第七十七話
日曜日の夕方。
東名高速道路の上り線特有の、長い長い渋滞をなんとか抜け切り、三神家を乗せたファミリーカーは無事に東京の自宅へと帰り着いた。
「ふうーっ、着いた着いた! やっぱり家が一番落ち着くわね!」
「お父さん、長時間の運転お疲れ様! すっごく楽しかったよ!」
車から降りた姉の澪と妹の玲奈が、トランクからお土産の入った紙袋を引っ張り出しながら大きく伸びをする。
運転席から降りた父の五郎も、肩をグルグルと回しながら満足げな笑みを浮かべていた。
「おう。道中は混んでたが、家族全員で箱根に行けて父さんも大満足だ。さて、荷物を家の中に入れたら、少し休んで夕飯にするか」
「そうね。夕飯は箱根で買ってきたアジの開きと、冷蔵庫の余り野菜でお味噌汁にしましょうか。……あ、そうだわ零」
お土産の干物セットを手にした母の奈々美が、荷物を両手に抱えて玄関に向かおうとしていた零を呼び止めた。
「あの『可愛い銀髪の彼女さん』、いつ家に連れてきてくれるの? お母さん、早めに教えてくれないと、最高のおもてなしメニューの準備ができないじゃない」
「だから彼女じゃないって何度言えばわかるんだよ!tただの訓練校の上官で……っていうか、姉ちゃんも玲奈もニヤニヤしながらこっち見るな! 誤解を解け!」
「えー? でもお兄ちゃん、あの時キッチンで大佐のことすごく優しく見つめてたよね?」
「うんうん。あれは完全に『俺が一生お前の味噌汁(無限ピーマン)を作ってやる』っていう顔だったわ」
「お前らなぁっ……!」
両親のトンデモない勘違いと、姉妹の面白半分な燃料投下のせいで、零の『銀髪の可愛い彼女(しかも料理が致命的にできない)』疑惑は、箱根からの帰りの車中でもずっとイジられ続けていた。
完全に出来上がってしまった「青春を謳歌する息子」という既成事実に頭を抱えながら、零は逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。
「……はぁ。どっと疲れた」
自室のベッドにダイブし、零は仰向けのまま大きくため息をついた。
家族旅行自体は最高に楽しかったが、最後の最後でお土産屋で起きた絶望的なアンジャッシュのせいで、精神的な疲労がドッと押し寄せてきている。
「まあ、でも……父さんも母さんも嬉しそうだったし、姉ちゃんと玲奈もリフレッシュできたみたいだから、いいか」
ベッドの上で寝返りを打ち、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
未読のメッセージアプリには、親友の狭間稔から「今日のアニメの録画忘れた! お前録ってる!?」というくだらないSOSが届いていた。それに「録ってるから明日円盤に焼いて持っていく」と適当なスタンプと共に返信を済ませた後、零は何気なく画面をスワイプし、手製のアイコンが設定されたある一つのアプリを開いた。
それは、零自身が個人的にプログラミングして作り上げた『特製・魔獣探知アプリ』である。
世間一般には、『魔法少女協会公式・魔獣警報アプリ』というものが広く普及している。魔獣の発生をレーダーで感知すると、地震速報のように大音量のアラートを鳴らし、「〇〇区周辺で魔獣のシグナルを検知」と危険エリアを大まかに知らせてくれる防災アプリだ。
一般市民の避難用としてはそれで十分なのだが、宇宙一過保護な兄(弟)である零にとっては、全くもって不十分だった。「〇〇区周辺」というアバウトな広域情報では、姉妹が外を歩いている時に確実な安全ルートを計算できないからだ。
そこで零は、自身の特S級の魔力感知能力の理屈をコードに落とし込み、ネット上の微弱なノイズや空間の魔力波長の乱れを統合して解析する独自のアルゴリズムを構築した。学校の数学のテストは「家族を守る役に立たないから」という理由で赤点(28点)を取るくせに、こういう家族の安全に関わるシステム開発となると、狂気的なまでの集中力と天才的な情報処理能力を発揮するのだ。
この自作アプリは、より強い魔力の波長をピックアップし、魔獣の発生箇所を番地レベルで【ピンポイント】に特定・通知するチートじみた代物であった。
零は、その自作アプリの『警報履歴』の画面を見つめ、ふと首を傾げた。
「……おかしいな」
違和感の正体。
それは、この土日の二日間——つまり、三神家が箱根旅行に行って東京を離れていた間、このアプリの履歴が都内のピンポイントな魔獣発生データで埋め尽くされていたという事実だった。
「箱根に行ってる間、あっちでは一度も魔獣の反応なんてなかったのに。東京にいる時は、最近だと三日に一回……ひどい時は一日に二回も三回も、都内のどこかで魔獣が発生してる」
零は画面をスクロールし、直近一ヶ月の魔獣発生の空間データを比較確認する。
データは明らかに異常な偏りを見せていた。箱根をはじめとする神奈川県や、その他の地方都市での魔獣発生率は横ばい、あるいは減少傾向にある。
しかし、『東京都内(特に23区)』に限って言えば、ここ数ヶ月で魔力波長の強い大型魔獣の発生率が爆発的に跳ね上がっているのだ。
「魔獣ってのは、人間の負の感情や自然界の魔力溜まりから自然発生する『災害』みたいなもんだったはずだろ? いくら東京に人が多いからって、こんなに極端に東京だけに集中して現れるものなのか……?」
まるで、**『何者かが意図的に東京へ魔獣を呼び寄せている』**かのように。
零の特S級のシックスセンスが、微かな嫌な予感を捉えた、まさにその時だった。
——ピロリンッ!!
静かな部屋の中に、自作アプリの甲高いピンポイント・アラート音が鳴り響いた。
スマートフォンの画面が真っ赤に点滅し、詳細な座標データと警告の文字が浮かび上がる。
『【魔力波長:Bランク相当】発生源:東京都S区 〇〇町4丁目 廃工場跡地』
「……嘘だろ。箱根にいる間は平穏そのものだったのに、東京(家)に帰ってきた途端にこれかよ」
零は舌打ちをして、ベッドから跳ね起きた。
S区といえば、ここから目と鼻の先。電車で二駅ほどの距離である。
それから数秒遅れて。
——キュイイイインッ!! キュイイイインッ!!
リビングのテレビや、家族のスマートフォンにインストールされている『協会公式アプリ』の広域警報が一斉に鳴り響いた。
「あらやだ、魔獣の警報じゃない!」
「S区周辺だと!? 近いぞ、念のため防災リュックの確認を!」
「お母さん、私たちも避難誘導の手伝いに行くべきかな!?」
リビングから聞こえてくる、両親の慌ただしい声と、訓練生としての正義感に燃える姉妹の声。
(ダメだ。旅行帰りで疲れてる姉ちゃんと玲奈を、あんな危険な場所に向かわせるわけにはいかない。万が一怪我でもしたらどうするんだ)
零の目的はただ一つ。家族の平和な日常と、今日の夕飯の温かいお味噌汁を守ること。
誰かが意図的に東京に魔獣を放っているのだとすれば、そんな理不尽極まりない悪意は、家族の目に触れる前に跡形もなく消し去らなければならない。
「夕飯の準備が始まる前に、終わらせる。——変身」
零がペンダントを強く握りしめると、眩い光が彼の身体を包み込んだ。
平凡な男子高校生の姿は一瞬にして書き換えられ、艶やかな漆黒のロングヘアと冷徹な紫の瞳を持つ、絶世の美少女『ゴースト』がその場に顕現する。
彼女は足元に闇の魔力を滑らせて自身の影を押し広げると、水たまりに没するように影の中へと滑り込み、音もなく姿を消した。
——東京都S区、廃工場跡地。
「ギャオォォォォッ!!」
夕闇が迫る空の下、赤茶けた鉄骨をへし折りながら雄叫びを上げていたのは、全長五メートルを超える四つ足の魔獣『ブラッド・ハウンド』だった。
全身から有毒な赤い瘴気を撒き散らし、周囲の草木を瞬時に枯死させていく。
しかし、その魔獣の足元に広がる影から、スッと這い出るように漆黒のドレスを纏ったゴーストが姿を現した。
闇魔法による超高速の影移動。文字通り『影から影へ』と音もなく跳躍する術により、彼女は瞬時に目的地へと到達していた。
「……やっぱりね」
ゴーストは、背中に背負った身の丈ほどもある【漆黒の大剣】の柄に手を伸ばし、周囲の空間に漂う『魔力の波長』を冷ややかに分析していた。
(この魔獣からは、自然発生特有の乱雑な魔力じゃなく、どこか統率された『人工的な魔力の残滓』を感じる。……それに、あそこ)
ゴーストの紫の瞳が、廃工場の片隅に転がっている、奇妙な金属片の束を捉えた。
それは、すでに魔獣が暴れた際に踏み砕かれていたが、微かに紫色の光を放つ魔法陣のような幾何学模様が刻まれていた。
魔獣を特定の場所に呼び寄せるための『誘引装置』——おそらく、裏社会の犯罪シンジケートや、海外の暗部が持ち込んだ非合法な魔導具だ。
「誰の仕業か知らないけれど、うちの家族の休日の余韻をぶち壊そうとするなんて、万死に値するわ」
ゴーストの声音が、絶対零度の冷気を帯びる。
次の瞬間、ブラッド・ハウンドが察知して鋭い牙を剥き出しにし、飛びかかってきた。
だが、ゴーストの姿はすでにそこにはない。足元の影へと溶け込むように消え、次の瞬間には魔獣の直上、空中に落ちる影から姿を現していた。
「——終わりよ」
ゴーストが大剣を引き抜くと、彼女の中に眠る膨大な魔力量に応えるように、大剣の刃に圧倒的な極大の炎と絶対零度の氷が同時に燃え上がり、凍りついた。
重厚な大剣を一閃。
一撃のもとに振り下ろされた大剣から解き放たれたのは、熱と冷気が渦を巻く規格外の属性の奔流だった。悲鳴を上げる暇すらなく、Bランク魔獣の巨体は炎に焼き尽くされ、氷によって粉砕され、二重の威圧によって一瞬にして蒸発するように崩れ去った。
魔法少女史上初のトリプルスペル。大剣から放たれる圧倒的な魔力と、影移動を駆使した神出鬼没の高速戦。協会が部隊を編成して挑むレベルの脅威を、文字通り『一閃』しただけで無へと帰す絶対的な力。
「さて、と。出張ってきてる協会のドローンや、これを仕掛けたネズミどもに私の波長を悟られる前に、綺麗にお掃除して帰りましょうか」
ゴーストは大剣を背へと戻すと、両腕を広げて深淵の闇魔法を解放した。
「——【深淵なる虚無の清掃】」
足元から急速に広がる漆黒のドームが周囲を包み込む。
魔獣の残骸、有毒な瘴気、飛び散った瓦礫、そして何者かが設置した『誘引装置』の痕跡に至るまで、現場に散らばるすべての事象がブラックホールに吸い込まれるように虚無へと還元されていった。
魔獣の発生から討伐、そして証拠隠滅まで、要した時間はわずか十秒足らず。
再び静寂を取り戻した廃工場跡地に、ゴーストの姿はすでになかった。
「……あれ? 警報、止まったわね」
三神家のリビング。
テレビのニュース画面に切り替わっていた魔獣発生のテロップが、「魔獣のシグナルが消失しました。誤報の可能性も含めて協会が調査中です」
というアナウンサーの声と共に消え去った。
「誤報だったのかしら。まあ、何事もなくて良かったわね。お父さん、アジが焼けたからお皿出してちょうだい」
「おう。いやー、やっぱり美味そうな匂いがするな。箱根の干物は最高だ」
エプロン姿の奈々美が、香ばしく焼き上がったアジの開きを食卓に運ぶ。
そこへ、「ふぁ〜……」とわざとらしい欠伸をしながら、自室から零が下りてきた。
彼もまた、いつもの少し大きめのエプロンを身につけている。
「お兄ちゃん、寝てたの? 警報鳴ったのに」
「ん? ああ、旅行の疲れでちょっとウトウトしてて。なんかうるさいなと思ったらすぐ止まったから、誤報だろ。……母さん、俺も味噌汁手伝うよ」
「あら、ありがとう零。じゃあ、お豆腐とネギを切ってくれる?」
先ほどまで、大剣を振りかざし影を渡り歩いて東京の裏の陰謀を文字通り『虚無に葬り去ってきた』最強の亡霊は、今はただの平凡な主夫として、手際よくネギを小口切りにしていた。
(誘引装置を使って、東京に意図的に魔獣を集めてる奴らがいる。……あの『福音の鐘』って犯罪組織か、それとも海外のエージェントか。誰かは知らないが——)
トントン、と小気味良い包丁の音を響かせながら、零は静かに、しかし冷酷な決意を固める。
(俺の家族の平穏を脅かす奴らは、一人残らず俺が『掃除』する。絶対に、日常は壊させない)
香ばしい干物の匂いと、出汁の効いた味噌汁の湯気。
姉妹の笑い声と、両親の穏やかな会話。
このかけがえのない三神家の食卓の風景を守るため、特S級の亡霊は、東京に潜む見えない悪意との静かなる戦争を、その胸の内でひっそりと宣言したのだった。




