第八十九話
新月の夜空を、禍々しい漆黒のオーロラ——広域多重魔力ジャマーの結界がドーム状に覆い尽くしていた。
零の愛する平和な住宅街は今、地獄の様相を呈している。
福音の鐘が仕掛けた誘引装置によって、どこからともなく数え切れないほどの魔獣が強制転移させられ、街の至る所で咆哮を上げていた。
普段であれば、協会のアプリが鳴り響き、近隣をパトロールしている魔法少女たちが即座に駆けつけて魔獣を駆逐するはずだ。しかし、今日に限ってはそれができない。
「こちら第三小隊! 駅前通り、魔獣の群れがバリケードを突破しようとしている! 弾薬が足りない、至急支援を!」
「くそっ、物理兵器じゃ分が悪いぞ……! とにかく市民の避難を最優先にしろ!」
街の主要な交差点には、重武装した警察の特殊部隊と自衛隊の装甲車が展開し、激しい銃撃戦を繰り広げていた。
アサルトライフルの乾いた銃声と、曳光弾の光が夜の街を飛び交う。しかし、魔力を持たない通常の弾丸では、強靭な皮膚を持つ魔獣たちには致命傷を与えづらく、防衛線はジリジリと押し込まれていた。
では、本来魔獣を狩るべき存在である魔法少女たちはどこにいるのか。
彼女たちは、漆黒の結界の『外縁部』に足止めを食らっていた。
「——【氷華・絶対零度】!!」
結界の境界線ギリギリの場所で、羽衣緋雪が日本刀を振り抜き、結界内から溢れ出ようとした特A級魔獣の群れを一瞬にして氷の彫像へと変えた。
しかし、彼女の蒼い瞳には、かつてないほどの焦燥感が渦巻いていた。
「まだなの、由鶴!? このままじゃ、結界の中に取り残された市民たちが……街が、メチャクチャにされてしまうわ!」
『大佐、焦らないでください。結界内部は、Sランクの魔法少女ですら魔力を九割以上削り取られる異常な濃度のジャマー空間です。今、我々が不用意に突入すれば、魔力を失って魔獣の餌食になるだけです』
上空のドローン群を操作しながら、通信機越しに新実由鶴が冷徹に告げる。
『現在、魔力に依存しない自衛隊の特殊作戦群が、結界内部に潜入しています。彼らが魔力波長を辿り、ジャマーの発生源である『黒い杭』を物理的に捜索・破壊する作戦を進行中です。一つでも杭を破壊し、結界にほころびができれば、我々も突入できる。……それまでは、外周防衛に徹してください』
「くっ……!」
新堂鈴乃や弓飛鳥、只野真奈たちエース部隊の面々も、結界の外側で迫り来る魔獣を必死に食い止めている。
日本最高峰の戦力を持っていながら、中にいる人々を助けに行けない。その歯痒さと無力感が、魔法少女たちの心を激しく焦がしていた。
彼女たちはまだ知らない。
結界の中心——最も濃いジャマーの渦中で、未登録の『神』が、ただ一人でカルトの首魁と死闘を繰り広げていることを。
「はぁっ……はぁっ……! まさか、私の『神聖なる加護』を、あのような物理的な手段で破壊するとは……!」
半壊した建設中の高層ビル、中層フロア。
粉塵が舞う薄暗い空間で、福音の鐘の指導者ルディア・ロンディニウムは、砕け散った右腕の赤いリングを見下ろして憎悪の声を上げた。
リングを失った彼女の身体にも、ジャマーによる強烈な魔力減衰が平等に襲いかかっている。背後に展開していた黄金のオーラは完全に霧散し、Sランクの圧倒的な威圧感は見る影もなかった。
「加護なんて大層なもんじゃない。ただのズルよ」
粉塵の中から、漆黒のドレスを纏ったゴーストがゆっくりと姿を現す。
彼女は、先ほどの階層崩落の際に上のフロアから落ちてきて、コンクリートの床に深々と突き刺さっていた【漆黒の大剣】の柄に手を掛けた。
(……重い。魔力による身体強化がないと、この大剣がこんなに重かったなんてな)
ゴースト(零)は内心で毒づく。普段であれば羽のように軽く扱える大剣が、今はただの巨大な鉄塊だ。
しかし、重いなら重いなりの扱い方がある。出刃包丁で硬いカボチャを叩き割る時のように、腕の力だけでなく、膝のバネと体幹の重心移動を連動させる。
「ふっ……!」
ゴーストは全身の筋肉を使い、テコの原理で大剣を床から軽々と引き抜いてみせた。
魔力は空っぽ。体は満身創痍。
だが、その紫の瞳に宿る殺意の純度は、いささかも曇っていない。
「……思い上がるな、偽りの神が。魔力が封じられた状態なら、元々の魔力総量が高い私の方が圧倒的に有利なはずだ!」
ルディアが激昂し、蛇剣を振るう。
シャリンッ! という金属音と共に、無数の節に分かれた刃が黄金の鞭となってゴーストに襲いかかる。
しかし、先ほどまでのような雷光のような速度も、予測不能な急角度の軌道変化もない。魔力供給が減ったことで、鞭の『しなり』も『伸び』も、極めて物理法則に忠実なものに成り下がっていた。
「遅い」
ゴーストはステップで後退せず、逆に一歩前へと踏み込んだ。
鞭の先端——最も速度が乗る部分を避け、大剣の『腹』を使って蛇剣の横腹を滑らせるように受け流す。
——ガキィィンッ!!
火花が散り、激しい金属音が建設中のフロアに響き渡る。
魔力の爆発音はない。ただ、純粋な鉄と鉄がぶつかり合う、重く鈍い音だけが連なっていた。
「チッ……! 【聖蛇の狂舞】!」
弾かれた蛇剣を手元に引き寄せ、ルディアが手首を連続で回転させる。
上段、下段、左薙ぎ、右袈裟。あらゆる角度から波状攻撃を仕掛けるが、そのすべてをゴーストは最小限の動きで大剣の刃を合わせて弾き落としていく。
ガンッ! ギィィンッ! ガガンッ!!
「な、なぜだ……!」
ルディアの額に焦りの汗が滲む。
「魔力強化もない細腕で、なぜ私の連撃を完全に捌き切れる!? なぜ、剣の軌道が見切れるのだ!」
「……見切れるに決まってるでしょ」
ゴーストは冷たく言い放ちながら、上段から振り下ろされた蛇剣の刃を大剣の鍔でガッチリと受け止めた。
ギリギリと互いの武器が鍔迫り合いを起こし、至近距離でルディアの顔を睨みつける。
「あなたの鞭の軌道、完全に『手首の返し』と『肩の沈み込み』に依存してる。格闘ゲームの発生の遅い大振りモーションより見え見えなのよ。……それに」
ゴーストは、鍔迫り合いの力を使ってルディアの体勢を僅かに崩すと、空いた左足でルディアの膝関節を容赦なく蹴り抜いた。
「ぐぁっ……!?」
「戦闘じゃ、常に体幹のバランスが試される。あんたみたいな温室育ちのカルト教祖とは、日常の足腰の鍛え方が違うのよ」
体勢を崩したルディアの鳩尾に、ゴーストの大剣の柄頭が深々とめり込む。
「カハッ……!」と胃液を吐き出しそうになりながら、ルディアはたまらず後方へ飛び退いた。
(バカな……。魔力を使わない純粋な白兵戦で、Sランクである私が、ゴーストに圧倒されているだと……!?)
ルディアのプライドがズタズタに引き裂かれる。
彼女は理解していなかった。
目の前のゴーストは、魔法少女としては規格外の魔力を持っているが、その中身は『ただの人間』として、日常の中で極限の反射神経と空間把握能力を培ってきた変態的な主夫だということを。魔力を剥奪された物理法則下の環境は、むしろ零にとって『最も戦い慣れたホームグラウンド』なのだ。
「許さない……私を、これほどコケにするとは……!」
ルディアの顔が夜叉のように歪む。
彼女は、体内の魔力回路を焼き切る覚悟で、無理やり黄金の魔力を絞り出した。
蛇剣の刃に、高熱の黄金の炎が纏われる。ジャマーの影響で炎は小さいが、それでも触れれば骨まで焼き尽くすほどの熱量を持っている。
「その大剣ごと、貴様の首を跳ね飛ばしてくれる!!」
ルディアが床を蹴り、全速力でゴーストへ突進する。
対するゴーストも、負けじと残された全魔力の二割を、大剣の刃の先端『数ミリ』にだけ極限まで圧縮した。絶対零度の氷と、すべてを灰にする炎の極薄コーティング。
魔力と魔力、意地と意地の最後の激突。
「——死ねェェェッ!!」
「——寝てなさい」
両者が交差する一瞬。
ルディアの蛇剣が、ゴーストの首元を捉えようと弧を描く。
しかし、ゴーストはその一撃を躱す素振りすら見せなかった。彼女は自らの左肩を『囮』として前に突き出し、あえて蛇剣の刃を受け入れたのだ。
——ザシュッ!!
黄金の刃がゴーストの左肩に食い込み、鮮血が噴き出す。
だが、その痛みに顔色一つ変えず、ゴーストは食い込んだ蛇剣の刃を自身の筋肉と骨格で『挟み込んで』完全にロックした。
「なっ……肉を切らせて、私の剣を……!?」
「これで、動けないわね」
驚愕で目を見開くルディア。
引き抜こうとしても、ゴーストの左肩に食い込んだ蛇剣はビクともしない。
完全に無防備となったルディアの胴体に向けて、ゴーストが右腕一本で振り被った【漆黒の大剣】が、容赦のない速度で横薙ぎに一閃された。
氷炎を纏った大剣の平が、ルディアの脇腹を肋骨ごと粉砕する。
「が、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
ルディアの口から大量の血が吐き出され、彼女の体はくの字に折れ曲がりながら、数十メートル先のコンクリートの壁へと激突した。
ズドォォォォンッ!! という地響きと共に壁が崩落し、ルディアは瓦礫の山に埋もれて完全に沈黙した。
「はぁっ……はぁっ……」
ゴーストは、大剣を杖代わりにして荒い息を吐いた。
左肩の傷は深く、ドレスは血と煤でドロドロになっている。限界をとうに超えた肉体は、今にも倒れそうだった。
しかし、彼女は倒れない。倒れるわけにはいかないのだ。
「……さて。首魁は黙らせた」
ゴーストは血走った紫の瞳で、結界のドームに覆われた夜の街を見下ろした。
街のあちこちで火の手が上がり、銃声と魔獣の咆哮がまだ続いている。ジャマーの杭が破壊されない限り、この地獄は終わらない。
「私の街を荒らした落とし前……一つ残らず、つけさせてやる」
特S級の亡霊は、痛む体を引きずりながら、再び夜の闇の中へと歩みを進めた。




