」
緋雪が手を伸ばしたが、特S級の亡霊はすでに夕暮れの街から完全に消え去っていた。
残されたきらりは、ゴーストが消えた空間を見つめながら、小さく首を傾げた。
(気のせい……だよね。でも、本当にあの時のお兄さんと同じくらい、優しくて温かい感じがしたなぁ……)
その日の夜。
自室のベッドの上で、三神零はうつ伏せになり、両手で胃の辺りを強く押さえて項垂れていた。
「……痛ぇ。胃が……キリキリする……」
コンコン、とドアをノックする音が響く。
「零ー? 夕飯できたわよー。早く降りてきなさい」
「……ああ、あとで行く……」
母の呼びかけに力なく応え、零は深く、深くため息をついた。
(ギリギリだった……。協会の情報班のレーダーでも見破れなかった俺の完璧な変身を、デビューしたての新人アイドルの『実家のような安心感』とかいう直感的なオーラ判定で疑われるなんて……)
幸い、きらり自身も「女の子だから違うはず」と自己完結してくれたため、正体バレという最悪の事態は回避できた。
しかし、『ゴースト=抹茶クッキーをくれたお兄ちゃんかもしれない』という疑問を、一瞬でも持たせてしまったという事実が、零の胃をギリギリと締め付けている。
「これからは……あの新人の前では、絶対にオーラ(生活感)を出さないように気をつけよう……」
最強の魔法少女でありながら、ただの心優しい男子高校生である彼が、直感という見えない刃に震えた夜。
カルト組織のSランクを物理で圧倒する特S級の亡霊は、新人アイドルの純粋な疑問によって、見えない胃痛と戦う羽目になったのであった。




