第八十三話
放課後の静まり返った教室で、三神零は手渡されたペラペラのわら半紙を、まるで伝説の聖剣でも授かったかのように押し戴いていた。
「……よっしゃあぁぁぁっ!!」
誰もいない教室に、歓喜の雄叫びが響き渡る。
彼が握りしめている数学の補習再テストの答案用紙——その右上には、赤いペンでデカデカと『42点』という数字が丸で囲まれていた。
「点Pが勝手に動こうが、二次関数が虚数解を持とうが、もう俺には関係ない……! 見事に赤点(30点未満)のボーダーラインを突破してやったぞ!」
クラスの平均点が65点であることなど、今の彼にとっては些末な問題だ。重要なのは、これで放課後の強制補習から解放され、スーパーの夕方のタイムセールに毎日フル参戦できる権利を取り戻したという事実である。
世界から恐れられる『特S級の亡霊』は、人類最高峰の魔法少女たちを大剣一振りで黙らせた時よりも遥かに輝かしいドヤ顔を浮かべ、足取りも軽く高校を後にした。
「えーっと、今日は特売の豚バラ肉をメインにして、野菜炒めにしよう。冷蔵庫にキャベツの余りがあったはずだし……」
鞄を肩に掛け、夕飯の献立をブツブツと呟きながら駅前の商店街を歩いていた零は、ふと前方に、見慣れた三つの人影を見つけた。
訓練校の制服を着た姉の澪と、妹の玲奈。
そして、その二人に挟まれて歩く、私服姿の美しい銀髪の少女——日本支部トップエース、羽衣緋雪大佐だった。
「あれ、姉ちゃんたち。それに……大佐も」
「あっ、お兄ちゃんだ!」
「零……くんっ!」
零の姿を認めた瞬間、緋雪の蒼い瞳がパァァッと分かりやすく輝いた。
彼女は周囲の目も気にせず、小走りで零の元へと駆け寄ってくる。その背後には、完全に見えない犬の尻尾が千切れんばかりに振られているのが見えるようだった。
「奇遇だな。今日は訓練校の帰りか?」
「え、ええ。今日は澪と玲奈の座学の特別講師を担当していて……その帰りに、少し街のパトロールを兼ねて、ね」
緋雪が少し頬を染めながら、落ち着かない様子でもじもじとしている。
すると、背後から追いついてきた澪と玲奈が、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら零の両脇から顔を出した。
「ねえねえお兄ちゃん。今日、お母さん仕事が早く終わって家にいるんだよね? せっかくだから、大佐も一緒にうちで夕飯食べていきなよ!」
「そうそう! 大佐、お兄ちゃんの作ったご飯食べたいってずっと言ってたし!」
「ちょ、澪、玲奈!? 私、そんなこと一言も……っ!」
図星を突かれた緋雪は、顔を真っ赤にして慌てて否定しようとする。しかし、その瞳は「絶対に行きたい、なんなら毎日通いたい」という強烈な飢餓感を訴えかけていた。
零は、少しだけ面倒くさそうに頭を掻いた。
(まあ、大佐にはいつも姉ちゃんたちが世話になってるし、飯くらいならいいか。……それに、大佐の家事能力(破滅的)を考えると、たまには温かくて栄養のあるものを食わせないと心配だしな)
すっかり保護者(主夫)目線が染み付いている零は、小さくため息をついてから緋雪に向き直った。
「……大佐がよければ、寄っていくか? 今日はただの豚肉の野菜炒めだけど」
「っ……! い、行くわ! 野菜炒め、大好きよ! 零くんの作る野菜炒めなら、きっとキャベツの甘みが最大限に引き出されていて、シャキシャキの歯ごたえが……!」
「ハードル上げるのやめてくれない?」
完全に胃袋を掌握されているトップエースの早口な食レポにツッコミを入れつつ、零たち四人は連れ立って三神家へと向かうことになった。
「ただいまー」
「お邪魔、いたします……」
三神家の玄関のドアを開け、澪と玲奈に続いて、少し緊張した面持ちの緋雪が足を踏み入れる。最後尾の零が靴を脱ごうとした時、リビングの奥からパタパタとスリッパの足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、澪、玲奈、零。あら、お友達も一緒? 夕飯は多めに……」
エプロン姿の母・奈々美が、笑顔で出迎えにやってきた。
しかし。
玄関に立つ『美しい銀髪の少女』の顔を見た瞬間、奈々美の言葉はピタリと止まり、その場に石像のように固まった。
「……初めまして、お母様。羽衣緋雪と申します。本日は突然の訪問となり、申し訳ありません」
緋雪が背筋をピンと伸ばし、非の打ち所がない完璧な礼を美しい所作で行う。
しかし、奈々美の脳内では、現在進行形で凄まじい情報のパニックが巻き起こっていた。
(えっ……ええっ!? 羽衣緋雪……? それって、ニュースでよく見る、日本の魔法少女のトップ……羽衣大佐!?)
奈々美は瞬きを繰り返し、目の前の少女と、テレビで見る英雄の姿を照らし合わせる。間違いない。銀髪に蒼い瞳、凛とした佇まい。本人だ。
だが、奈々美のパニックの理由は「有名人が家に来た」ことだけではない。
数週間前の、箱根旅行でのお土産屋での会話が、奈々美の脳裏に鮮明にフラッシュバックした。
『一番大事な人へのプレゼント、忘れちゃダメだよー?』
『大佐だよ、羽・衣・大・佐。あの氷の女王様』
『大佐ね、零くんの看病のために家に来て、男物のエプロン借りて一緒に無限ピーマン作っててさー!』
——息子の『可愛い彼女』であり、料理が致命的に下手で、一緒にキッチンに立ち、風邪の看病にまで来てくれた銀髪のお姉さん。
それはつまり。
(私の息子の彼女って……あ、あ、あの『羽衣大佐』だったのォォォォォッ!!?)
奈々美の顔面から一気に血の気が引き、次の瞬間には沸騰したように真っ赤になった。
世界を救う英雄が、あろうことか平凡な男子高校生である息子の彼女。しかも、息子は彼女に料理の手ほどきをし、男物のエプロンを着せ、風邪の時には手厚い看病を受けていたというのだ。
「あ、あわわわわ……っ! ひ、英雄様!? 日本のトップエース様が、どうして我が家の粗末な敷居を……! じゃなくて、零の彼女さん!? えええっ!? 聞いてないわよ零、こんな雲の上の存在だなんて!!」
完全に混乱の極みに達した奈々美が、両手で顔を覆いながら悲鳴のような声を上げた。
「ちょ、母さん!? 落ち着けって! だから彼女じゃないって箱根でも言っただろ!」
「だ、騙されないわよ! だって、一緒に無限ピーマン作ったんでしょ!? 彼氏のエプロン着て!? それもう完全に新婚の同棲カップルじゃないの!!」
「だから料理が下手すぎてキッチンが爆発しそうだったから俺が教えただけで……っ!」
零が必死に弁解するが、パニック状態の母親の耳には全く届かない。
一方、当の緋雪は「彼女」「彼氏のエプロン」「新婚の同棲カップル」というキラーワードの連続に、顔を茹でダコのように真っ赤にして、頭からプシューッと湯気を上げていた。
「わ、わ、私が、零くんの彼女……っ!? し、新婚……っ!?」
「大佐、顔真っ赤だよ。ほらお兄ちゃん、お母さんとお義姉さんがパニックになってるんだから、早く夕飯作ってあげなよ」
「誰がお義姉さんだ! 澪も玲奈もニヤニヤすんな、お前らが変なこと言うからこうなったんだろ!」
カオス極まる三神家の玄関。
奈々美はどうにか深呼吸をして自制心を保とうとするが、目の前の少女が『息子の(超大物の)彼女』であるという認識はもはや疑いようのない事実として彼女の心に刻み込まれてしまっていた。
「はっ……! そうよ、私ったら箱根で『最高のおもてなしをする』って豪語してたのに、今日の夕飯はただの野菜炒めの予定だったわ! ダメよ、日本の英雄様にそんな庶民の料理をお出しするわけには……! お父さんに電話して、最高級の寿司の出前を……!」
「お母様、そのようなお気遣いは無用です!!」
慌ててスマートフォンを取り出そうとした奈々美の手を、緋雪がガシッと両手で掴んだ。
その瞳は、国家防衛の任務に就く時よりも真剣な光を帯びている。
「わ、私は……っ。私はただ、零くんの作った温かいご飯が食べたいんです! 零くんの作った野菜炒めなら、最高級のフルコースよりも価値がありますから!」
エースとしての威厳も何もなく、ただの『三神零の料理のファン(重度)』としての本音が炸裂する。
しかし、その必死な訴えは、奈々美の目には「高級料理よりも、愛する彼氏の手料理が食べたいと願う健気な乙女」にしか映らなかった。
「……っ!! なんていい子なの……! ごめんね大佐さん、ウチの零、ちょっと家事ばっかりやってて数学が赤点ギリギリの冴えない子だけど、こんなに愛してくれて……お母さん、泣きそう……!」
「母さん、頼むからそれ以上俺の尊厳を削るのはやめてくれ!! 今日は数学42点取ったんだぞ!!」
ドヤ顔で42点の報告をする零の悲しい主張は、感動の涙を拭う奈々美と、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ってしゃがみ込む緋雪のせいで、完全にスルーされた。
数十分後。
リビングの食卓には、零が手際よく作り上げた『豚バラ肉と春キャベツの野菜炒め』が大皿にこんもりと盛られ、ほかほかの白米と油揚げの味噌汁が並べられていた。
「……美味しい。シャキシャキのキャベツに、豚肉の旨味がしっかりと絡んで……このオイスターソースの隠し味が、ご飯を無限に要求してくるわ……」
緋雪は、一口食べるごとに恍惚とした表情を浮かべ、すでに三杯目のご飯をおかわりしていた。日本のトップエースの面影は完全に消失し、そこにはただの食いしん坊の少女がいるだけである。
「うふふ、大佐さん、たくさん食べてね。零、お茶のおかわり淹れてあげなさい」
「はいはい」
奈々美は、息子と緋雪のやり取りをまるでドラマを見るような温かい(そして猛烈に誤解した)眼差しで見守っている。
「(日本のトップエースが息子の彼女……。まあ、零が幸せならそれでいいわ。でも、結婚式には協会のお偉いさんとか総理大臣とか来るのかしら……お母さん、何着ていけばいいの?)」
母親の妄想は、すでに十年先の未来へと飛躍していた。
世界トップクラスの魔法少女たちを震え上がらせる特S級の亡霊は、赤点回避の喜びも束の間、渦中で、ひたすらに胃を痛めながら冷めた麦茶をすするのだった。




