第七十八話
箱根旅行から明けた、月曜日の朝。
三神家のリビングには、朝食の香ばしい焼き鮭の匂いと共に、三神零の絶望に満ちた呻き声が響き渡っていた。
「……行きたくない。数学の補習、絶対に行きたくない。俺のこの手は、家族のために包丁を握るためのものであって、微積分を解くためのものじゃないんだ……」
食卓に突っ伏して現実逃避を試みる高校二年生。
その背中を、セーラー服姿の妹・玲奈が容赦なくバンバンと叩いた。
「なに言ってんのお兄ちゃん! テストで28点なんか取るからでしょ! ほら、さっさとご飯食べて学校行きなさい!」
「そうよ。私たちだって今日からまた訓練校で地獄のメニューなんだから。あ、零、私のお弁当のおかず、ちょっと多めにしといてくれた?」
「……姉ちゃんは唐揚げ三個、玲奈は二個にしてあるよ。卵焼きは甘めだ」
大学生の姉・澪からの要求に死んだ魚のような目で答えつつ、零は重い体を起こして焼き鮭に箸を伸ばした。
彼がどれほど裏で『特S級の亡霊』として東京に潜む陰謀を粉砕しようとも、表の学生生活において赤点は赤点である。単位を落とせば留年という、別の意味での理不尽な絶望が待っているのだ。
「(まあ、昨日の夜に俺が処理しておいたおかげで、今日の朝は魔獣の警報も鳴ってない。姉ちゃんと玲奈の出勤ルートの安全は確保できてるし、良しとするか……)」
温かい味噌汁をすすりながら、零は密かに安堵のため息をついた。
しかし、彼が東京の平和(と家族の安全)を裏から支えている一方で、魔法少女のコミュニティ内部では、彼の存在を快く思わない勢力が静かに、だが確実に台頭し始めていた。
同時刻。東京・魔法少女協会 日本支部の某所。
中堅クラスの魔法少女たちが集まる第4待機室で、三人の少女がタブレットを囲んで険しい顔で議論を交わしていた。
「——だから、上層部の『監視と融和路線』なんて生温いのよ! 相手は正体不明の非合法魔法少女なのよ!?」
バンッ! と机を叩いて声を荒げたのは、炎属性の魔法少女・日野美咲。
燃えるような赤いショートヘアを持つ彼女は、ゴーストに対する強烈な敵対心——すなわち『アンチ・ゴースト』の急先鋒であった。
「美咲の言う通りだわ。あのゴーストとかいう奴、特S級の規格外な魔力を持っていながら、なんで表立って協会に所属しないのよ? こっちは毎日命懸けで市民を守ってるっていうのに、あいつは自分の気が向いた時にだけ現れて、美味しいところだけを持っていって消える。……身勝手にも程があるわ」
腕を組み、冷ややかに同調したのは、雷属性を操る雷前ナミ(らいぜん なみ)。
さらに、タブレットでゴーストの戦闘データを分析していた林道鈴菜が、眼鏡の奥の瞳を光らせる。
「エース部隊の羽衣大佐たちがあの亡霊に手心を加えているのも納得がいきません。いくら強くても、未登録のイレギュラーは排除するか、力ずくで協会に組み込むべきです。……ですから、私たちが『対ゴースト戦術』を構築し、奴の弱点を突くしかありません」
「鈴菜、弱点は見つかったの?」
「はい。先日のK地区やS区での戦闘痕跡、および防犯カメラの断片的な映像を解析しました。ゴーストは、闇魔法による『影移動』を多用して高速で距離を詰めてきます」
林道鈴菜はタブレットに、ゴーストの予想戦闘モデルを立体映像で映し出した。
「つまり、全方位から強烈な『光』や『雷』の魔法を浴びせ、周囲の影を完全に吹き飛ばしてしまえば、奴の機動力は著しく低下するはずです。加えて、身の丈ほどの【漆黒の大剣】は威力が絶大ですが、大振りになりがちです。ナミさんの雷や私の植物魔法で遠距離から拘束し、美咲さんの炎で一気に焼き尽くす。……これで、特S級といえども隙が生まれるはずです」
「完璧じゃない! 上層部がビビって手を出せないなら、私たちが奴の化けの皮を剥いでやるわ!」
「ええ。次に任務で出撃した時、もしあの亡霊が現れたら……命令なんて無視して、全力で叩き潰すわよ」
日野、雷前、林道の三人は、正義感と嫉妬、そして狂信的なまでの『アンチ精神』を拗らせていた。
彼女たちにとって、圧倒的な力で自分たちの存在意義を霞ませるゴーストは、もはや魔獣以上に排除すべき『敵』へと認定されていたのだ。
その日の夕方。
数学の補習を終え、魂の抜けたような顔でスーパーの特売コーナーを物色していた三神零のスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。
——ピロリンッ!!
『【魔力波長:Bランク相当】発生源:東京都M区 〇〇町 駅前広場』
「げっ……今度はM区!? 姉ちゃんの訓練校からの帰り道ドンピシャじゃないか!」
零はカゴに入れていた半額の豚肉を慌てて元の場所に戻すと、スーパーのトイレへと駆け込み、個室の中でペンダントを握りしめた。
光と共に『ゴースト』へと変身し、個室に落ちる影の中へと滑り込む。
——M区 駅前広場。
そこでは、全身が岩石で覆われたBランク魔獣『ロック・ゴーレム』が、咆哮を上げながら周囲の車両を蹴り飛ばしていた。
いち早く現場に到着していたのは、偶然パトロール中だった日野美咲、雷前ナミ、林道鈴菜の三人小隊である。
「Bランクのゴーレム……装甲が硬いわね。鈴菜、足止めを!」
「了解です! 【茨のバインド】!」
林道鈴菜が杖を振るうと、アスファルトを突き破って強靭な魔力の茨が伸び、ゴーレムの巨体を縛り上げる。
「ナミ! 行くわよ!」
「ええ! 【雷光破】!」
「【爆炎槍】!」
日野美咲の炎と雷前ナミの雷が合わさり、拘束されたゴーレムに直撃する。
しかし、土属性の強固な岩石装甲に阻まれ、ゴーレムは多少の表面が焦げただけで、怒り狂って茨を引きちぎってしまった。
「くっ、私たちの火力じゃ決定打に欠けるわね……!」
日野が舌打ちをした、その瞬間だった。
ゴーレムの背後に落ちていたビルの影から、漆黒のドレスを纏ったゴーストが音もなく這い出た。
「——遅いわね」
冷徹な声と共に、身の丈ほどの漆黒の大剣が抜かれる。
ゴースト(零)は、「姉ちゃんの帰り道が塞がってる! 早く片付けて夕飯の支度をしないと!」という焦燥感MAXの状態で、氷と炎の二つの属性を大剣に一気にチャージした。
しかし。
ゴーストがゴーレムを両断しようと大剣を振り上げた瞬間、彼女の背後から強烈な殺気を伴う魔法が放たれた。
「出たわね、身勝手な亡霊! 作戦通りよ、ナミ、鈴菜!!」
「ええ! 周囲の影を消し飛ばすわ!」
なんと、日野美咲たち三人は、目の前のBランク魔獣を完全に無視し、ゴーストに向かってありったけの魔力を込めた魔法を放ってきたのだ。
林道の茨がゴーストの足元に絡みつき、雷前の放った強烈な雷光が広場全体を真昼のように照らし出して『影』を消滅させる。そして、日野の渾身の炎の槍がゴーストの背中へと迫る。
「……は?」
ゴースト(零)は、完全に思考がフリーズした。
(え? なんで味方(魔法少女)が俺を攻撃してきてるの!? 目の前にデカい魔獣いるじゃん! なんでそっち放置してこっちに全力撃ってきてんの!?)
あまりの理不尽な状況に混乱しつつも、特S級の反射神経がオートで機能する。
ゴーストは溜めていた氷の魔力を解放し、背後に絶対零度の【氷盾】を展開。日野の爆炎槍を完全に相殺して凍り付かせ、足元に絡みついた茨も冷気で粉砕した。
「なっ……私たちの連携を、振り返りもせずに防いだ!?」
「でも、影は消したわ! これで逃げられないはずよ!」
勝ち誇るアンチ・ゴーストの三人。
しかし、彼女たちは致命的な勘違いをしていた。ゴーストの影移動は確かに強力な移動手段だが、それはあくまで『便利だから使っている』だけであり、彼女の真の恐ろしさはその規格外の魔力そのものにある。
「……あなたたち、市民を守る魔法少女のくせに、魔獣を背にして何をやっているの」
ゴーストの紫の瞳が、絶対的な零度の怒りを帯びて三人を射抜く。
(こいつら、魔獣放置して俺に絡んでくるとか、頭おかしいでしょ!?もしこれのせいで姉ちゃんや玲奈が巻き込まれたらどう落とし前つける気だ!)
家族の安全を脅かされた(と錯覚した)零の怒りが、ゴーストの魔力圧となって広場全体を押し潰すような重力に変わる。
「ひっ……!」
「な、なに、この魔力……息が、できない……!」
日野たち三人は、ゴーストから放たれる殺気めいた魔力のプレッシャーだけで膝から崩れ落ち、杖を取り落とした。自分たちがどれほど無謀な化け物に喧嘩を売っていたのかを、本能で理解させられたのだ。
「邪魔よ。そこでおとなしく震えていなさい」
ゴーストは三人から視線を外すと、今度こそ眼前のロック・ゴーレムに向かって大剣を振り下ろした。
「——【絶炎氷華】」
氷の拘束がゴーレムの装甲を内部から脆くし、直後に極大の炎が岩石ごと蒸発させる。
先ほどまで三人がかりでも傷一つつけられなかったBランク魔獣が、たった一撃で、文字通り跡形もなく消滅した。
「そ、そんな……」
「次元が……違いすぎる……」
呆然とへたり込む三人を冷たく見下ろすと、ゴーストは両腕を広げた。
「——【深淵なる虚無の清掃】」
闇のドームが展開され、魔獣の残骸と戦闘の痕跡をすべて綺麗に掃除する。
その後、ゴーストは日野たちを一瞥することもなく、上空に展開した闇のゲートへと飛び込み、瞬時にその場から姿を消した。
「……っっっぶねー!! マジでビビった!!」
数分後。
スーパーの個室トイレに戻ってきた零は、変身を解くや否や、心臓をバクバクさせながら壁に寄りかかった。
「なんだよあいつら! 同業者のくせに、俺のこと親の仇みたいに睨んで攻撃してきたぞ!? 俺、なんか恨み買うようなことしたっけ!?」
思い返せば、いつも魔獣を処理して、街を綺麗に掃除して、無言で帰っているだけである。表立って感謝される筋合いもないが、あそこまで明確な殺意を向けられる理由が全く思い当たらない。
「うわぁ……俺、一部の魔法少女にガチのアンチファンみたいなの作っちゃってる
じゃん。こっわ。関わらないようにしよ」
特S級の亡霊として裏社会や諜報機関から恐れられている事実には全く気づいていない零だが、『身内(魔法少女)からのガチの嫌がらせ』という非常にリアルな人間関係のトラブルには、激しく胃を痛めるのだった。
「はぁ……早く半額の豚肉買って帰ろ。今日は回鍋肉だ……」
自身の行動が、結果的に日野たちアンチ派の闘志にさらに歪んだ火をつけてしまったことなど知る由もなく。
宇宙一過保護で不遇な高校生は、重い足取りでスーパーの売り場へと戻っていくのだった。




