第八十話
深夜の東京湾。
波に揺れる黒塗りの大型クルーザーのVIPルームで、犯罪シンジケート『福音の鐘』の幹部・須藤真里は、新しく用意させたクリスタルグラスに注がれた最高級の赤ワインを見つめながら、深い、ひときわ重いため息をついていた。
「……また、失敗した。私たちのすべてが、あの御方にとっては文字通り『何一つ存在しなかった』かのように消し去られてしまった」
数日前の出来事が、真里の脳裏に重くのしかかっている。
K地区でのAランク魔獣『大百足』を利用した、ゴースト捕獲作戦。その要となるはずだった【対ゴースト用・新型魔力ジャマー】は、何十億という莫大な資金と数年単位の技術開発を注ぎ込んだ、組織の粋を集めた最高傑作だった。
だが、それは起動する間もなく、ゴーストの『深淵の闇』によって、路地裏のゴミや魔獣の残骸ごと、次元の彼方へ消し去られてしまったのだ。
「真里様。……ジャマー開発部門のチーフが、あまりの絶望に心を病んで自室に引きこもってしまいました」
背後から静かに歩み寄ってきた無機質な表情の少女——堀宮子が、分厚い報告書の束を抱えながら淡々と告げた。
双子の部下であるルカとリリアも、部屋の隅のソファで膝を抱え、ひどく落ち込んだ様子で俯いている。
「無理もないわ。私たちの切り札が、あの御方にとっては『不法投棄された路傍の石ころ』程度の認識でしかなかったのだから」
横田基地での『レガリア』を利用した実験も、今回の新型ジャマーの投入も、すべてはゴーストの規格外の力を封じ込め、彼女を玉座へと迎えるための手立てだった。
しかし、真里たちはことごとく煮え湯を飲まされ続けている。ゴーストという底知れぬ深淵は、彼女たちの必死の策を、まるで大人が子供の砂場遊びを眺めるように、一瞥するだけで無に帰してしまうのだ。
だが。
これほどの圧倒的な敗北と損失を重ねてもなお、須藤真里の心の中に「ゴーストへの憎悪」は微塵も存在しなかった。
あるのは、狂信的なまでの畏敬の念と、己の無力さに対する憂鬱だけである。
「……宮子。あなたは覚えているかしら。私がどうして、協会の魔法少女を辞めて、この組織(福音の鐘)に身を投じたのかを」
「はい。真里様がかつて、協会でも五本の指に入る『エース級』の魔法少女であったことは、組織内でも語り草です」
宮子の言葉に、真里は自嘲気味に口角を上げた。
今から数年前。須藤真里は、高いカリスマ性と戦闘能力を持つ魔法少女として、多くの部下を束ねる部隊長として最前線で戦っていた。市民を守るという正義感に燃え、協会の理念を心から信じて疑わなかった時代。
しかし、ある特級魔獣討伐作戦が、彼女のすべてを奪い去った。
協会上層部の見通しの甘さと、政治的判断による理不尽な作戦の強行。真里は現場の指揮官として再三にわたり作戦の無謀さを訴えたが、上層部は耳を貸さなかった。
結果として、作戦は凄惨な失敗に終わった。
真里の部隊に所属していた魔法少女たちの『八割』が、魔獣の餌食となって無惨に散っていったのだ。血の海に沈む部下たちの絶叫は、今でも真里の耳にこびりついて離れない。
さらに真里を絶望の底に叩き落としたのは、事件後の協会上層部の対応だった。
彼らは己の失態と保身を隠蔽するため、すべての責任を『現場指揮官である須藤真里の采配ミス』としてでっち上げ、彼女を反逆罪で投獄しようとしたのだ。
信じていた組織に裏切られ、愛する部下たちを奪われ、濡れ衣を着せられて冷たい地下牢に繋がれた真里。
すべてに絶望し、自ら命を絶とうとしたその時——暗闇の牢獄に、文字通り『一筋の光』が差し込んだ。
『——嘆くことはありません、美しき反逆者よ。この腐敗した理不尽な世界に、あなたの居場所など最初からなかったのです』
光と共に現れたのは、神々しいまでのオーラを纏った一人の女性だった。
光属性の規格外の魔力を持ち、協会の強固な結界を紙切れのように突破してきたその女性こそが、犯罪シンジケート『福音の鐘』の絶対的リーダー——ルディア・ロンディニウムであった。
『私と共に来なさい。偽りの正義を壊し、真なる神を降臨させるための礎となるのです』
ルディアの放つ圧倒的な光とカリスマの前に、真里の心はすっきりと晴れ渡った。彼女はルディアの手を取り、協会への復讐と、この狂った世界を破壊し新生させるための「福音」を信じる狂信者へと生まれ変わったのだ。
「ルディア様から授かった『福音の預言書』。そこにははっきりと記されているわ。『黒き衣を纏い、氷と炎と深淵を統べる者。それこそが、この腐敗した世界を浄化する救済者(神)である』と」
真里はワイングラスを傾け、夜の海に映る月を見つめた。
「ゴースト様は、間違いなく預言書に記された本物の『神』よ。だからこそ、私たちの陳腐な策など通用しない。何度煮え湯を飲まされようと、あの圧倒的な力を見せつけられるたびに、私の信仰は確固たるものになっていく……。ああ、なんて美しく、残酷なお方なのかしら」
ゴースト本人は、「家族旅行の帰りに、東京で意図的に魔獣を呼び寄せてる奴らが鬱陶しいから掃除しただけ」なのだが、真里の目には、それが『神の絶対的な御業』として神格化されて映っていた。
その時、VIPルームのテーブルに置かれていた特殊な暗号通信端末が、淡い金色の光を放ち始めた。
「……ルディア様からだわ」
真里の表情が一瞬にして引き締まり、宮子や双子たちも居住まいを正して深く頭を下げる。
福音の鐘のリーダーであるルディア・ロンディニウムは、極めて用心深く、組織内でも真里のような「高級幹部」しか直接顔を合わせたことがない謎に包まれた存在である。指示は常に、この暗号通信を介して下されていた。
端末から立体映像として浮かび上がったのは、顔の半分をベールで隠した、黄金の髪を持つ女性の姿だった。彼女から発せられる微かな魔力の波長だけで、部屋の空気が浄化されるような神聖さを帯びる。
『……顔色が優れませんね、真里。ジャマーの喪失を、そこまで悔やんでいるのですか』
鈴を転がすような、しかし絶対的な威厳を持つ声が響く。
「ルディア様……。申し訳ありません。私の手際が悪く、神をこちらの舞台へとお招きすることができませんでした」
『気になさることはありません。あれは、神が我々に与えた試練。人の知恵で創り出した玩具などでは、神を縛ることはできないと教えてくださったのです』
ルディアの言葉に、真里の心がスッと軽くなる。
『それよりも真里。今、日本の魔法少女協会の内部で、面白い亀裂が生じていることは把握していますか?』
「亀裂、ですか」
『ええ。ゴースト様の圧倒的な力に嫉妬し、上層部の命令を無視して暴走する愚かな魔法少女たち……日野美咲を中心とする『アンチ・ゴースト派』です。さらに、ロシアのアナスタシアや中国の黒龍部隊が、その不満分子に目をつけ、裏で『魔力増幅器』を供与して操ろうと暗躍しているようです』
ルディアの口から語られた事実に、真里は眉をひそめた。
「他国の薄汚いネズミどもが、我が国の協会の小娘たちを傀儡にして、ゴースト様に手を出そうとしていると?」
『ええ。愚かしいことです。しかし、この混沌は我々にとって好機でもあります』
ホログラムのルディアが、ベールの奥で微かに微笑んだのがわかった。
『真里。日野美咲たち『アンチ・ゴースト派』の暴走と、他国の暗躍を、最大限に【利用】しなさい。彼女たちがゴースト様に挑み、無惨に砕け散るその瞬間こそが、協会の権威が完全に失墜する時です。偽りの正義が内側から崩壊する様を、我々は特等席で見届けましょう』
「……御意のままに。神を貶めようとする愚者たちに、相応しい絶望の舞台を用意いたします」
真里が恭しく頭を下げると、金色のホログラムは静かに消え去った。
「聞いたわね、宮子、ルカ、リリア。憂鬱になっている暇はなくなったわ」
真里は立ち上がり、ワイングラスをテーブルに置いた。
先ほどまでの暗い表情は完全に消え去り、かつてエース級として戦場を駆けた頃のような、鋭く冷酷な指揮官の顔へと戻っていた。
「協会内部の不和。それに乗じるロシアと中国。……すべてを薪にして、ゴースト様という絶対的な炎を燃え上がらせるのよ。他国の連中が日野美咲に接触しているルートを洗い出し、私たちの手でさらに事態を悪化させるわ」
「はい、真里様」
宮子が一礼し、双子も不敵な笑みを浮かべて頷いた。
世界の裏側で、三神零を巡る巨大な歯車が、狂気をはらんでさらに回り始める。
一方その頃、全ての発端であり、福音の鐘が崇め奉る絶対神・三神零本人は——。
「ううっ……明日の数学の小テスト、範囲広すぎるだろ……。俺、サインコサインタンジェントなんて、スーパーの割引計算で使ったこと一度もないのに……」
自室の机にかじりつき、参考書と格闘しながら血の涙を流している真っ最中であった。
彼が望む平穏な日常は、彼の与り知らぬところで、各国の陰謀と共に音を立てて崩れ去ろうとしていた。




