第九十三話
高校二年の秋。それは学生たちにとって、一年で最も胸を躍らせる一大イベントの季節である。
都立三立高校、二年B組の教室は、六時間目のホームルームが始まった途端に熱気と喧騒に包まれていた。
「はい、静かにしろー。それじゃあ、来月の修学旅行の班決めと、自由行動のプラン作成に入るぞ。行き先は京都・奈良の二泊三日。班は男女混合の五〜六人だ。揉めないようにさっさと決めろよー」
担任の言葉を合図に、教室中は一斉に机を動かし始めた。
三神零は、当然のように親友の狭間稔と机をくっつける。そこに、普段から弁当のおかずのトレードなどで交流がある女子三人が合流し、あっさりと班が結成された。
「よっしゃあ! 京都だぜ京都! 清水寺の『音羽の滝』で恋愛成就の水を飲んで、地主神社で恋占いの石を歩く! 俺の高校生活の春は、この修学旅行に懸かってるんだ!」
修学旅行のしおりを握りしめ、稔が鼻息を荒くしている。
しかし、そんな思春期全開の親友の隣で、零は全く別のベクトルで熱を帯びていた。彼はスマホのブラウザを開き、凄まじい速度で何かの検索をかけている。
「……ふむ。京都といえば、やはり『錦市場』は外せないな。新鮮な京野菜の直売所に、無添加のちりめん山椒、それに老舗の鰹節問屋。……東京のスーパーで買うより二割は安いし、鮮度も質も段違いだ。二日目の自由行動は、まず朝イチで市場に乗り込んで乾燥湯葉と利尻昆布を買い占めるルートで組もう」
零が広げた観光マップには、寺社仏閣ではなく『スーパー』『市場』『乾物屋』『刃物屋(包丁)』に赤いマーカーがびっしりと引かれていた。
「ちょっと待て零!! お前、修学旅行を買い出しツアーにする気か!? 高校生らしく金閣寺とか伏見稲荷とか行こうぜ!」
「金閣寺は金箔が貼ってあるだけで、出汁が取れるわけじゃないだろ。俺は家族のために、最高の京食材を安く仕入れるという重大なミッションがあるんだ。それに、西陣織の丈夫なエプロンも見ておきたいし……」
「だから思考が完全にオカンなんだよ!!」
激しく抗議する稔。
しかし、同じ班になった女子たちは、意外にも零のプランに興味を示していた。
「でもさ、三神くんのルート、お土産選びにはすごく効率いいよね。私たちも八ツ橋とか和菓子とか、美味しいものたくさん買いたいし」
「それに、三神くんが選ぶ食材なら絶対に外れがないしね。……ねえ三神くん、そのルートの途中で、美味しい抹茶パフェのお店も組み込めない?」
「ああ、錦市場の近くなら、辻利の支店がある。そこの行列を避けるために、開店十分前に到着するタイムスケジュールを組もう」
「さすが三神くん! 頼りになるー!」
キャッキャと喜ぶ女子たちと、完璧なタイムキーパー兼ツアコンと化した零。
「俺の青春ルートが……」と一人肩を落とす稔をよそに、三神班の修学旅行の自由行動は、完全に『京都市内・特産品買い付け行軍』へと変貌を遂げようとしていた。
零が京都での買い出しルートの構築に心血を注いでいた、ほぼ同じ時刻。
魔法少女協会 日本支部本部の『特別情報処理室』の重厚な電子ドアが、けたたましいアラート音と共に強制的にこじ開けられた。
「——由鶴!いますね!!」
白煙を上げてショートする電子ロックを踏み越え、部屋に乗り込んできたのは、抜身の日本刀から絶対零度の冷気を放つ『氷の女王』——羽衣緋雪だった。
その顔は、魔獣と対峙する時よりも遥かに険しい、怒りに満ちたものである。
無数のモニターが並ぶ薄暗い部屋の奥で、白衣姿の新実由鶴が、ゆっくりとキャスター付きの椅子を回転させた。
「……緋雪。いくらトップエースとはいえ、情報班の機密室のドアを物理的に破壊するのは軍紀違反ですよ。始末書では済みませんよ」
「始末書くらい何枚でも書いてあげるわ! それより由鶴、あなた……三神くんにあんな非常識な同意書を送りつけたそうね!」
緋雪が、机の上に一束の書類を叩きつけた。
それは、今朝方、零の家の郵便受けに投函され、即座にシュレッダーにかけられたはずの『研究協力同意書』のコピーだった。(緋雪は上層部からこの計画を聞きつけ、由鶴の企みを察知していたのだ)。
「彼を毎週本部に呼び出して、細胞採取だの魔力耐性テストだの……挙句の果てには解剖の可能性まで示唆するなんて!彼は一般人よ!こんな狂った研究、私が絶対に許さないわ!」
「狂っているとは心外ですね」
由鶴は眼鏡をクイッと押し上げ、全く悪びれる様子もなく答えた。
「これは日本の防衛のために必要な措置です。福音の鐘が使ったような『広域ジャマー』を無力化するには、彼のジャマーキラー体質のメカニズムを解明し、人工的なアンチジャマーを量産するしかない。緋雪も昨夜の戦場で、魔力を封じられる恐怖を味わったはずでしょう?」
「っ……それは……」
「三神零という一人の少年の人権を多少制限するだけで、数万の市民と魔法少女の命が救える。極めて合理的な等価交換です」
由鶴の冷徹な正論に、緋雪は一瞬言葉を詰まらせた。
確かに、魔法少女の魔力を無効化するジャマーは、協会の存続を揺るがす最大の脅威だ。その対策の鍵を握る零を徹底的に調べたいという上層部や情報班の焦りは、組織の論理としては正しい。
しかし。
緋雪の脳裏に浮かぶのは、キッチンで優しく微笑みながらハンバーグを焼く少年の姿だった。
あんなに温かくて、家族思いで、平穏な日常を愛している彼を、冷たいモルモットのケージに閉じ込めるなんて。
「……合理性なんて関係ないわ。彼には、彼が守るべき大切な日常があるのよ。それを権力で無理やり奪うなんて、私たち魔法少女が魔獣と何が違うの!」
緋雪が刀の切っ先を由鶴に向け、部屋の気温が急激に低下する。
モニターの表面が霜で覆われ始めた。
「上層部には私から直談判して、この計画は凍結させたわ! ……だから由鶴、二度と彼に近づかないで。もし次、彼を不当に連行しようとしたら……私が相手になるわよ」
「……」
日本の防衛の要であるトップエースからの、明確な敵対宣言。
由鶴はしばらくの間、氷のような緋雪の瞳を見つめ返していたが、やがて「ふぅ」と小さくため息をつき、両手を上げた。
「……わかりました。上層部が凍結を認めたのなら、私にこれ以上強行する権限はありません。三神くんへの『強引な連行や検査』は、諦めましょう」
「……約束よ。もし破ったら、この情報処理室ごと氷河期に沈めるから」
緋雪は刀を鞘に納め、冷ややかな視線を残して部屋を後にした。
バタンッ、と壊れたドアが閉まる音が響く。
氷の女王の威圧感が去った薄暗い部屋で、由鶴は凍りついたモニターの霜を指で拭いながら、クスクスと不気味な笑い声を漏らした。
「緋雪も人が悪い。日本の未来よりも、彼氏くんとの『美味しいご飯』を守るための私情を優先するとは。……しかし、甘いですね」
由鶴がキーボードを叩くと、メインモニターに一つのデータが表示された。
それは、三神零が通う『都立三立高校・二年B組』の、来月のスケジュール表であった。
カレンダーの来月の第二週の欄に、『修学旅行(京都・奈良)』という文字が燦然と輝いている。
「ええ、緋雪との約束通り、権力を使った『強引な連行』は控えましょう。ですが……彼が旅先で、私に『自発的に』協力してくれる環境を作るのは、私の自由ですよね?」
由鶴の瞳が、狂気的な知的好奇心で細められる。
「京都……良いですね。秋の古都は風情があります。それに、修学旅行という非日常の空間なら、ロマンチックなハプニング(あるいは魔獣の襲撃)で、彼のガードも緩むかもしれない」
天才にしてマッドサイエンティストである由鶴の頭脳が、完璧な『接触計画』を構築し始める。
表向きは出張、裏の目的は至高の検体との濃密な接触。
「待っていてくださいね、三神くん。あなたのその素晴らしい特異体質……京都の美しい紅葉の下で、じっくりと調べ尽くしてあげますから」
白衣の悪魔の歪んだ執着は、上層部の決定やトップエースの威嚇程度で止まるようなものではなかった。
最強の亡霊が、錦市場での買い出しと特産品選びに心を弾ませているその裏で。
彼の修学旅行を『最高の実地データ採取の舞台』へと変貌させようとする、理系ストーカーの影が、音もなく忍び寄っていた。
数週間後。
秋深まる京都の空の下で、特売の昆布を求める主夫と、生体データを求める科学者の、奇妙で壮絶な遭遇戦の幕が上がろうとしている。




