第八十八話
「初めまして、ゴースト。我らが待ち望んだ『神』よ」
吹き飛ばされた屋上の縁で息を整えるゴーストを見下ろし、ルディアはベールの奥で冷たい微笑を浮かべた。
「その圧倒的な力、噂には聞いていましたが……なるほど。ジャマー下においてなお、私の可愛い部下たちを純粋な身体能力と技量だけで圧倒するとは。素晴らしい器です」
「……新手の勧誘なら断るわ。さっさとその鬱陶しい結界を解きなさい」
ゴーストは血の滲む口元を手の甲で拭い、大剣の切っ先をルディアに向けた。
しかし、ルディアは痛ましく思うような仕草で首を横に振った。
「結界は解けません。この街の悲鳴こそが、あなたを真の神として覚醒させるための洗礼なのですから。……それに、まだあなたは『不完全』だ。私が直々に、あなたの器の底を試して差し上げましょう」
ルディアが右手を虚空に伸ばすと、黄金の光が収束し、一本の奇妙な武器を形成した。
柄から伸びる刃は、まるで蛇の鱗のように無数の節に分かれた金属の連なり。
——魔装『蛇剣』。
鞭のようにしなり、剣のように斬り裂く、最も予測不能で凶悪な性質を持つ変幻自在の武器である。
「——【聖蛇の抱擁】」
ルディアが手首を軽く返した瞬間。
シャリンッ! という澄んだ金属音と共に、蛇剣の刃が数十メートルにも及ぶ黄金の鞭となって、生き物のように空を駆け抜けた。
「……!」
ゴーストは即座に大剣を盾にして防御姿勢を取る。
しかし、蛇剣の狙いはゴーストの正面ではなかった。
大剣の刃に激突する寸前、黄金の鞭は空中で『くの字』に折れ曲がり、ゴーストの防御をすり抜けて背後へと回り込んだ。
(軌道が変わった!?)
背後から迫る蛇剣の切っ先。
ゴーストは前方に前転して回避を試みるが、蛇剣は彼女を追いかけるように波打ち、その鋭い刃の側面が漆黒のドレスの脇腹を深く掠めた。
「ぐっ……!」
ドレスの布地が裂け、鮮血が夜空に舞う。
着地と同時に傷口を押さえるゴースト。浅いが、確実なダメージだ。
「どうしました? 神の動きにしては、ひどく重いですね」
ルディアが優雅に歩みを進めながら、再び手首を振る。
今度は、蛇剣が空中で三つに枝分かれするような錯覚を伴って、上段、中段、下段から同時にゴーストに襲いかかった。
(軌道が読めない……! 遠心力と魔力操作の合わせ技か! 剣の軌道でも、鞭の軌道でもない!)
ゴーストは残された僅かな魔力を足に集中させ、超高速のステップで後退する。
上段の刃を首の皮一枚で躱し、中段の刃を大剣で弾く。
——ガキィィンッ!!
しかし、大剣で弾いたはずの中段の刃が、反動を利用して『巻き付く』ように大剣の柄に絡みついてきた。
「捕まえましたよ」
「クッ……!」
ルディアが蛇剣を手元に引き寄せる。
Sランクの凄まじい膂力。魔力強化をほとんど失っているゴーストの筋力では抗いきれず、大剣ごと前方へ引きずり出されてしまう。
「そこです! 【断罪の光芒】!!」
ルディアの左手から、目も眩むような光の魔法弾がゼロ距離で放たれた。
ゴーストは咄嗟に大剣から手を離し、体を真横に投げ出して魔法弾を回避する。しかし、光弾の余波が右肩を掠め、強烈な熱と痛みが全身を駆け巡った。
「あぁっ……!」
アスファルトの屋上を転がり、膝をつくゴースト。
呼吸が荒い。右肩からは血が流れ、黒いドレスはボロボロに引き裂かれている。
彼女の最大の武器である【漆黒の大剣】は、ルディアの足元に転がっていた。
「……武器を手放すとは。どうやら、本当に限界のようですね」
ルディアは冷たく見下ろし、蛇剣をシュルシュルと元の剣の形状に戻した。
(クソッ……強すぎる……!)
零の頭の中で、絶望的な計算式が弾き出される。
自身の魔力出力は二割以下。武器は喪失。負傷により身体能力も低下。
対する敵は、アンチジャマーのリングに守られた無傷のフルスペックSランク。
生命を削って強引に魔力を練り出そうとしても、物理的にこの空間に存在する『魔力そのもの』がジャマーに喰われているため、これ以上の出力は不可能だ。
これまでの『最強無双』が嘘のように、今の彼は完全な弱者として狩られる側に回っていた。
「なぜ、そこまで抗うのですか? あなたは神。この腐りきった世界を慈しむ必要などない。さあ、私と共にその力を解放し、新たな世界の創世主となりましょう」
黄金の光を背負って語りかけるルディア。
しかし、ゴーストは血を流しながらも、ゆっくりと立ち上がった。
(どうする。魔力は使えない。武器もない。……なら、残っているのはなんだ?)
ゴーストの紫の瞳が、冷静に周囲の状況をスキャンしていく。
ここは建設中の高層ビル。先ほどのルディアの攻撃で屋上は半壊し、眼下には鉄骨が剥き出しになった下の階のフロアが見えている。あちこちに建築資材、足場、ワイヤー、そして大量のセメント粉が散乱している。
そして、先日の休日に親友の稔と格闘ゲームをした時の記憶が、フラッシュバックした。
『お前……なんでそんなに反応速度おかしいんだよ!? 全弾ジャストガードからの、超必殺技の発生前を潰すとか、人間の反射神経じゃねえよ!!』
『いや、大振りの攻撃は、キャラクターの動きをよく見てればいつ来るかわかるだろ。ほら、肩のドットが沈み込んだ瞬間に……』
そうだ。
魔力がなくても、武器がなくても。彼には実戦で極限まで研ぎ澄まされた『特S級の動体視力』と『観察眼』がある。
(あの変態的な軌道の蛇剣だって、振る前に必ず『起こり』のモーションがあるはずだ。それに、ルディアがフルスペックを出せているのは、腕の赤いリング(アンチジャマー)のおかげ……あれを壊せば、あいつも俺と同じ土俵に引きずり下ろせる)
ゴーストは、ふうっと長く冷たい息を吐き出した。
魔法を強制するのを完全にやめた。ここからは、ただの男子高校生が、知略と環境のすべてを使ってSランクを出し抜くための『ゲーム』だ。
「……寝言は、寝て言ていいなさい」
ゴーストはそう吐き捨てると、反転して半壊した屋上の縁から、下層のフロアへと身を投げ出した。
「逃がしませんよ!」
ルディアが後を追って飛び降りる。
着地したのは、鉄骨が剥き出しになり、壁もない建設中のフロア。月明かりだけが差し込む、無数の柱と足場が入り組んだ立体的な空間だ。
「神よ! 隠れんぼですか? 神聖なる御身に相応しくない振る舞いですね!」
ルディアが蛇剣を振るう。
黄金の鞭がコンクリートの柱を次々とへし折り、瓦礫を撒き散らす。
その瓦礫の陰から、ゴーストが飛び出した。手には、現場に落ちていた長さ一メートルほどの『太い鉄筋』が握られている。
「鉄クズが武器ですか。惨めですね!」
「【聖蛇の抱擁】!」
ルディアの手首が微かに沈み込んだ。
(今だ……肩の筋肉が収縮し、手首の角度が十五度傾いた。鞭の軌道は……右下からの掬い上げ!)
ゴーストの瞳が、暗闇の中で蛇剣の初動(数フレーム)を完全に捉えた。
彼女は回避するのではなく、自ら前へと踏み込む。
そして、手にした鉄筋を、迫り来る黄金の鞭の軌道上——フロアを支える太いH鋼の柱の隙間に、斜めに突き立てた。
——ガガンッ!!!
鞭のようにしなった蛇剣の刃が、ゴーストに届く寸前で、突き立てられた鉄筋とH鋼の間に『絡め取られて』食い込んだ。
狭く入り組んだ鉄骨の森という『環境』を利用し、蛇剣の長所であるリーチと柔軟性を逆に利用して、物理的にロックしたのだ。
「なっ……私の蛇剣を、こんな鉄骨の隙間に誘導したというのですか!?」
「大振りすぎるのよ」
驚愕するルディア。蛇剣を引こうとするが、複雑に絡みついた刃はすぐには抜けない。
その一瞬の隙。
ゴーストは鉄骨を蹴り上げ、ルディアの懐へと弾丸のように飛び込んだ。
(狙うのは、あいつの右腕のリング……!!)
ゴーストは、残された全魔力の二割を、自分の右手の『指先』だけに極限まで圧縮した。絶対零度の凍気が、彼女の手を鋭い氷の爪に変える。
「させません! 【光盾】!」
ルディアが左手で咄嗟に魔力障壁を展開する。Sランクの分厚い光の盾。
しかし、ゴーストは止まらない。
彼女は突進の勢いのまま、床に散乱していた『セメント粉』の入った袋を左足で蹴り上げた。
バフッ! と大量の粉塵がルディアの視界を覆い尽くす。
「目眩ましですか! 無駄なことを!」
ルディアが光盾で粉塵を弾き飛ばそうとした、その瞬間。
ゴーストは、指先に圧縮していた魔力を、氷弾を撃ちだす。
予想通り、氷弾を避けたルディアの体勢が大きく崩れた。
「きゃあっ……!?」
「もらった……!」
ゴーストの氷の爪が、ルディアの右腕に深々と突き立てられる。
狙いは肉体ではない。その腕にはめられた、禍々しい赤いリング。
——パキィィィンッ!!!
絶対零度の冷気によって極限まで脆くなったリングが、ゴーストの握力によって粉々に砕け散った。
「あ、あああ……私の、アンチジャマーが……!」
ルディアの顔が青ざめる。
その瞬間、結界内に充満する広域魔力ジャマーの減衰効果が、Sランクである彼女の身体にも平等に襲いかかった。
黄金のオーラが急速に萎み、ルディアがその場に膝をつく。
「はぁっ……はぁっ……」
ゴーストもまた、満身創痍で膝をついた。魔力も体力も、すでに限界を超えている。
だが、盤面は完全にひっくり返った。
アンチジャマーを失ったルディアは、魔力に頼り切っていた分、その喪失による反動が大きい。対して、ゴーストは、日頃から魔力など一切使わずに自転車でタイムセールを走り抜ける一般人だ。
「……さて。これで、条件は同じね」
ゴーストは、粉塵の中でゆっくりと立ち上がり、冷酷な瞳でルディアを見下ろした。
特S級の亡霊の、真の反撃が始まろうとしていた。




