第九十四話
「……素晴らしい。この利尻昆布、肉厚で表面の白い粉の吹き具合も申し分ない。しかも東京のスーパーで買うより三割は安いぞ。おばちゃん、これ五袋もらうよ」
「おおきに、お兄ちゃん! 高校生やのにえらい目利きやねぇ。おまけでちりめん山椒もつけとくわ!」
「マジで!? ありがとう!」
高校二年の秋、修学旅行二日目。
京都の台所と呼ばれる『錦市場』のド真ん中で、三神零はエコバッグをパンパンに膨らませながら、歓喜の声を上げていた。
彼の顔には、金閣寺や清水寺を見た時とは比べ物にならないほどの、純粋で輝かしい青春の喜びが満ち溢れている。
「おい零……お前、ここに来てから昆布と鰹節と湯葉しか買ってねえぞ。どんだけ出汁引く気だよ……俺の木刀買う時間が無くなるだろ……」
その後ろで、修学旅行のしおりを握りしめた親友の狭間稔が、ゲッソリとした顔でツッコミを入れた。
しかし、同じ班の女子たちはホクホク顔である。
「でも、三神くんが交渉してくれたおかげで、私たちもお土産の八ツ橋とかお漬物、すごく安く買えたし! これから行く抹茶パフェのお店も、三神くんのタイムスケジュール通りなら並ばずに入れるんでしょ?」
「ああ。あと五分で移動を開始すれば、第一陣の客が入れ替わる絶好のタイミングに滑り込めるはずだ」
完全に有能なツアーコンダクター(買い出し特化)と化している零に、女子たちは「三神くんイケメン!」と黄色い声を上げる。
(よし、完璧だ。これで家族への土産と、向こう三ヶ月分の最高級の出汁素材は確保した。あとは嵐山の方に移動して、夕飯の湯豆腐の美味い店をチェックすれば……)
零が充実感に包まれながら頷いた、まさにその時。
ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが、ブルブルと激しく振動した。
「ん? 誰からだ?」
画面を見ると、メッセージアプリに通知が来ている。
差出人は『羽衣大佐』と『真奈さん』のグループトークからだった。
『三神くん! ごめんなさい、緊急事態よ! 情報班の由鶴が、出張と称してそっち(京都)に向かったわ!』
『れーお兄ちゃんヤッホー! 由鶴さん、完全にれーお兄ちゃんの特異体質(?)を調べる気満々で新幹線乗ったみたい! 白衣を見かけたらダッシュで逃げてね!(笑)』
『笑い事じゃないわよ真奈! 三神くん、もし彼女が接触してきても、絶対に一人でついて行っちゃダメだからね! 何かあったらすぐに私に連絡して!』
——ピシッ。
零の頭の中で、完璧に組み上げられていた修学旅行の平和なスケジュールが、音を立ててヒビ割れる音がした。
(……は? 新実少佐が、京都に……? 俺を追って……?)
ここ最近の連日の激務(主夫業とカルト組織の殲滅)でただでさえ疲労気味だった零の胃袋に、キリキリとした鋭い痛みが走った。
(なんで修学旅行にまでストーカーしてくんだよあの理系少佐!! こっちはただ、美味しい出汁を取るための昆布を買って、友達と抹茶パフェ食いたいだけの一般の男子高校生だぞ!?)
特S級の亡霊としての正体がバレるのもマズいが、それ以上に「特異体質のモルモット」として解剖・検査の対象にされるのはもっとマズい。日常の完全なる崩壊である。
「お、おい三神、どうした? 急に顔色悪くなったぞ」
「いや……なんでもない。ちょっと、お腹の具合が……抹茶パフェ、俺の分はいいから、お前らで行ってきてくれ。俺は荷物番も兼ねて、少し休んでるから」
「えっ、大丈夫? 薬持ってる?」
「平気だ。ちょっと座ってれば治る」
心配する稔たちをパフェ屋へと押し込み、零は一人、重いエコバッグを提げてふらふらと歩き出した。
情報班トップの索敵能力から逃れるのは至難の業だ。いつどこで白衣の悪魔がエンカウントしてくるか分からない恐怖に怯えながら、零は人目を避けるように路地裏を抜け、近くの静かな足湯が併設されている休憩所へと逃げ込んだ。
「はぁ……胃が痛ぇ……。なんで俺の周りは、面倒な連中ばっかりなんだ……」
休憩所のベンチに腰を下ろし、零は深くため息をついた。
平日の昼下がり、しかもメインの観光ストリートから少し外れた場所にあるため、周囲に人はほとんどいない。
エコバッグを足元に置き、ふと隣を見ると、少し離れたベンチの端に、一人の女性が腰掛けていた。
上質な絹の和服をゆったりと着流している、長い黄金の髪の女性。
しかし、その美しい姿とは裏腹に、首元から覗く白い肌には痛々しい包帯が幾重にも巻かれ、顔の半分も大きな和紙のマスクのようなもので覆われている。
いかにも「大怪我の療養中」といった痛々しい風情だったが、そこから漏れ出る『絶対的な威圧感』と『底知れぬ魔力』の気配は、零の特S級の危機察知能力を即座に作動させた。
(……ん? なんか、この人……どこかで……)
零は、痛む胃を押さえながら、チラリと横目でその女性を観察した。
黄金の髪。大怪我。Sランク相当の魔力の残滓。
——数日前の新月の夜。建設中のビルで、ゴースト(自分)が大剣の平で脇腹の肋骨ごとホームランした、カルト組織『福音の鐘』の絶対的指導者。
(ルディアじゃねえかァァァァァァァッ!!?)
零の心臓が、恐怖と驚愕でドスッと跳ね上がった。
なんでこんな所に!? テロリストの親玉が、なんで京都の町中で優雅に湯治なんかしてるんだ!?
いや、理由は分かる。京都は古くから『気(魔力)』の集まる龍脈の地であり、魔法少女が魔力回路の修復や大怪我の療養に訪れる隠れ里のような温泉宿がいくつも存在している。彼女も、ゴーストに粉砕された肉体を癒やすために、こっそりとこの地に潜伏していたのだろう。
(ヤバいヤバいヤバい!! 協会(新実少佐)から逃げてきた先で、カルトの教祖と隣り合わせになるとか、どんな最悪の引き当ててんだ俺!!)
零は顔面を蒼白にさせ、首の角度を1ミリも変えずに、ジリジリと気配を殺して立ち上がろうとした。
しかし。
「……そこの君。先ほどから、ひどく顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」
鈴を転がすような、しかしどこか人間離れした冷たさを持つ美しい声が、零に投げかけられた。
「ヒッ……!?」
声をかけられた零は、ビクッと肩を震わせた。
ゆっくりと顔を向けると、マスクの奥から覗くルディアの黄金の瞳が、面白そうに零を見つめていた。
「い、いえ! 大丈夫です! ちょっと食べすぎちゃって、胃が痛いだけで……! お気になさらず!」
零は必死に『ただの一般の男子高校生』を演じた。
ルディアはゴーストの正体を知らない。変身前と後では、容姿も声も全く異なる。だから、ここでボロを出さなければ絶対にバレることはないはずだ。
しかし、ルディアは零の顔をじっと見つめたまま、ふっと優雅に微笑んだ。
「そう怯えないでください。私のこの痛々しい姿を見て、驚いてしまったのでしょう? 無理もありません。これは……少しばかり、ひどい暴行を受けましてね」
「そ、そうなんですかー。それは大変ですねー(俺が肋骨フルスイングしたからだけど!)」
「ええ。ですが、この傷は私にとって名誉であり、そして『試練』なのです」
ルディアは、包帯の巻かれた自身の脇腹を、愛おしそうにそっと撫でた。
「私にこの傷を与えたのは、私がこの世で最も敬愛し、待ち望んでいる『神』なのですから」
「……は?」
「神は、魔力を封じられた檻の中で、ご自身の力(物理)の底知れなさを私に身をもって教えてくださった。あの圧倒的な大剣による暴力、そして冷酷な眼差し……あぁ、思い出すだけで打ち震えます。これこそが、偽りの世界を壊す真の救済者の力……!」
恍惚とした表情で、うっとりとゴースト(の物理的折檻)を語り始めるルディア。
隣で聞かされている零は、恐怖よりも『ドン引き』の感情が上回ってしまい、胃痛がさらに悪化した。
(ダメだこいつ、マジで頭おかしい……。俺、完全にゴーストとしてボコボコにしたのに、なんでそんな宗教的な解釈に変換されてんだよ……)
零は乾いた愛想笑いを浮かべながら、少しずつ距離を取ろうとした。
しかし、ルディアはふと真顔に戻り、零の全身を値踏みするように見つめた。
「……不思議な少年ですね、あなたは」
「えっ?」
「あなたからは、魔力の波長が一切感じられない。一般人なら微弱な生命力の揺らぎがあるものですが……あなたにはまるでそれがない、むしろ、周囲の魔力を吸い込んでいるようにすら感じる。隣にいると、ひどく心が落ち着くのです。……まるで、あの神の御前にいる時のように」
ギクリ、と零の心臓が跳ねた。
「い、いやいや! 俺なんてただの高校生ですよ! 修学旅行で昆布買いに来ただけの、超絶平凡な一般人ですってば!」
零は必死にエコバッグの中の利尻昆布を見せつけて、無害な高校生であることをアピールした。
「ふふ、そうですね。ただの修学旅行生に、何を馬鹿なことを……」
ルディアが微かに笑った、その時だった。
「——見つけましたよ。三神零くん」
休憩所の入り口から、カツン、カツン、とヒールの音を響かせて現れたのは。
純白の白衣を羽織り、タブレット端末を片手に持った、新実由鶴少佐であった。
「……げっ」
零の顔から、完全に血の気が引いた。
「いやぁ、探しましたよ。京都の町をうろちょろと……でも、あなたのその特異な『魔力の空白地帯』は、私の探知網からは逃れられません。さあ、修学旅行の自由行動を利用して、私の研究に付き合ってもらいま——」
由鶴の言葉が、ピタリと止まった。
彼女の眼鏡の奥の瞳が、零の隣に座っている『和服の女性』を捉え、限界まで見開かれたからだ。
「……なっ」
由鶴の脳内データベースが、目の前の女性の顔の輪郭、体格、そして微かに漏れ出る魔力波長を瞬時に照合する。
「おや? 協会の猟犬ですか。野暮なストーカーですね」
ルディアもまた、由鶴が魔法少女協会の幹部であることを即座に見抜き、冷たい黄金の瞳を細めた。
数日前の大規模テロの首魁であり、現在全国指名手配中のSランクのテロリスト。
そんな超大物が、なぜか『一般人の男子高校生』の隣で、穏やかにベンチに並んで座っている。
由鶴の理知的な頭脳は、この異常すぎる光景を前に、激しいショートを起こしそうになっていた。
「ルディア・ロンディニウム……! なぜ、あなたが三神くんと一緒にいるのですか!?」
「君は三神くんというのですか。さてなぜ、ですって? ふふ……それは私がお聞きしたいですね。協会の幹部が、こんなただの少年に何の用だと?」
ルディアがスッと立ち上がり、包帯の下から圧倒的な魔力を立ち昇らせた。
由鶴も即座にタブレットを放り捨て、指先に雷の魔力をバチバチと奔らせる。
「(どういうことですか……! 福音の鐘の首魁が、三神くんを匿っている!? いや、それとも……まさか三神くんの特異体質に目をつけ、組織に取り込もうとしている!?)」
「(この女……この奇妙なほどに心が安らぐ少年を、拉致しようというのですね。神が愛したこの世界で、私のお気に入りの安らぎの時間を邪魔するとは……万死に値します)」
互いに完全に明後日の方向の勘違いをこじらせながら、白衣のストーカーと狂信のカルト教祖が、零を挟んで一触即発の睨み合いを開始した。
「あの……お二人とも?」
ベンチの真ん中で、エコバッグを抱きしめた三神零が、消え入るような声で呟く。
「俺……昆布が湿気るから、もうホテルに帰ってもいいですか……?」
修学旅行の楽しい自由行動は、なぜか京都の片隅で、情報班トップとSランクテロリストの代理戦争の舞台へと発展しようとしていた。




