第八十七話
三日後。雲一つない、新月の夜。
三神家の夕食の片付けを終えた零は、財布とスマホをポケットに突っ込み、玄関のドアを開けた。
「じゃあ、ちょっと駅前のコンビニまで行ってくる。風呂上がりに食べる用のアイス、何か希望あるか?」
「あっ、私、今日発売の期間限定ピスタチオ&ベリーのやつ! 絶対それね!」
「澪はいつも通り、箱に入ってるチョココーティングのアイスでいいわよー。気をつけてねー」
リビングから聞こえる妹と姉の暢気な声に「はいはい」と応え、零は夜の住宅街へと歩みを出した。
空には月がなく、街灯の光だけがアスファルトを薄暗く照らしている。秋の夜風が火照った体に心地よく、絶好の買い出し日和——のはずだった。
——ピロピロピロピロピロピロピッッッ!!!
ズボンのポケットの中で、自作の『特製・魔獣探知アプリ』が、これまでに聞いたこともないような異常な警告音を鳴らし始めた。
零が慌ててスマホを取り出すと、画面には目を疑うような光景が広がっていた。
彼が住む区の全域に、赤いピン——魔獣の発生源を示すマーカーが、雨後の筍のように数十、いや数百という単位で一斉に出現したのだ。
「……は!? なんだこれ、バグか!? いや、違う……!」
零は顔を上げ、夜空を睨みつけた。
変身前でも分かる。空気が重い。街の至る所から、微かな地鳴りと共に、禍々しい瘴気が立ち昇り始めているのが肉眼でも確認できた。
さらに、街を囲むように、巨大な黒いオーロラのような結界がドーム状に展開されていく。
(この結界……数日前に俺が感じた嫌な気配の正体か! 誰かが意図的に、この街全体に魔獣を引き寄せる罠を仕掛けやがったんだ!)
ピンポイントで自分の住む街が狙われた。その事実が、零の脳内で急速に怒りへと変換されていく。
「ふざけんな……! 姉ちゃんたちも、父さんも母さんもいる地域で、何してくれてんだ!!」
限定のピスタチオアイスなど、この際どうでもいい。いや、ここで時間を取られれば売り切れてしまうかもしれないという焦りが、さらに彼の怒りを加速させた。
零は路地裏の影に飛び込むと、胸元のペンダントを力強く握りしめた。
漆黒の魔力が全身を包み込み、制服が白フリルをあしらったゴシックドレスへと変貌する。銀の長髪が闇夜に溶けるような黒髪へと変わり、冷徹な紫の瞳が開かれた。
「——行くぞ」
ゴーストへと変身した零は、影魔法を展開し、最も強い魔力波長が集中している結界の中心——駅前の再開発エリアに建設中の高層ビル群へと超高速で空間跳躍した。
空間が歪み、建設中のビルの屋上に漆黒のドレスが舞い降りる。
そこには、すでに『招待主』たちが待ち構えていた。
「——ああ……! お待ちしておりました、偉大なる深淵の神よ!」
暗闇の中から、軍服風のコートを羽織った須藤真里が、歓喜に満ちた声を上げて進み出てきた。その後ろには、無機質な少女・宮子と、双子の幹部であるルカとリリアが控えている。
「犯罪シンジケート『福音の鐘』……。お前らか」
「いかにも! 前回のふ頭での戦い、神であるあなたは、我々と協会の俗悪な争いに失望し、姿を消された。……だからこそ、我々は気づいたのです。あなたに相応しいのは、もっと巨大な絶望と悲鳴に満ちた舞台なのだと!」
真里が両手を広げると、眼下の街から魔獣の咆哮が次々と上がり始めた。
彼女たちが打ち込んだ『誘引装置』によって、地下や山間部から大量の魔獣がこの街に強制転移させられようとしているのだ。
「この街に住む数万の人間を贄とし、神の真の力を顕現させる! さあ、我々と共にこの腐敗した世界を壊しましょう!」
「……頭湧いてんのか」
ゴーストの紫の瞳が、絶対零度の殺意を帯びて細められた。
「ここは私の庭だ。……お前らの安いカルト遊びのために、私の日常をこれ以上荒らさせない」
ゴーストは背中の【漆黒の大剣】を引き抜いた。
氷と炎の魔力を同時にチャージし、一撃でこの屋上ごと狂信者たちを吹き飛ばす【絶炎氷華】の構え。
「消えなさい」
大剣を振り抜く。
——しかし。
本来なら空を二分するほどの極大の氷炎が放たれるはずの刃からは、まるでガス欠のライターのように、小さな冷気と火の粉が「プスッ」と漏れ出ただけだった。
「……なっ!?」
ゴーストは目を見開いた。
体内の魔力回路が、見えない鎖でがんじがらめに縛り付けられているような感覚。大剣を持つ腕すら、鉛のように重い。
「アハハハハハッ!! 驚かれましたか、神よ!」
真里が狂気に満ちた笑い声を上げた。
「この街を覆う結界の正体。それは魔獣の誘引装置であると同時に、魔法少女の魔力を強制的に減衰・相殺する『広域多重魔力ジャマー』なのです! それも、ロシアの暗部から提供された軍用規格のものを、数日かけて数十台も連動させた特注品!」
(魔力ジャマーだと……!?)
ゴーストは舌打ちをした。確かに、以前極道たちが使った旧式のジャマーを破壊したことはある。だが、これほど広範囲かつ高密度の魔力干渉は初めてだった。体感として、出力が通常の二割以下にまで落ち込んでいる。
「以前、三流の極道どもがジャマーを使ったテロを起こしたそうですね。彼らは愚かにも、自分たちの雇った魔法少女の魔力まで減衰させて自滅した」
真里は自身の腕にはめられた、禍々しい赤い光を放つリングを見せつけた。
「しかし我々は違う。この『魔力励起リング(アンチジャマー)』によって、この結界内でも我々だけは常に100%の魔力を維持できる! 神よ、これはあなたの御力を試すための『檻』! この逆境を乗り越えてこそ、我々が崇めるに足る絶対神!!」
「……勝手な理屈を押し付けないでくれる?」
ゴーストが構え直したその瞬間、空気が鋭く鳴った。
「——死角、取った」
「——神の血を、拝見する」
双子のルカとリリアが、完全に気配を殺してゴーストの真後ろの影から飛び出していた。
ジャマーの影響で魔力探知能力が著しく低下しているゴーストは、背後からの急襲への反応が一瞬遅れた。
双子が放った猛毒の短剣が、ゴーストの首筋を十字に刈り取る軌道で迫る。
「チッ……!」
ゴーストは間一髪で首を捻り、大剣の『腹』を盾にして短剣の刃を受け止めた。
——ガキィィィンッ!!
凄まじい金属音が鳴り響き、火花が散る。フルパフォーマンスの双子の一撃は重く、魔力による身体強化が解けかかっているゴーストの足が、屋上のコンクリートを削りながら数メートル後退した。
「重い……!」
「ルカ、追撃!」
「了解」
後退したゴーストの死角を突くように、双子が息をもつかせぬ連撃を叩き込んでくる。
右からの斬撃を大剣で弾き落とした直後、左下からの足払い。それを跳躍して躱した瞬間、空中にいるゴーストの頭上から、無機質な少女・宮子の指先が振るわれた。
「【スパイダー・ワルツ】」
夜の闇に紛れた、不可視の極細鋼糸の網。魔力を帯びた刃よりも鋭い糸が、全方位からゴーストを切り刻もうと迫る。
本来のゴーストであれば、全身から闇の魔力を放出して糸を腐食させるか、超高速の影移動で離脱できる場面だ。しかし、魔力が練れない今は、物理的に躱すしかない。
「ふっ……!」
ゴーストは空中で体を錐揉み回転させ、風切り音と微かな月明かりの反射だけを頼りに、網の目の『隙間』を縫うようにして強引に抜け出した。
しかし、完全には避けきれず、漆黒のドレスの裾と二の腕を鋼糸が掠め、赤い血がツッと宙を舞った。
「おお……! 神の血……なんと美しき赤!」
「キモいこと言ってないで、さっさと戦いなさいよ」
着地と同時に大剣を構え直すゴースト。その息は微かに上がっている。
無傷のまま圧倒的な力で蹂躙し続けてきた彼女にとって、敵の攻撃によって明確な流血を強いられたのは、これが初めてだった。
「素晴らしい身のこなしです。しかし、いつまで耐えられますか!?」
真里が杖を天に掲げた。
杖の先端に、光と闇が混ざり合ったような不気味なエネルギーが、高密度に圧縮されていく。ふ頭の戦いで、緋雪の氷盾すら貫きかけた大魔法のチャージだ。
「さあ、神よ! この光を砕き、我々に奇跡を見せてください! 【堕ちた聖者の光罰】!!」
極大のレーザーが、音を置き去りにしてゴーストへと放たれた。
回避するスペースはない。ゴーストは両足を踏み張り、大剣を盾のように構えて、残された僅かな魔力を一点に絞り出した。
「——【氷華・零壁】!」
大剣の表面に、分厚い氷の壁が展開される。
直後、極大のレーザーが氷壁に激突した。
——ドゴォォォォォォォンッ!!!
凄まじい爆発と熱波が屋上を包み込む。
レーザーの圧倒的な熱量により、出力の下がった氷の盾が急速に融解し、水蒸気爆発を起こす。
「ぐぅぅっ……!」
ゴーストの細い腕が軋み、ブーツの底がコンクリートを抉りながらさらに後退させられる。氷盾には無数のヒビが走り、限界を告げる悲鳴を上げていた。
「どうしました、神よ! あなたの力はそんなものではないはずだ! やはり、この程度の試練では足りないのですか!?」
「……うるっ、さい……ジャマー下でイキがるんじゃないわよ!」
熱波と爆風を全身に浴びながら、ゴーストはギリギリのところでレーザーの軌道を上空へと逸らし、氷盾ごと弾き飛ばした。
大きく息を吐きながら膝をつくゴースト。ドレスのあちこちが焦げ、美しい黒髪も煤で汚れ、その姿はかつてないほどに追い詰められていた。
「……なるほど。これが『手詰まり』ってやつか」
ゴーストは、大剣を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がった。
双子は再び影に潜み、宮子は周囲に死の糸を張り巡らせ、真里は次なる大魔法の詠唱に入っている。圧倒的な絶対絶命。福音の鐘のメンバーは、ゴーストがここで力尽きるか、あるいは未知の奇跡を起こすかの二択しか考えていない。
しかし。
彼らは根本的に間違えていた。
目の前にいるのは「神」などではなく、アイスを買いに行くのを邪魔されてガチギレしている『宇宙一過保護な主夫(男子高校生)』であるということを。
「——出力が二割しか出ないなら、魔法なんて捨てればいい」
ゴーストは、ふうっと長く冷たい息を吐き出した。
紫の瞳に宿っていた焦りが消え、代わりに『極限の集中』が宿る。
(魔力が減衰してるせいで、大技は撃てない。なら、包丁の研ぎ方と同じだ。残った二割の魔力を、刃の表面『数ミリ』にだけ極限まで圧縮して、切れ味と強度だけに全振りする)
全体を強化するのではなく、触れる部分だけを絶対零度と極炎でコーティングする。それは、ただの力押しではなく、長年の家事で培われた『限られたリソースの最適化』という、主夫ならではの異常な精密魔力操作だった。
「……来なさい。カルトの狂信者ども。ここから先は、ただの『物理』の折檻よ」
ゴーストが構えをスッと下げた。
その瞬間、彼女から放たれていた圧倒的な魔力の気配が、完全に『ゼロ』になった。
「なっ……魔力を完全に絶った!? 自ら無防備になるなど、自暴自棄にでもなったか!」
「——好機。仕掛ける」
双子のルカとリリアが、魔力反応を失ったゴーストの死角から同時に飛び出す。
左右から迫る、必殺の毒刃。
だが。
「——遅い」
ゴーストの姿が、ブレた。
魔力による身体強化など使っていない。純粋な肉体のバネと、特S級の動体視力による『神速のステップ』。
双子の刃が空を切った瞬間、ゴーストはすでにルカの懐に潜り込んでいた。
「なっ——!?」
「右腕、もらった」
——ズバァァァンッ!!
魔力を刃の表面数ミリに圧縮した【漆黒の大剣】が、ルカの魔力障壁を紙切れのように叩き斬り、その右腕の骨を深く抉った。
「ぎゃあああああっ!?」
「ルカ!? おのれ……!」
激痛に悲鳴を上げるルカを庇うように、リリアが短剣を振り下ろす。
しかし、ゴーストは大剣を振り抜いた勢いを殺さず、独楽のように回転。遠心力を乗せた大剣の『平』でリリアの腹部を強打し、その小柄な身体を数十メートル先の貯水槽まで一直線に吹き飛ばした。
——ベゴォォォォンッ!!
鋼鉄の貯水槽が大きくひしゃげ、リリアは血を吐いてそのまま気を失う。
「ば、バカな……!? 魔力を使わずに、フルスペックの幹部をたった二撃で……!」
「宮子! 糸で捕らえなさい!」
真里の叫びに応え、宮子が十本の指を猛烈な速度で操る。
数百本の鋼糸が、不可視の檻となってゴーストを包み込もうとする。
「見えない糸なら、燃やしてしまえばいい」
ゴーストは、大剣の表面に圧縮していた『炎』の魔力を、足元のコンクリートに叩きつけた。
削り取られた大量のコンクリートの粉塵が空中に舞い上がり、それに微小な炎が引火して、一瞬にして空中に『火の粉の壁』を作り出す。
炎の粉塵が鋼糸に付着し、不可視だったはずの網の目が、赤い光の線となって完全に可視化された。
「……嘘」
「仕掛けが見えれば、ただのロープよ」
宮子が驚愕に目を見開いた瞬間。
ゴーストは可視化された糸の隙間を、まるで障害物競走を駆け抜けるかのような滑らかな動きですり抜け、宮子の眼前に肉薄した。
「終わりね」
大剣の柄頭による、容赦のない鳩尾への一撃。
「カハッ……!」と息を詰まらせ、宮子は白目を剥いて崩れ落ちた。
ものの十秒。
魔力を奪われたはずのゴーストが、純粋な身体能力と異常な戦術眼だけで、フルパフォーマンスの幹部三人を瞬殺してみせたのだ。
「あ、あ、ああ……っ!」
残された真里は、後ずさりしながら杖を震わせた。
「なんという……なんという圧倒的な暴力! 魔力を封じられてなお、この力! やはりあなたは、本物の神だ……!」
恐怖と歓喜が入り混じった狂信者の叫び。
だが、ゴーストの紫の瞳は、ゴミを見るかのように冷ややかだった。
「勘違いしないで。私はただ、日常を邪魔されて、猛烈にイラついているだけよ」
ゴーストが大剣を肩に担ぎ、真里に向かってゆっくりと歩み寄る。
そして、恐怖に顔を引き攣らせる真里の胸倉を容赦なく片手で掴み上げると、その美しい顔を真理の鼻先まで近づけた。
「魔獣を呼び寄せる誘引装置、どこに仕掛けたの。全部解除しなさい。……今すぐやらないなら、その杖ごとあんたの腕をへし折るわよ」
脅しではない。その瞳に宿る純粋な怒り(買い物を邪魔された怒り)は、真里の狂信すらも氷点下に凍りつかせるほどの殺気を放っていた。
「ひっ……! か、神よ、お待ちを……これはあなた様のための……!」
ゴーストが容赦なく真里をコンクリートの床に叩きつけようと腕を振り上げた、まさにその瞬間だった。
——ピキィィィィィィンッ!!!!
突如として、夜空を埋め尽くすほどの強烈な『黄金の光』が、新月の暗闇を真っ二つに引き裂いた。
ゴーストの【特S級の危機察知能力】が、かつてない最大級の警報を脳内で鳴らした。
(ヤバい——ッ!!!)
真里を投げ捨て、ゴーストは反射的に後方へ大きく跳躍した。
直後、彼女が先ほどまで立っていたコンクリートの床に、一条の極太の光線が天空から突き刺さった。
——ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
建設中の高層ビルの屋上が、文字通り『蒸発』した。
すり鉢状に抉り取られたコンクリート。溶解し、赤熱した鉄骨。
ゴーストは爆風に吹き飛ばされ、受け身を取りながらなんとか屋上の縁で踏み止まるが、衝撃を殺しきれずに口の端から一筋の血を流した。
「……っつ。なんだ、今の規格外の魔力は……!」
大剣を杖代わりにして身を起こすゴーストの目に、光の柱の中からゆっくりと降りてくる一つの人影が映った。
黄金の長い髪。顔の半分を純白のベールで隠し、神聖さを極めたような純白の修道服を纏った女性。
その手首には、真里たちと同じ赤いリングがはめられている。
「——ああ……! ルディア様!!」
床に這いつくばっていた真里が、涙を流しながらその女性に向かって祈りを捧げた。
犯罪シンジケート『福音の鐘』の絶対的指導者、ルディア・ロンディニウム。
「真里。下がりなさい。あなたはよくやりました」
ルディアの声は、鈴を転がすように美しく、そして底知れぬ威圧感に満ちていた。
彼女がゆっくりと足を踏み出すたびに、周囲の空気が黄金色に波打ち、ジャマーの結界下であるにも関わらず、その魔力波長は『Sランク相当』という絶望的な数値を叩き出していた。
特S級の亡霊に立ちはだかる、真の強敵の姿がそこにあった。




