第八十六話
高校の昼休み。教室では、いつものように生徒たちが机をくっつけ合い、賑やかな昼食の時間を過ごしていた。
「……ふむ。今日の卵焼きは、少し甘めにして正解だったな。大葉を挟んだささみの梅肉和えも、塩分控えめで弁当のおかずとしては完璧だ」
三神零は自分の机で、彩り豊かで栄養バランスも完璧な自家製二段弁当を広げ、一人静かに孤独のグルメ(主夫目線)を満喫していた。クラスの女子たちからは時折「三神くんのお弁当、今日もすごい……」「どこの料亭?」と畏敬の眼差しを向けられているが、彼にとっては日常茶飯事である。
そんな至福のランチタイムに、親友の狭間稔が購買の焼きそばパンを咥えながら、血相を変えて突撃してきた。
「おい、零!! お前、俺に隠し事してただろ!!」
「ん? なんだよ急に。……ああ、土曜のオンラインゲームのレイド戦で、俺がレア素材をドロップしたことか? すまん、物欲センサーを完全に無の境地に持っていった結果だ」
「いや羨ましいけどっ!ゲームの話じゃねえよ!!」
稔はバンッ! と零の机を激しく叩き、身を乗り出してきた。
その声の大きさに、周囲の男子生徒たちも「なんだなんだ」と耳をそばだてる。
「俺、見たんだよ! 昨日の夕方、俺がコンビニ行くついでにお前ん家の前を通ったら……お前の家に入っていく、超絶美人の女の子を!!」
——ブゥーッ!!
零は、飲んでいた水筒の麦茶を盛大に吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえてむせた。
「ゲホッ、ゴホッ……! な、何言ってんだお前!」
「誤魔化すな! めっちゃ綺麗な銀髪でさ、スタイルも良くて、なんかオーラが凄かったんだよ! ……っていうか、『羽衣大佐』にめっちゃ似てなかったか!?」
(終わった……!!)
零の背筋に、特A級魔獣と対峙した時よりも冷たい汗が滝のように流れた。
稔の奴、よりによって一番マズいタイミングで家の前を通りやがった。昨日、協会本部で噂になっているとは露知らず、手作りの「塩昆布キャベツ」のお裾分けを取りに来た緋雪をピンポイントで目撃されていたのだ。
「ち、ちちち、違う!! 大佐なわけないだろ! 日本のトップエースが、なんで俺の家なんかに来るんだよ!」
「だよなー。さすがに他人の空似か。でも、じゃああの銀髪の超絶美人は誰なんだよ!? もしかして、こないだお前の母ちゃんがご近所に言いふらしてた『大物の彼女』って、あの人のことか!?」
稔の爆弾発言に、周囲で聞き耳を立てていたクラスの男子たちが一斉に群がってきた。
「マジかよ三神!? お前、彼女いたのかよ!」
「しかも銀髪の超美人!? お前、毎日エプロン着てスーパーの特売チェックしてるだけの主夫系男子じゃなかったのかよ!」
「裏切り者ーッ!!」
「だから違うって言ってんだろ!!」
男子たちの理不尽な追及と野次に、零は顔を真っ赤にして必死に弁明を開始した。
「か、彼女じゃない! ただの、姉ちゃんたちの訓練校の……そう、先輩だ! 日本に留学してきてる外国の人で、ちょっと日本食の作り方を教えてくれって頼まれただけだよ!」
「ふーん? わざわざ年下の男子高校生に料理教わりに来るって、それ完全に脈ありじゃねえか」
「全然脈とかないから! あの人、包丁持たせたら大根じゃなくてまな板を両断するし、火加減調節できなくてフライパン爆発させるし、キャベツの千切り頼んだら指まで切りそうになる超絶ポンコツなんだよ! 俺がついてないと台所が消し飛ぶから、仕方なく面倒見てるだけだ!!」
——その頃。魔法少女協会本部で昼食をとっていた羽衣緋雪は、「くしゅんっ!」と可愛らしいくしゃみをして、部下の弓飛鳥から「風邪ですか?」と心配されていた。
零は、日本のトップエースの尊厳(家事スキル限定)を完膚なきまでに削り落とすことで、必死に『甘い雰囲気など一切ない』ことをアピールした。
「……そ、そこまでポンコツなのか?」
「ああ! 料理のセンスは絶望的だ! だから、彼女とか新婚とか、そういうピンク色な話は一切ない! 以上、解散!!」
零が力強く宣言すると、男子たちは「なんだ、ただの料理教室か」「三神、オカンみたいだな」と呆れ顔で散っていった。
稔だけはまだ少し疑わしそうな目で見ていたが、これ以上突っ込まれる前に、零は強引に話題を昨日のゲームのイベントに切り替えた。
(あぶねぇ……なんとか誤魔化せた。これ以上大佐に家に来られたら、俺の平穏な日常が本当にスキャンダルで崩壊する。今度からタッパーの受け渡しは玄関先じゃなくて、近くの公園に指定しよう……)
最強の未登録魔法少女は、誰にも知られることなく、高校の教室で一人深刻な胃の痛みに耐えるのだった。
——その日の夕暮れ。
東京の某区。零が通う高校や、彼が愛用している激安スーパーがある、まさしく『彼の生活圏』のど真ん中。
夕日に照らされる雑居ビルの屋上で、二つの小さな影が動いていた。
犯罪シンジケート『福音の鐘』の幹部である双子、ルカとリリアだ。
彼女たちは無機質な手つきで、黒い金属製の杭のようなものを、ビルの貯水槽の陰に深く打ち込んでいた。
「——第三ポイント、設置完了」
「——これで、このエリアを取り囲む結界の基礎は完成した」
双子がトランシーバーで報告すると、ノイズ混じりの須藤真里の声が返ってきた。
『ご苦労様。誰にも見られていないわね?』
「——問題ない。協会の索敵網にも引っかからないよう、魔力遮断の処理も完璧」
双子が打ち込んだ黒い杭。
それは、周囲の大地から魔力を吸い上げ、特定の周波数の波長を放つことで、広範囲の魔獣を強制的に引き寄せる『特級の誘引装置』であった。
数日前のふ頭での三つ巴の戦い。
あの時、両陣営の魔法を無力化し、無言のまま姿を消したゴースト(※本当はゲームの約束に遅れそうだっただけ)の行動を、真里は『俗物たちの陳腐な争いに失望したからだ』と狂信的に解釈していた。
『神は、ふ頭のような人のいない場所での小競り合いなど望んでおられない。……より多くの絶望、より多くの悲鳴。それこそが、神がこの世界を浄化するための舞台として相応しい』
真里の歪んだ声が響く。
『過去のデータから、神の波長が最も多く観測されているのがこのエリアよ。ここは間違いなく、神が守護する特別な結節点。……ならば、ここを魔獣の揺り籠に沈めることで、神は必ずや我々の前に真の姿を現してくださるはず』
全くの見当違いではあるが、「このエリアによく出現する」というデータ自体は間違っていない。なぜならそこは、三神零の『地元』だからだ。夕飯の買い出し中に湧いた魔獣を、彼が「邪魔だ」と即座に始末しているからこそ、波長の観測データがそこに偏っているだけなのである。
「——決行は、三日後の新月の夜」
「——数万の生贄を、神に捧げる」
双子は淡々と告げ、影の中に溶け込むように姿を消した。
彼らは知らない。
自分たちが『神への供物』として選んだその場所が、宇宙一過保護な男子高校生が何よりも大切にしている【家族の生活圏】であるということを。
そして、そこで大規模なテロを起こすことが、特S級の亡霊の『完全なる私怨』を招く最悪のトリガーになるということを。
「えーっと、今日の夕飯は……」
同じ頃、高校からの帰り道。
零はスーパーの特売チラシを真剣な目で睨みつけながら、商店街を歩いていた。
「よし、今日は特売の豚ひき肉で、ピーマンの肉詰めだな。澪も玲奈も訓練で疲れてるだろうし、しっかり栄養つけさせないと。……ん?」
ふと、ズボンのポケットの中でスマートフォンが微かに震えた。
零が取り出して画面を見ると、自作の『特製・魔獣探知アプリ』が起動していた。しかし、いつものように魔獣の発生源を示す赤いピンは立っていない。ただ、レーダーの波形が砂嵐のようなノイズ混じりにチカチカと不規則な点滅を繰り返しているだけだった。
「……なんだこれ。バグか?」
零は眉をひそめ、スマホの画面を軽く叩いた。
ペンダントを使って変身していなければ、零は魔力を一切感知できない完全な一般人である。そのため、アプリが拾っている微弱な魔力の乱れ——双子が設置した『誘引装置』が放つ特殊な波長——を、己の五感で感じ取ることはできない。
「OSのアップデートで干渉でも起きたか? それとも、どこかのWi-Fiの電波と混線してるのか……」
周囲を見渡すが、夕暮れの商店街には買い物客や下校中の学生がいるだけで、変わった様子はない。魔力という概念を直接知覚できない彼にとっては、「自作アプリの調子が少し悪い」という以上の情報は得られなかった。
「まあいいか。帰ったら飯の準備の前にコードを見直してみよう。それより早く行かないと、特売のひき肉が売り切れちまう」
夕飯の買い出しという至上命題を前に、アプリの小さな異常はあっさりとスルーされた。スマホをポケットに突っ込み、零はスーパーへ向かって歩き出す。
平穏な日常の裏側で、カルト組織の最悪のテロ計画が着々と進行していることなど露知らずに。
日常と非日常の境界線が、音もなく崩れ去ろうとしていた。




