第八十五話
土曜日の夕暮れ時。
東京湾に面した人気のない巨大なコンテナふ頭で、重低音の地響きと共に、巨大な毒液の塊がアスファルトを溶かしながら飛び散っていた。
「シャァァァァァッ!!」
八つの鎌首をもたげ、有毒な紫色の瘴気を撒き散らす特A級魔獣『ヴェノム・ヒドラ』。
しかし、その暴虐が東京の市街地に届くことはない。
なぜなら、ヒドラの眼前に立ちはだかる漆黒のドレスを纏った美少女——『特S級の亡霊』が、すでに勝負の決着をつけるための大剣を振りかぶっていたからだ。
「——【絶炎氷華】」
ゴースト(三神零)が身の丈ほどの漆黒の大剣を一閃する。
絶対零度の冷気がヒドラの八つの首を瞬時に氷漬けにし、直後に極大の炎がその氷を内部から爆発させる。断末魔すらなく、ヒドラの巨体は一瞬にして燃え殻へと変わった。
「ふぅ……。休日の夕方に湧くなんて面倒な奴だ。さっさと掃除して帰らないと。今日は十八時から、稔とオンラインゲームの期間限定イベントを周回する約束があるんだから」
ゴーストは両腕を広げ、いつものように【深淵なる虚無の清掃】を展開しようとした。
だが、その手がピタリと止まる。
——パチパチパチパチ。
静まり返ったふ頭に、場違いな拍手の音が響き渡った。
ゴーストが冷徹な紫の瞳を向けると、積まれたコンテナの影から、四人の人影がゆっくりと姿を現した。
「……素晴らしい。やはりあなたの御力は、この腐敗した世界を浄化する真の『福音』そのものだ」
先頭に立つのは、軍服を思わせる漆黒のコートを羽織った女性——犯罪シンジケート『福音の鐘』の高級幹部、須藤真里である。彼女の後ろには、無機質な表情の少女・宮子と、双子の部下であるルカとリリアが恭しく傅いている。
(誰だ、こいつら。……っていうか、なんかヤバい雰囲気の連中だな)
完全なる一般人のメンタルで警戒を強めるゴーストに対し、真里は陶酔しきった瞳で膝をつき、祈りを捧げるように両手を組んだ。
「お初にお目にかかります、偉大なる深淵の神よ。我々は『福音の鐘』。この偽りに満ちた世界を破壊し、あなたが玉座に就くための新世界を創り上げるための奉仕者です」
「……は?」
「あなたの力は、協会の愚劣な犬どもに追われるような安いものではない。どうか我々の手を取り、我らが絶対的指導者であるルディア様と共に、この世界をあるべき姿へと導いてはいただけないでしょうか!」
真里の狂信的な言葉が響く。
数多の魔導具をゴミのように消し去られ、作戦をことごとく粉砕され続けてなお、彼女たちの信仰心は微塵も揺らいでいなかった。むしろ、その圧倒的な力を間近で見せつけられたことで、崇拝の念は完全に極まっていた。
(……うわぁ、ガチでヤバい奴らだ。俺を『神』とか言ってるよ。関わったら絶対面倒くさいことになるパターンのやつじゃん)
ゴーストは冷ややかな目を向け、首を横に振った。
「……悪いけど、カルトのお遊びに付き合っている暇はないわ。あなたたちにも、あなたの言う指導者にも興味はない」
ゴーストが冷たく言い捨てて影の中へ逃げ込もうとした、まさにその瞬間だった。
——ピキィィィィンッ!!!
真里たちとゴーストの間を分断するように、天空から巨大な『氷の城壁』が突き刺さった。
「——そこまでよ、テロリスト。あなたたちの異常な魔力波長、完全に捕捉したわ」
凛とした声と共に、氷の城壁の上に降り立ったのは、抜身の日本刀を構えた銀髪の少女——日本支部トップエース、羽衣緋雪だった。
さらに、彼女の背後から次々とエース部隊の面々が到着し、ふ頭の周囲を完全に包囲する。
「新堂鈴乃、配置完了! いつでもやれるよ!」
「弓飛鳥、上空の退路は塞ぎました!」
「只野真奈、地中の逃げ道も完全にロックしたよー!」
「新実由鶴。……対象の顔面データを照合。ビンゴですね。かつて部隊を壊滅させた責任から逃亡した元エース候補、須藤真里。そして彼女が率いるテロ組織『福音の鐘』の幹部たちです」
上空のドローンから由鶴の冷徹な分析音声が響く。
突如として乱入してきた協会のエース部隊を前に、真里はゆっくりと立ち上がり、その顔に激しい憎悪を浮かべた。
「……協会の犬どもが。神との神聖な対話の時間を邪魔するとは、万死に値するわ」
「神、ですって? 狂った思想で東京に魔獣を呼
び寄せていたのは、あなたたちね」
緋雪が刀の切っ先を真里に向ける。
その直後、緋雪は視線を少しだけずらし、氷の壁の向こう側に立つゴーストへと向けた。その蒼い瞳には、人類の守護者たる未登録魔法少女への敬意が込められている。
「ゴースト。彼女たちは世界を脅かすテロリストよ。あなたを捕縛する命令も出ているけれど……今日だけは見逃してあげる。だから、この場は私たちに任せて引き下がりなさい」
緋雪なりの、ゴーストに対する最大限の譲歩と気遣いだった。
しかし、それを聞いた真里が、耐えきれないとばかりに爆笑を上げた。
「アハハハハッ! 見逃す!? この虫ケラどもが、全能なる神を見逃すですって!? これ以上の不敬はないわ! 宮子、ルカ、リリア! この愚か者どもを血祭りに上げなさい! ゴースト様のお手を煩わせるわけにはいかないわ!」
「「「御意!!」」」
真里の号令と共に、福音の鐘の幹部たちが一斉に魔力を解放した。
「まずは足元から……!」
双子のルカとリリアが影に溶け込み、エース部隊の死角へと高速で回り込む。影から放たれた無数の暗殺刃が、緋雪たちの背後から迫る。
「させないよ! 【大地の城塞】!」
只野真奈が巨大なハンマーをアスファルトに叩きつけると、分厚い岩の壁が隆起し、双子の刃を完全に弾き返した。
「カウンター行くよ! 【爆炎連刃】!!」
新堂鈴乃が双剣に炎を纏わせ、岩壁を蹴って跳躍。影から抜け出た双子に向かって怒涛の炎の連撃を浴びせる。
「チッ……なら、これならどう?」
無機質な少女・宮子が指先を振るう。展開されたのは、魔力を帯びた不可視の極細鋼糸と、猛毒を塗った無数の針。
「見え見えです! 【ウィンド・ディフレクト】!」
弓飛鳥が槍を回転させ、強烈な竜巻を発生させて毒針の軌道を全て逸らす。上空からは由鶴のドローンがレーザー照射で宮子の立ち位置を執拗に狙撃した。
「沈みなさい、偽りの正義! 【堕ちた聖者の光罰】!!」
須藤真里の杖から、光と闇が混ざり合ったような禍々しい極大のレーザーが放たれる。コンテナを容易く貫通するその一撃が、緋雪へと迫る。
「私の氷は、悪意には屈しない! 【氷華・絶対防壁】からの——【凍てつく鏡面】!!」
緋雪が展開した分厚い氷の盾がレーザーを受け止め、さらにその表面を鏡のように凍てつかせることで、極大の光罰を空へ向かって反射させた。
——ドンッ! バゴォォォンッ!!
飛び交う高位魔法。削り取られるアスファルト。空を焦がす爆炎と凍気。
エース部隊と狂信者たちによる、最高峰の魔法少女同士の死闘がふ頭を包み込んだ。
その文字通りの『戦場の中央』で。
ゴーストは、ただ一人、ポツンと立ち尽くしていた。
(……なんで、俺を置いてドンパチ始めてるの?)
右からは福音の鐘の怪しい魔法が飛び交い、左からはエース部隊の炎や氷が飛び交う。
真里たちは「神をお守りしろ!」と叫びながら戦い、緋雪たちは「ゴーストに被弾させないで!」と叫びながら戦っている。
つまり、『両陣営がゴーストを庇いながら、敵対陣営を全力で攻撃する』という謎の構図が完成してしまっていたのだ。両者ともゴーストを巻き込まないように細心の注意を払って魔法を撃ち合っているため、ど真ん中にいるゴーストの周囲だけが、まるで台風の目のように無風地帯となっている。
(……今、十七時四十五分。十八時からのマルチプレイのイベントに遅れたら、稔の奴が絶対キレる! あいつ、このイベントのために一週間前から準備してたんだぞ……!)
親友との約束を破るわけにはいかない。
しかし、自分がここで力を使って両者を制圧すれば、今度は両方から「待ってくれ」「話をさせてくれ」と面倒な長話に巻き込まれるのは目に見えている。カルトに崇められるのも、協会に協力者として目をつけられるのも、平穏な一般人ライフを望む彼にとっては絶対に避けたい事態だった。
(……あれ? これ、もしかして俺、今完全に意識の外に置かれてないか?)
零は周囲を見渡した。
真里と緋雪は互いの大技をぶつけ合い、部下たちも死闘に完全に没頭している。全員が「ゴーストは安全な場所にいる」と勝手に思い込み、目の前の強敵を倒すことに全神経を集中させていた。
(……よし。今だ)
ゴーストは、大剣を静かに背中に納めた。
そして、爆発の閃光と土煙がふ頭を覆い隠したその瞬間——足元の影をスッと広げ、音も立てずにその中へ没した。
誰一人止める者もなく、誰一人気づく者もなく。
世界最高峰の魔法少女たちが死闘を繰り広げる戦場のど真ん中から、特S級の亡霊は、文字通り『しれっと』離脱を果たしたのである。
「はぁぁぁぁっ!!」
「くそっ、しぶとい犬どもめ……!」
数分後。
互いに魔力を大きく消耗し、息を切らしながら距離を取る緋雪と真里。
ふ頭のあちこちで火災が起き、コンテナがひしゃげている。これ以上の戦闘は両者ともに致命傷になりかねないと判断し、一時休戦の空気が漂った、その時。
煙が晴れた戦場の中央を見て、両陣営の全員がハッと息を呑んだ。
「……ゴ、ゴースト様が、いらっしゃらない!?」
「いつの間に……! 私たちのレーダーにも全く反応がなかったわ!」
そこには、先ほどまで立っていたはずの漆黒の美少女の姿が、影も形もなくなっていた。
「ああ……! なんと恐れ多いことか!」
真里がその場に膝をつき、天を仰いだ。
「我々の見苦しい争いなど、神の御目に留める価値すらなかったということ! この俗物どもとの戦いは、神自らが手を下すまでもないと、我々にお任せになったのだわ……!」
勝手な解釈でさらに信仰心を深め、涙を流す狂信者。
一方の緋雪もまた、刀を下ろして安堵の息を吐いていた。
「……よかった。無事に逃げてくれたのね。私たちの戦いを気遣って、あえて身を引いてくれたんだわ……やはり彼女は、無闇に力を使わない高潔な魂の持ち主……」
こちらもこちらで、ゴーストに対する過大評価をさらに強固なものにしていた。
こうして、ただ「友達とのゲームの時間に遅れたくなかったからコッソリ帰った」だけの男子高校生の行動は、両陣営にそれぞれ全く異なる(そしてどちらも間違っている)強烈なリスペクトを残し、三つ巴の戦場は奇妙な決着を迎えることとなった。
「……はぁっ、はぁっ! セーフ!! イベント開始一分前!!」
その数十分後。
自室のパソコンの前に滑り込んだ三神零は、息を切らしながらも急いでヘッドセットを装着し、ゲームのログイン画面を叩いた。
『おっ、ギリギリじゃねえか零!遅刻するかと思ったぜ!』
「わりぃ、ちょっと、変な宗教勧誘とそれに絡む喧嘩に巻き込まれててさ。なんか勝手に盛り上がってたから、こっそり抜け出してきた」
『なんだそりゃ。まあいい、イベント限定のレイドボス、一発で狩ってやろうぜ!』
ヘッドセット越しに響く親友の呑気な声に、零はホッと息を吐いた。
世界の裏側で、カルト組織からは「神」として崇められ、エース部隊からは「高潔な守護者」として敬意を集めていることなど、彼は知る由もない。
「よし、行くぞ! 俺のジャストガードの冴えを見せてやる!」
最強の亡霊は、マウスとキーボードを構え、ただの男子高校生としての至福の時間を満喫するために、モニターの中の平和な戦場へとダイブするのだった。




