第九十二話
男子高校生である三神零の朝は、家族の朝食作りから始まる。
「よし。今日の味噌汁は、出汁を少し濃いめに引いたから、大根と油揚げにしっかり味が染みてるはずだ」
キッチンでエプロン姿の零が味見をし、満足げに頷く。
フライパンでは完璧な半熟の目玉焼きがジュージューと音を立て、炊飯器からは炊きたての白米の甘い湯気が立ち昇っている。
火加減を弱火に落とし、零は新聞を取りに行くために玄関のドアを開けた。
「ん? なんだこれ」
郵便受けの中に、朝刊と一緒に一通の分厚い茶封筒が入っていた。
宛名は『三神零 様』。しかし、差出人の欄を見て、零の顔が引き攣った。
そこには、万年筆の達筆な字でこう書かれていたのだ。
『魔法少女協会 日本支部 情報班 特任少佐・新実由鶴』
嫌な予感しかしないが、宛名が自分である以上無視するわけにもいかず、零は封を開けた。
中から出てきたのは、数十枚に及ぶ書類の束だった。
『特異体質に関する研究協力同意書 兼 誓約書』
『第一項:甲(新実由鶴)は、乙(三神零)に対し、週三回の精密検査(採血、細胞採取、魔力耐性テスト等)を行う権利を有する』
『第二項:乙は、日本の防衛と魔法少女の未来のため、自身の生体データの全てを甲に無条件で提供することに同意する。なお、検査に伴う多少の痛みや精神的苦痛についての異議申し立ては受け付けない』
『第三項:甲は乙の身体を解剖しないよう最大限努力するが、万が一知的好奇心が理性を上回った場合はこの限りではない——』
「…………」
零は無言のまま書類を綺麗に揃え直すと、リビングの隅にある電動シュレッダーのスイッチを入れた。
ギュルルルルルルッ!!
数十枚の狂気に満ちた同意書が、ものの見事に細切りの紙屑へと変換されていく。
「新手の架空請求か、タチの悪いカルト宗教の勧誘だな。警察にスパム報告しとこ」
強靭な主夫のメンタルは、国家権力からの公式な拉致宣告を『ただの迷惑なチラシ』として処理し、完全に意識の外へと追いやった。
昨夜、福音の鐘のテロリストたちを物理的に血祭りに上げた最強の亡霊の頭の中は、今夜の夕飯の献立のことでいっぱいであった。
その日の午後。
秋晴れの空の下、駅前の商店街を歩く二人の少女の姿があった。
日本支部トップエース、氷属性の羽衣緋雪と、土属性のエースである只野真奈である。二人とも今日は非番であり、私服姿でクレープを片手にのんびりと街を散策していた。
「あー、甘いもの最高! 昨日の大規模テロの処理で徹夜だったから、糖分が染み渡るよー!」
「本当にお疲れ様、真奈。昨日は自衛隊の皆さんが頑張ってくれたおかげで助かったわね。……それに、あの『ゴースト』のおかげも」
緋雪がクレープを小さく齧りながら呟く。
昨夜のゴーストの圧倒的な殲滅力と、ジャマーをピンポイントで破壊した神業。協会内での彼女(実際は彼だが)の評価は、もはや恐怖を通り越して『人類の守護神』のような扱いになりつつあった。
「緋雪ちゃんってば、相変わらずゴーストに夢中だねー。でもでも! 今の協会本部のトレンドは、そんなことより緋雪ちゃんの『プライベート』の話題で持ちきりだよ!」
「ふぇ!?」
真奈のニヤニヤとしたからかいに、緋雪は咽せてクレープの生クリームを口の端につけた。
「ち、違うのよ真奈! あれは誤解で、彼とは本当にそういう関係じゃなくて……ただ、彼のご飯が美味しくて、エプロン姿が様になってて、家族思いで優しくて……っ!」
「それ、完全に惚れてる女のセリフじゃないですかー! いいなー、緋雪ちゃんの胃袋をあそこまで掴むなんて、その高校生の彼氏くん、絶対只者じゃないよ」
「今度紹介してよー」と笑う真奈を前に、緋雪は顔から火が出るほど赤くなり、両手で顔を覆った。
日本を背負う『氷の女王』の威厳は、恋バナの前ではただの純情な乙女のそれである。
——と、その時。
「あらーっ!? 緋雪ちゃーん!!」
商店街の八百屋の前から、ネギの飛び出したエコバッグを提げた女性が、満面の笑みで大きく手を振りながら突撃してきた。三神零の母、奈々美である。
「お、お母様……!」
「こんにちは緋雪ちゃん! 昨日は大変だったわねぇ。ニュースで見て、零も私もすっごく心配してたのよ! お怪我はなかった!?」
「は、はい! おかげさまで、無事に……」
奈々美の強烈な『息子の彼女(大物)への歓迎オーラ』に、緋雪はタジタジになりながら頭を下げる。
その様子を見て、隣にいた真奈が目を丸くした。
「えっ……緋雪ちゃん。この人、もしかして噂の彼氏くんのお母様?」
「あら? そちらの可愛らしいお嬢さんは、緋雪ちゃんの同僚の方?」
「あ、はい! 土属性のエース、只野真奈です! えーっと、彼氏くんのお名前って……『零』くんって言うんですか?」
「そうよ。三神零。家事も料理も完璧な、うちの自慢の息子よ〜、ただ、数学は微妙だけどね」
奈々美が誇らしげに答えた瞬間。
真奈は雷に打たれたようにピタリと固まり、次の瞬間、商店街に響き渡るような大声を上げた。
「みかみ、れい……って、ええええええっ!? まさか、こないだの文化祭の時に、一緒に周ってくれた、あの『れーお兄ちゃん』!?」
「あら、真奈ちゃん、うちの零と知り合いなの?」
「はい! 文化祭で模擬店に行った時にご挨拶して……! ええーっ、緋雪ちゃんの噂の彼氏って、れーお兄ちゃんだったの!? 文化祭の時、緋雪ちゃんも一緒にれーお兄ちゃんのクラス行ってたし、一緒に周ったけど、そういうことだったんだー!」
「ち、違うのよ真奈! それは誤解で!」
パニックになる緋雪と、完全に点と点が繋がって大興奮する真奈。
緋雪と真奈は以前、零の高校の文化祭に遊びに行った際、零とブースを周り自己紹介をした、それ以来彼を「れーお兄ちゃん」と呼んで懐いていたのだ。
「そうと決まれば、真奈ちゃんも一緒にうちにいらっしゃい! 今日はこれから、零がとびきり美味しいハンバーグを焼くところなの! 緋雪ちゃんも、非番ならご飯食べていきなさいな!」
「えっ、い、いえ、そんな急に押しかけるなんてご迷惑じゃ……!」
「迷惑なわけないじゃない! 零だって、緋雪ちゃんが来てくれたら絶対に喜ぶわ! ほらほら、遠慮しないで!」
遠慮する緋雪と、「ホント!? れーお兄ちゃんのハンバーグ食べられるんですか! 行きます!」と完全にノリノリの真奈。
こうして、日本のトップエース二人は、最強の亡霊の母に両腕を抱えられ、三神家へと強引に連行(ご招待)されることとなったのである。
「よし。玉ねぎは飴色になるまでじっくり炒めて甘みを引き出した。あとは粗熱を取って、合い挽き肉とパン粉、牛乳を合わせて……」
三神家のキッチン。
零は男物の黒いエプロンをきっちりと締め、ボウルの中でハンバーグのタネを真剣な表情で捏ねていた。
肉の温度が上がらないように、手早く、しかし確実に空気を抜いていく。肉汁を閉じ込めるための、長年の家事で培われた完璧な手際だ。
「ただいまー! 零、お客様よー!」
「おかえり母さ……って、ん?」
玄関から聞こえてきた母の声に、零が手を洗いながらリビングへ顔を出す。
そこには、買い物袋を置く奈々美と、なぜか顔を真っ赤にしてモジモジしている羽衣大佐、そして——満面の笑みでこちらに手を振る小柄な少女の姿があった。
「れーお兄ちゃーん!! やっほー!」
「げっ、真奈……じゃなくて、只野さん!? なんでうちに!?」
「商店街でお母さんに会ったの! 文化祭ぶりー! っていうか、れーお兄ちゃんが緋雪ちゃんの彼氏だったなんて聞いてないよー! 水臭いなぁ!」
「だから彼氏じゃないってば!」
突撃してきた真奈の理不尽な追及に、零は深刻な胃の痛みを感じた。
昨夜、ジャマー空間でSランクのカルト教祖と泥仕合を繰り広げていた特S級の亡霊は今、自宅のリビングで『日本のトップエースに手を付けた生意気な高校生』という冤罪に苦しめられていた。
「まあまあ零、立ったままお喋りしてないで、早くハンバーグ焼いてあげなさい! 二人ともお腹空いてるでしょ?」
「はいっ! れーお兄ちゃんの手料理、めちゃくちゃ楽しみです!」
母に急かされ、零は渋々キッチンへと戻った。
真奈が興味津々といった様子で、キッチンのカウンターから零の手元を覗き込んでくる。
「へー、すごい手際! 緋雪ちゃんから『家庭的』って聞いてたけど、ホントにプロみたい!」
「……ただの主夫の嗜みだよ。焼き加減の希望はあるか?」
「お任せで! あっ、緋雪ちゃんは確か、肉汁がジュワッてなるやつが好きだったよね?」
「ま、真奈……! 恥ずかしいからあんまり言わないで……!」
ソファに座らされた緋雪が、顔を赤くして真奈の背中をペチペチと叩いている。その様子は、世界を救う『氷の女王』の面影など微塵もない、ただの恋する乙女であった。
ジュワァァァァッ!!
フライパンに成形したハンバーグを落とすと、食欲をそそる脂の焼ける音がリビングに響き渡る。
表面にしっかりと焼き色をつけて肉汁を閉じ込め、ひっくり返して蓋をし、弱火でじっくりと中まで火を通す。ソースは、肉汁にケチャップとウスターソース、少量の赤ワインを煮詰めた特製のデミグラス風だ。
「はい、お待たせ。三神家特製、特売合い挽き肉のハンバーグ」
テーブルに並べられたのは、ふっくらと焼き上がった分厚いハンバーグ。付け合わせのニンジンのグラッセと粉吹き芋、そして彩りのブロッコリーが添えられ、洋食屋顔負けの完璧なビジュアルを誇っていた。
ちょうど訓練校から帰宅した姉の澪と妹の玲奈も加わり、食卓は一気に賑やかになる。
「うわぁ……! めっちゃいい匂い!」
真奈が目を輝かせ、フォークを入れる。
その瞬間、ハンバーグの断面から透明な肉汁が滝のように溢れ出し、ソースと絡み合った。
「いただきます! ……んんんんっ!?」
一口食べた真奈が、目を見開いて固まった。
「な、なにこれ……! お肉がふわふわなのに、噛むと旨味が爆発する! 文化祭の焼きそばも最高だったけど、ハンバーグもヤバい! お店より美味しい!」
「だ、大袈裟だよ。ただしっかり捏ねて、火加減を間違えなかっただけだから」
「いやいやいや! これは魔法だよ! 緋雪ちゃん、毎日こんなの食べてるの!? ずるい! 私もれーお兄ちゃんのお嫁さんになりたい!」
「だ、ダメよ!!」
真奈の冗談めかした言葉に、緋雪がバンッ! とテーブルを叩いて立ち上がった。
「彼……彼の料理は、私の……その、つまり……国家の重要機密に指定すべきレベルだから、真奈には渡さないわ!」
「緋雪ちゃん、顔真っ赤だよー。あはは!」
(大佐、否定してくれ! なんでちょっと独占欲発揮して誇らしげになってんだよ!)
零は心の中で盛大にツッコミを入れながら、自分の分のハンバーグを無言で咀嚼した。
姉の澪と妹の玲奈が「あんた、いつの間にエース部隊をたらし込むようなジゴロになったのよ……」と呆れた目を向けてくるが、完全に不可抗力である。
和気藹々とした食卓。
日本の平和を守るエースたちが、ただの高校生の手料理を囲んで笑い合っている。昨夜の地獄のような戦場が嘘のような、穏やかな時間だった。
ふと、食後の紅茶を飲んでいた真奈が、思い出したように手を打った。
「あ、そういえばれーお兄ちゃん。うちの情報班のトップの由鶴さんが、れーお兄ちゃんのこと探してたよ」
「……ブホッ」
零は、飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
「えっ、新実少佐が? なんで?」
澪が不思議そうに首を傾げる。
「なんかねー、『彼には特異体質の疑いがあるから、保護して毎日検査したい』とか言ってたよ。本部じゃ、緋雪ちゃんがれーお兄ちゃんを独占してるから由鶴さんが嫉妬してるんじゃないか、なんて噂になってるけど」
「(今朝シュレッダーにかけたヤバい同意書の件か……!!)」
零の背筋に、再び冷たい汗が流れる。
由鶴の執着は、どうやら自分が無視した程度で収まるようなものではないらしい。
「由鶴には、絶対に手を出させないわ」
不意に、緋雪が真剣な表情——戦場で魔獣と対峙する時と同じ『氷の女王』の凛々しい顔つきで、零を見つめた。
「あなたは一般人で、この平和な生活を守る権利がある。……由鶴の暴走は、私が上層部に掛け合ってでも止めるから。三神くん、あなたは安心して私に守られていて」
「おおー! 緋雪ちゃん、イケメン!」
「あらあら、緋雪ちゃん頼もしいわねぇ!」
真奈と奈々美が拍手喝采を送る中。
零は、引き攣った笑顔を浮かべることしかできなかった。
(いや……大佐。あんたがそうやって俺を庇えば庇うほど、『大佐の彼氏疑惑』が協会内部で確定事項として扱われて、余計に面倒なことになるんだってば……!)
世界の裏側で暗躍する組織を圧倒する特S級の亡霊も、日常に侵食してくる『好意』と『狂気(理系ストーカー)』の包囲網からは、どうやら逃れられそうになかった。
三神零の平穏な高校生活は、エース部隊との繋がりを深めながら、さらにカオスな方向へと転がり続けていくのだった。




