第九話
よく晴れた休日の午後。
三神零は本来であれば、自室でゆっくりと参考書を開くか、溜まっていた録画番組でも見て過ごす予定だった。しかし、彼の手製アプリがけたたましい警告音を鳴らしたことで、そのささやかな平和は呆気なく崩れ去った。
「グガアアアアッ!」
郊外にある解体中の廃ビル群。白昼堂々現れた中型の魔獣——四つん這いの巨大な爬虫類のような姿をした怪物が、口から酸の息を吐き出しながら突進してくる。
それを迎え撃つのは、白と黒の魔装に身を包んだ美しい魔法少女、ゴーストだ。
「——深淵の刃」
ゴーストは無駄のない動きで酸の息を躱すと、漆黒の大剣を一閃させた。
空間を滑るように放たれた闇の斬撃が、中型魔獣の硬い鱗を豆腐のように切り裂く。悲鳴を上げる間もなく、魔獣の巨体は真っ二つに両断され、黒い霧となって霧散した。
(休日の昼間から、勘弁してほしいな……。でも、市街地に出る前に処理できてよかった)
内心で男性としての零がため息をつきながら、ゴーストが大剣を鞘に収めようとした、その時だった。
「いやぁ、お見事! 噂通りの凄まじい殲滅力だね。見惚れちゃったよ」
パチパチパチ、と。
誰もいないはずの廃ビルに、場違いな拍手が響いた。
ゴーストが視線を向けると、崩れたコンクリートの壁の上に、二人の魔法少女が立っていた。
一人は、露出度の高い挑発的な赤い魔装に身を包み、妖艶な笑みを浮かべる女。もう一人は、棘のついた巨大な鉄球を肩に担いだ、好戦的な目つきの女だ。
どちらも、魔法少女協会が定めた正規の制服やエンブレムを身につけていない。
「初めまして、未登録の魔法少女ゴースト。私は葦名芽衣。で、こっちの物騒なのが鈴木晴美」
赤い魔装の女——芽衣が、ひらりと壁から飛び降りてゴーストの前に進み出た。
「単刀直入に言うわ。私たち、犯罪魔法少女組織『レガリア』に加わらない?」
「レガリア……」
ゴーストは低く、透き通るような女性の声で呟いた。
協会に属さず、己の欲望や利益のために魔法の力を悪用するアウトロー集団。強盗、要人暗殺、非合法な魔力兵器の密売など、裏社会で暗躍している組織だということは、零もネットの噂などで知っていた。
「そう。あなた、協会から目をつけられて追われてるんでしょう? 私たちの組織に来れば、地位も、お金も、自由も、なんだって手に入るわ。あなたほどの力があれば、幹部待遇で迎えてあげても——」
「……興味ないわ」
ゴーストは芽衣の言葉を冷たく遮り、背を向けた。
「私は、あなたたちのような悪党と手を組むつもりはない。他を当たってちょうだい」
足元の影に沈み込もうとした瞬間、背後から凄まじい風切り音が迫った。
ゴーストが振り返りざまに大剣の鞘でそれを受け止めると、火花が散る。鉄球を振り回して奇襲を仕掛けてきたのは、晴美だった。
「チッ、すかした女だねぇ! せっかく芽衣さんが優しく誘ってやってんのに、断るってんなら力ずくで連れて行くまでだよ!」
「やれやれ、交渉決裂ね。晴美、殺さない程度に痛めつけてちょうだい。どうせ協会に登録されてない野良なんだから、ここで私たちが回収しても問題ないわ」
芽衣が赤い鞭を取り出し、晴美と共にゴーストへ襲い掛かる。
ゴーストは小さく舌打ちをした。
(人間相手に、武器は振るいたくないんだが……!)
晴美の鉄球がコンクリートを粉砕し、芽衣の鞭が蛇のようにゴーストの死角を狙う。
しかし、ゴーストは圧倒的な身体能力と闇の瞬間移動を駆使し、二人の猛攻を最小限の動きでいなしていく。大剣は鞘から抜かず、あくまで防御と回避に徹しながら、時折鞘の柄で打撃を返すだけの「渋々とした反撃」だ。
「ちょこまかと……! 逃げてばっかいないで打ち合えよ!」
晴美が苛立ちを露わにした、その直後だった。
「——そこまでです! 未登録魔法少女ゴースト、および犯罪組織レガリアの構成員! 武器を捨てて投降しなさい!」
廃ビルの入り口から、数名の魔法少女たちが雪崩れ込んできた。
正規のエンブレムを胸に掲げた、魔法少女協会・日本支部の防衛部隊だ。
しかし、そこに羽衣緋雪や只野真奈たち「エース」の姿はない。彼女たちの代わりに現場に急行したのは、曹長から中尉階級の一般隊員たちだった。
「げっ、協会の犬どもが来やがった!」
「間の悪い……! 晴美、一度引くわよ!」
芽衣と晴美が協会部隊の方へと警戒を向けた瞬間、ゴーストの紫の瞳が静かに細められた。
(好都合だ。人間同士の厄介事なら、協会の連中に任せるに限る)
ゴーストは一切の迷いなく、足元の影に自身の魔力を展開した。
「あとは、あなたたちに任せるわ」
残された者たちがハッとして振り返った時、すでに漆黒の魔法少女の姿は完全に空間に溶け込み、消え去っていた。
「ああっ、ゴーストが逃げました!」
「追跡は不可能です! 目標をレガリアの二名に変更、包囲陣形を展開!」
協会部隊とレガリアの激しい戦闘の音が背後で響き始めるのを遠くに聞きながら、零は無事に離脱を完了させたのだった。
同刻。魔法少女協会・日本支部付属の総合医療センター。
「……第四管区でレガリアとゴーストが接触。その後、ゴーストは逃亡し、残されたレガリアのメンバー二名は駆けつけた防衛部隊と交戦中、とのことです」
病室のベッドの上で、タブレット端末から顔を上げた新実由鶴少佐が、抑揚のない声で報告を読み上げた。彼女の右腕は、ゴーストの蹴りを受けたことによる複雑骨折で、痛々しいギプスに覆われている。
相部屋となっている巨大な特別病室には、日本支部が誇るエースたちの無残な姿があった。
「あーあ、せっかくレガリアの尻尾を掴むチャンスだったのに。私たちが出動できないなんて、ほんと悔しいな……」
ベッドの上であぐらをかきながら、只野真奈大尉が首の後ろをさすった。彼女は首筋への打撃による脳震盪で、いまだに時折めまいに襲われている。
隣のベッドでは、全身を包帯でぐるぐる巻きにされた新堂鈴乃中佐が、痛みに顔をしかめながら天井を睨みつけていた。
「全治三週間……。あの化け物め、炎のバックファイアを利用して私の皮膚だけを的確に焼くなどと、どれほどの魔力操作技術を持っていれば可能なんだ……」
そして、窓際のベッド。
最もゴーストと激しく打ち合い、黒炎を至近距離で浴びた羽衣緋雪大佐は、静かに窓の外の青空を見つめていた。
彼女もまた、全身に火傷と打撲を負い、立ち上がることもままならない状態だ。もしゴーストに明確な「殺意」があったなら、この部屋にいる全員が、今頃は遺体安置所に並べられていたことだろう。
「……緋雪ちゃん?」
真奈が心配そうに声をかけると、緋雪はゆっくりと振り返り、微かに微笑んだ。
「大丈夫よ。ただ、考えていたの」
緋雪の脳裏に蘇るのは、雨の中で聞いた、ゴーストのあの静かで悲しげな声。
『……私は、誰も奪いたくないの』
「ゴーストは、レガリアからの勧誘を拒絶した。彼女は決して悪に染まるような存在じゃない。……私たちは、本当に彼女と戦わなければならないのかしら」
緋雪の問いかけに、病室は重い沈黙に包まれた。
圧倒的な力量差と、彼女が見せた不器用な優しさ。
傷だらけのエースたちの心には、協会が掲げる「絶対の掟」に対する疑念が、確実に根を下ろし始めていた。




