第八十二話
親善演習から数日後の、平日夕方。
三神零は自室の机にかじりつき、死んだ魚のような目で広げた数学の補習用問題集と睨み合っていた。
「……動く点P。なんでこいつはいつも、俺が目を離した隙に三角形の辺上を勝手に一定の速度で移動し始めるんだ。大人しく頂点Aに留まっててくれよ……」
特S級の危機察知能力を持っていようと、魔獣の発生源をピンポイントで特定できようと、図形上を移動する点Pの面積の変化だけは全く予測できない。
赤点回避のための課題プリントを前に、零がシャーペンを握り潰しそうになっていた、その時だった。
——ピロリンッ!!
自作の『特製・魔獣探知アプリ』が、けたたましいアラートを鳴らした。
表示されたのは、東京都郊外の山間部。魔力波長は『特A級相当』。
放っておけば、間違いなく都心部まで被害が及ぶ巨大な災害クラスだ。
「……なんで俺が数学と真剣に向き合おうとすると、毎回ピンポイントで邪魔が入るんだよ! 公式を忘れる前に終わらせて帰る!」
零はシャーペンを放り投げ、光と共に『ゴースト』へと変身。
自室のクローゼットの影から闇魔法でダイブし、一瞬にして目的地の山間部へと空間跳躍した。
——東京都郊外、〇〇山中。
「グォォォォォォッ!!」
木々をなぎ倒しながら咆哮を上げていたのは、全長二十メートルを超える超大型の魔獣『アース・ベヒモス』だった。山そのものが動き出したかのような巨体と、岩盤よりも硬い装甲を持つ特A級魔獣である。
ゴースト(零)は、木々の影から音もなく姿を現した。
しかし、彼女が大剣を抜くまでもなく、現場ではすでに激しい戦闘が繰り広げられていた。先日フェンス越しに見学した、各国のトップエースたちである。
アメリカ代表、火属性の『ステラ・ブレイズ』。燃えるようなブロンドのポニーテールを揺らし、露出の多い派手な装いを纏った勝気な少女。
イギリス代表、水属性の『ハミルトン・レイズ』。プラチナブロンドのショートヘアに高身長、軍服風の意匠を取り入れた衣装を着こなす男装の麗人。
ドイツ代表、風属性の『ツェツィーリエ・シュミット』。アッシュグレーの髪をきっちりと結い上げ、隙のない軍服調の装いに冷徹な翡翠色の瞳を持つ少女。
そして、日本支部代表、氷属性の『羽衣緋雪』。銀髪に蒼い瞳を持つ、凛とした美しさを放つ日本のトップエース。
四カ国合同の親善演習の一環でパトロール中だった彼女たちは、圧倒的な連携でベヒモスを追い詰めていた。
「吹き飛びなさい! 【フルバースト・ヘルファイア】!!」
ステラが巨大なガトリング型の魔装から、凄まじい密度の炎の魔弾を連射する。特大の火力はベヒモスの強固な岩盤装甲を赤熱させ、表面を次々と叩き割っていく。
「装甲が剥がれたね。私に合わせたまえ! 【ウォーター・スライサー】!」
ハミルトンが優雅にステップを踏みながら水の細剣を振るうと、超高圧の水流刃が放たれる。ステラが剥がした装甲の隙間、魔獣の関節部分に深々と食い込み、その巨体の体勢を大きく崩させた。
「追撃が来ます! 私の風盾に隠れなさい! 【アイゼン・シルト】!」
体勢を崩しながらも、ベヒモスが怒り狂って巨大な前足を振り下ろす。しかし、ツェツィーリエが瞬時に展開した分厚い風の盾が、強風のクッションとなってその圧倒的な質量と衝撃を完璧に受け流した。
「見事な連携ね! これで動きは止まるわ!【氷結・縛陣】!」
緋雪がすかさず日本刀を振り下ろし、ベヒモスの足元から巨大な氷の結晶を発生させる。関節を切り裂かれ、体勢を崩していた魔獣は完全に大地に縫い留められた。
四カ国エースの流れるようなコンビネーション。それは間違いなく、人類最高峰の魔法少女としての実力を証明する光景だった。
(おお、すげえ。各国の持ち味を生かした完璧な連携だ。)
腕を組んで見物していたゴーストも、思わず感心したように頷く。
——だが、相手は『特A級』の災害クラス。
大地の魔力そのものを宿すベヒモスは、致命傷を負う寸前で、その真の恐ろしさを露わにした。
「グォォォォォォォォッ!!!」
大地と繋がったベヒモスの足元から、無尽蔵の魔力が逆流するように吸い上げられていく。
緋雪の氷が内側から砕け散り、ハミルトンが切り裂いた関節が瞬時に再生する。それどころか、ステラが剥がした岩盤装甲が、以前よりも分厚く、禍々しい赤色を帯びて再構築されてしまった。
「嘘でしょ……!? これだけのダメージを、一瞬で超回復したっていうの!?」
「マズいよ、魔力が桁違いに膨れ上がっている!」
ステラとハミルトンが焦燥の声を上げる。
ベヒモスは大きく口を開け、膨大な大地の魔力を収束し始めた。放たれようとしているのは、山を一つ吹き飛ばすほどの広範囲ブレス。防ぎきれなければ、後方の街にまで甚大な被害が出る。
「不味いわね……全員、防御に全魔力を回しなさい!」
ツェツィーリエが叫び、四人が一斉に魔力障壁を展開しようとした——その瞬間。
「——連携は見事だったけど、確実に仕留めきれない大技は、相手を無駄に刺激するだけよ」
冷徹な声と共に、エースたちの頭上を飛び越えて、漆黒のドレスが舞った。
ゴーストだ。
彼女は超高速の影移動で、ブレスを放とうとしているベヒモスの眼前に潜り込むと、身の丈ほどの【漆黒の大剣】を引き抜いた。
「なっ……ゴースト!?」
「いつの間に……バカな、あのブレスの至近距離に立ったら消し飛ぶわよ!」
各国のエースたちが驚愕の声を上げる中、ゴーストは大剣に『氷』と『炎』の極大魔力を同時にチャージした。
右手には絶対零度の冷気、左手にはすべてを焦がす煉獄の炎。相反する二つの属性が、大剣の刃の上で完璧な均衡を保ちながら一点に収束していく。
「——【絶炎氷華】」
一閃。
ベヒモスのブレスが放たれるコンマ一秒前。
ゴーストが最短距離で振り抜いた大剣から、氷と炎の規格外の奔流が放たれた。
まずは絶対零度の冷気が、ベヒモスの再生したばかりの強固な岩盤装甲を細胞レベルで凍結させ、極限まで脆くする。
その直後、極大の炎が凍りついた装甲を一気に蒸発させ、内部の魔力核ごと大爆発を引き起こした。
——ドゴォォォォォォォンッ!!!
大地の魔力を吸い上げ、絶望的なタフさを誇っていたアース・ベヒモスが、断末魔を上げる暇すらなく、文字通り『一撃』で粉々に消し飛んだ。
「…………え?」
「ウソでしょ……?」
ステラがガトリングを落とし、ハミルトンがレイピアを持ったまま硬直する。
四カ国のトップエースが完璧な連携をもってしても倒しきれなかった特A級魔獣を、たった一振りの剣閃で、完全に蒸発させてしまったのだ。
力押しではなく、物理法則と属性の相克を完璧に支配した圧倒的な暴力。それが、日本の裏で暗躍する『特S級の亡霊』の真の実力だった。
「さて、と」
ゴーストは、ポカンと口を開けているエースたちを一瞥することもせず、両腕を広げて深淵の魔力を解放した。
「——【深淵なる虚無の清掃】」
漆黒のドームが展開され、魔獣の燃え殻、飛び散った岩盤、そして戦闘によって抉れた山林の被害箇所まで、すべてがブラックホールに吸い込まれるように完全に虚無へと還元された。
戦いの痕跡すら残さない、完璧すぎる『お掃除』。
「……信じられない。これが、極東のヴィジランテ……」
「私たちの全力が、まるで児戯に見えるほどの出力……」
ツェツィーリエが青ざめた顔で唇を震わせ、海外勢の三人は完全に言葉を失っていた。自分たちの実力は確かに世界トップクラスだった。だが、目の前にいるのは、その基準すら当てはまらない『歩く災害』そのものだということを、骨の髄まで理解させられたのだ。
「……個々の力も連携も素晴らしいけれど、詰めが甘いわ。確実にトドメを刺せないなら、基礎戦術から見直した方がいいわね」
ゴーストは、大剣を背中に納めながら冷ややかに言い放った。
(俺は帰って早く点Pの計算をしないといけないんだ。マジで二度手間になるようなことはしないでくれ)という切実な心の声は、見事に『強者の威圧感溢れる辛口レビュー』として彼女たちに響き渡る。
「待って、ゴースト!」
闇のゲートに足を踏み入れようとした彼女の背中に、緋雪が声をかけた。
緋雪の蒼い瞳には、人類の守護者とも言える絶対的な力への畏敬と、魔法少女としての純粋な敬意が浮かんでいた。そこには、彼女が想いを寄せる少年の面影など微塵もなく、ただただ目の前の強大な存在と真摯に向き合おうとするエースの矜持があった。
「……ありがとう。あなたが街を守ってくれたこと、協会にはちゃんと伝えておくわ」
そのまっすぐで不器用な感謝の言葉に、ゴーストはわずかに肩越しに振り返り、フッと口角を上げた。
「……せいぜい、無理はしないことね」
それだけ言い残し、ゴーストは影の中へと完全に姿を消した。
残された緋雪は、去り際の気遣いの言葉に微かに目を丸くしつつも、かつて初めて交戦した時のような冷徹さとは違うその姿勢に、静かに一礼を捧げた。一方の海外勢の三人は、「なんてクールで恐ろしい怪物なの……」と未だに戦慄して震え上がっていた。
「……はぁ、疲れた」
自室のクローゼットから這い出し、変身を解いた零は、そのままベッドにダイブした。
世界最高峰のエースたちに己の規格外の実力を見せつけた充実感など、彼には微塵もない。
「特A級の魔獣なんかより、数学の方がよっぽど強敵だよ……。ていうか、点Pの面積計算の公式、何だったっけ……完全に忘れた……」
机の上に広げられたままの数学の問題集を恨めしそうに見つめながら。
世界から恐れられる特S級の亡霊は、補習の課題という理不尽な現実の前に、ただ一人涙を呑むのだった。




