第九十一話
東京の地下深く、忘れ去られた旧地下鉄の廃路線。
犯罪シンジケート『福音の鐘』の隠れ家であるその場所は、かつてないほどの重苦しい沈黙と、濃密な血の匂いに包まれていた。
「ルディア様……! しっかりなさってください、ルディア様!」
祭壇の前の石のベッドで、須藤真里が血塗れの手で治癒魔法のスクロールを次々と展開していた。
ベッドに横たわっているのは、組織の絶対的指導者であるルディア・ロンディニウム。彼女の純白の修道服は赤黒く染まり、ゴーストの大剣によって粉砕された肋骨は、呼吸をするたびに致命的な痛みを彼女に与えていた。
真里自身もまた、ゴーストにコンクリートに叩きつけられた全身の打撲で立っているのがやっとの状態だ。部屋の隅では、右腕をへし折られた双子のルカと、腹部を強打されて内臓を損傷したリリアが身を寄せ合って荒い息を吐き、宮子に至ってはまだ意識が戻っていない。
結界が破壊され、エース部隊が雪崩れ込んできたあの混乱の中。ルディアが最後の力を振り絞って『空間転移の魔導具』を起動しなければ、全員が協会に捕縛され、一生を特別牢獄で過ごすことになっていただろう。
文字通りの、完全なる敗走であった。
「……真里。泣くのはおやめなさい。私は……まだ死にません」
ルディアが、血に染まった唇から微かな声を漏らした。
治癒魔法の光が彼女の身体を包み、折れた骨がゆっくりと結合していく。
「申し訳ありません……っ! 私の不手際です! あのような未完成の舞台に神をお招きし、あまつさえ神聖な御身に傷を負わせるなど……!」
「いえ……あれで、よかったのです」
ルディアの黄金の瞳に、痛みとは別の、熱に浮かされたような狂おしい光が宿った。
「あの絶望的なジャマーの檻の中で、神は……魔力を失ってなお、その『知略』と『闘争本能』だけで、Sランクである私を圧倒しました」
ルディアの脳裏に、建設中のビルでの死闘が蘇る。
鉄骨の隙間を利用した蛇剣の封殺。セメント粉を用いた泥臭い粉塵爆発。そして、自らの肉体を囮にして刃を受け止め、反撃に転じた狂気の戦術。
それは、高尚な魔法の撃ち合いなどではない。生きるか死ぬかの、泥に塗れた命の削り合い。
「神は、我々に示されたのです。魔力という矮小な力に依存し、驕り高ぶっていた我々の愚かさを……! 真の強さとは、環境を支配し、いかなる状況下でも敵を屠る絶対的な意志なのだと!」
「あぁ……! ルディア様……!」
「それに、真里。あなたの右腕を見てごらんなさい」
ルディアに言われ、真里は自分の右腕に視線を落とした。
彼女がはめていたはずの、赤いリング——『魔力励起リング(アンチジャマー)』が消え失せている。
「神が、私からリングをお持ちになったのです。……我々の供物(道具)を、神が直接その手でお受け取りになった……!」
「ええ。それこそが、我々の信仰が届いた何よりの証左。次です、真里。次こそは、さらに巨大な絶望を用意し……神を完全なる玉座へと導くのです……!」
敗北と重傷という現実を前にしても、彼女たちの狂信が揺らぐことはなかった。むしろ、ゴーストの「物理攻撃での折檻」と「アンチジャマーの略奪」という極めて利己的な行動を、身勝手に神聖化し、さらなる破滅へのモチベーションへと変換してしまったのである。
翌日の午前。魔法少女協会・日本支部本部。
最上階の特別会議室では、昨夜の大規模テロ事件に関する緊急会議が開かれていた。
円卓を囲むのは、羽衣緋雪をはじめとするエース部隊の面々。そして、中央のホログラムモニターの前には、白衣姿の情報班トップ・新実由鶴が立っていた。
「——以上が、自衛隊と我々によって回収された『広域多重魔力ジャマー』の残骸の解析結果です」
由鶴がタブレットを操作すると、黒い杭の立体モデルが表示された。
「内部回路の構造、および使用されている魔力圧縮技術から見て、間違いありません。どこぞの暗部組織が開発した、対魔法少女用の軍事兵器です。福音の鐘は、これを裏ルートで大量に仕入れ、連動させることであの異常な空間を作り出しました」
「……冗談じゃないわ。あんなものがポンポン街中に仕掛けられたら、私たち魔法少女はただのマトよ」
風属性の弓飛鳥が、忌々しげに腕を組んだ。
実際、昨夜の結界内では、Sランクであっても魔力の八割以上を持っていかれるという絶望的な環境だったのだ。
「ええ。協会としても、ジャマーの影響を無効化する『アンチジャマー』の開発は急務です。……しかし、それ以上に興味深いデータが、昨夜の戦場に残されていました」
由鶴が眼鏡をクイッと押し上げ、モニターの映像を切り替える。
映し出されたのは、結界の中心部——半壊した高層ビル周辺の魔力波長の推移グラフだ。
「結界の内部で、ゴーストは福音の鐘の幹部たちと交戦していました。驚くべきことに、ゴーストはジャマーによって魔力を失った状態のまま、幹部三人とSランクのルディアを『純粋な物理戦闘』で圧倒した痕跡があります」
「魔力なしで、Sランクを……!? 化け物かあの子は!」
ハンマー使いの只野真奈が、信じられないというように目を見開いた。
「さらに不可解なのはその後です。自衛隊がジャマーを数本破壊した直後、ゴーストの魔力波長が『ジャマー展開前』と全く同じフルスペックの状態まで急激に回復しています。残りのジャマー空間にいたにも関わらず、です」
由鶴の言葉に、会議室がざわめく。
「どういうこと? あの子、ジャマーの干渉を自力で弾き返したって言うの?」
「おそらく、敵の幹部が身につけていた『アンチジャマー』を奪い取り、即席で装備したのでしょう。ゴーストの戦闘適応能力は、もはや我々の理解の範疇を超えています」
由鶴はそこで言葉を区切り、円卓に座る面々をぐるりと見渡した。
「しかし、我々凡人が神の真似事などできません。我々には我々のやり方で、完全なアンチジャマーを作り出す必要があります。……そこで、彼の出番です」
ピッ、と由鶴が操作すると、モニターに一人の少年の顔写真がデカデカと映し出された。
都立高校の制服を着た、少し眠たげな目つきの男子高校生——三神零である。
「「「…………え?」」」
エース部隊の面々が呆気に取られる中、緋雪だけがガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
「ゆ、由鶴!? ど、どうしてそこで三神くんの顔が出るのよ!」
「ご存知ありませんか、大佐。彼は以前から私が目を付けている『歩くジャマーキラー』。自身の周囲の魔力干渉を完全に無効化する特異体質の持ち主です。……彼の細胞と血液、そして生体データを徹底的に解析すれば、完璧なアンチジャマー兵器が完成するはずです」
由鶴の瞳が、理系特有の危うい探求心でギラギラと輝いている。
「昨夜のようなテロを二度と起こさせないためにも、彼を協会本部へ『保護』し、二十四時間体制で私の監視下に置き、文字通り身体の隅々まで調べ尽くす必要があります。これは日本の防衛のためです」
「だ、ダメよ!! そんなの絶対に許可しないわ!!」
緋雪が顔を真っ赤にして机をバンッと叩いた。
「彼は一般人よ! それに、そんなモルモットみたいな扱い……私が絶対に許さない!」
「おや? 大佐は日本を守るトップエースとしての責務より、彼氏との甘い生活を優先されると?」
「か、かかか、彼氏って! だ、誰もそんなことは……っ!」
由鶴の容赦のない追及に、緋雪は完全に言葉に詰まり、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
(あーあ、大佐の彼氏疑惑、これで完全に協会公認みたいになっちゃったよ……)と、事情を少しだけ知っている鈴乃は内心で頭を抱えた。
「安心してください、大佐。解剖はしません。ただ、少し痛みを伴う検査を毎日行うだけです。……さあ、彼を捕獲する準備を始めましょうか」
カルトの次は、身内の理系ストーカー。
特S級の亡霊(の変身前の姿)に、国家権力という名の最も厄介な網が、静かに被せられようとしていた。
そんな世界の裏側の思惑など知る由もない、三神家。
昨夜のテロ騒動から一夜明けた朝。リビングには、いつものように平和で騒がしい日常の風景が広がっていた。
「お兄ちゃん! 昨日のピスタチオアイス、めっっちゃくちゃ美味しかった! 一生ついていく!」
「大袈裟だな。まあ、美味かったならよかったよ。澪もチョコのやつ食べたか?」
「ええ、食べたわよ。でもあんた、昨日はあんな大騒ぎになってたのに、よく無事に帰ってこれたわね。ニュース見て肝が冷えたわよ」
制服に着替えた姉の澪が、トーストをかじりながらジト目を向けてくる。
「いやぁ、ちょうどスーパーとコンビニの中間くらいで迷子になっちゃってさ。自衛隊の人が誘導してくれたから助かったよ」
「相変わらず運がいいというか、呑気というか……」
呆れる姉妹をよそに、零はエプロン姿でフライパンを振り、完璧な火加減のベーコンエッグを皿に盛り付けていた。
テレビのニュースキャスターが、「昨夜の某区での大規模テロ未遂事件は、自衛隊の迅速な対応と、匿名の魔法少女の活躍により、死者ゼロで鎮圧されました」と報じている。
「物騒ねぇ。でも、死者が出なくて本当によかったわ」
コーヒーを飲みながら、母の奈々美がしみじみと呟いた。
「そういえば零、昨日はあなたの彼女の緋雪ちゃんも出撃してたんでしょ? 今度うちに来た時は、お疲れ様も兼ねてご馳走してあげなきゃね」
「だから!! 彼女じゃないって何度も言ってるだろ母さん!」
零が全力でツッコミを入れるが、奈々美は「はいはい、照れないの」と全く聞く耳を持たない。
(終わってる……。母さんの中では、もう完全に既成事実化してるじゃないか……)
零は深い溜息をつきながら、自分の分のベーコンエッグを口に運んだ。
ふと、昨夜のルディアの蛇剣を受けた左肩が、微かにズキッと痛んだ。傷自体は闇魔法で塞いであるため外傷はないが、精神的な疲労が抜けきっていない。
(まあ、なんだかんだあったけど……この平和な朝食の時間を守れたんだ。それだけで、昨日の無茶な戦いにも意味があったってことだ)
最強の魔法少女としての死闘を終え、ただの男子高校生としての日常に帰還した零。
しかし、登校のために家を出た彼の背後に、協会情報班のドローンが音もなく忍び寄り、その姿を監視カメラ越しに由鶴がねっとりと見つめていることなど、彼はまだ気づいていなかった。
平穏な日常は、まだ彼を休ませてはくれないようである。




