第七十三話
その日の夕暮れ。
三神零は、駅前の大型スーパーで開催された『卵お一人様一パック限り・鶏もも肉半額タイムセール』という、熟練の主婦や特売ハンターたちが入り乱れる熾烈な戦場を生き抜いていた。
両手にはホクホクの戦利品が詰め込まれたスーパーの袋が提げられ、その重量感さえも今日の勝利の証として心地よい。姉の澪と妹の玲奈も見事な連携プレイで卵を無事に確保し、一足先に帰宅して夕飯の準備を手伝ってくれているはずだ。
「ふふふっ。今日の特売の鶏もも肉、半額のくせに結構いいサシが入ってるな。これなら極上の親子丼が作れそうだ。姉ちゃんも玲奈も、間違いなく三杯はおかわりするだろうな」
上機嫌で鼻歌を歌いながら、人通りの少ない裏路地を歩いていた零。茜色に染まる空を見上げ、家に帰ったらまずは昆布と鰹で丁寧に出汁を取って、それから鶏肉を一口大に切って……と、完璧な調理手順を脳内でシミュレートしていた。
しかし、平和を愛する彼のささやかな日常は、そう簡単に平穏を許してはくれない。
——ズズンッ……!!
突如、足元のコンクリートが波打ち、周囲の空気がドブのような強烈な悪臭に包まれた。
路地の奥のマンホールが吹き飛び、中から這い出してきたのは、全長十メートルを超える巨大な魔獣だった。無数の節足を持ち、全身の節々からアスファルトを溶かす腐食性の粘液を垂れ流すAランク魔獣『大百足』である。
「ギチギチギチッ……!!」
「うわっ、マジかよ。こんな市街地のど真ん中にAランクが出るなんて、最近の魔獣の発生頻度、絶対におかしいだろ……」
零は大きなため息をつくと、両手のスーパーの袋を傷つけないようにそっと地面に置いた。卵が割れたら一大事であるし、鶏肉に魔獣の酸の飛沫がかかれば、夕飯の献立が根本から崩壊してしまう。
魔獣の放つ瘴気と鼻をつく酸の臭いに顔をしかめながら、零は胸元のペンダントを力強く握りしめた。
「まあいい。鶏肉の鮮度が落ちる前に、サクッと終わらせて帰るか。——変身」
その言葉をトリガーとして、眩い光の奔流が彼を包み込んだ。
平凡な男子高校生の骨格、筋肉、声帯に至るまでが光の中で完全に再構築され、次の一瞬には、そこに腰まで届く艶やかな黒髪と、神秘的で冷たい紫の瞳を持つ絶世の美少女『ゴースト』が降り立っていた。
漆黒を基調とし、白いフリルがあしらわれたゴシック調のドレスが、夕暮れの風にふわりと舞う。
「ギシャァァァッ!!」
特S級の圧倒的な魔力を本能で危険と判断した大百足が、強烈な酸のブレスを吐き出しながら巨体をうねらせて突進してくる。触れれば鉄骨すら瞬時にドロドロに溶かす、必殺の一撃。
だが、ゴーストは一歩も退くことなく、白魚のような指先を軽く鳴らした。
「——【氷刃・絶対零度】」
パキィィィンッ!!
空間そのものが凍てつくような甲高い音が響き渡る。
放たれた酸のブレスごと、巨大な大百足の身体が一瞬にして極低温の氷に包まれ、夕日に煌めく美しい氷の彫刻へと変わった。生命活動を完全に停止させた魔獣に対し、ゴーストはただ冷ややかな視線を向けただけ。
その直後、氷漬けになった魔獣の内部から、相反するはずの『炎』が爆発的に膨張し、内部からの急激な温度変化によって魔獣の巨体は跡形もなく粉砕された。
戦闘時間、わずか三秒。それは戦いと呼ぶことすらおこがましい、文字通りの圧倒的な蹂躙劇であった。
「ふぅ。さてと、帰って親子丼を……ん?」
変身を解こうとしたゴーストは、ハッと足を止めた。
周囲を改めて見渡すと、魔獣が飛び出してきた際に破壊されたアスファルト、酸のブレスでドロドロに溶けたフェンス、そして何より、特S級の氷と炎の魔法が交錯したことによる強烈な『魔力の残滓』が、色濃く現場に残留していたのだ。
(……待てよ。最近、日本支部の情報班にいるあの新実少佐が、俺のことを『特異体質のモルモット』として血眼になって探してるんだよな。さらに、『黒龍』とかみたいに襲撃されたら面倒だし)
零の持ち前の勘が、ここで最大限の警鐘を鳴らした。
(このまま魔獣の残骸や俺の魔力波長を残したまま立ち去ったら、今後連中の科学力や探知魔法で現場を解析されて、俺の行動範囲や正体が特定されるリスクがあるんじゃないか……!? もし家がバレたら、姉ちゃんや玲奈まで巻き込まれる!)
それは、平穏な日常を何よりも愛する零にとって、絶対に避けなければならない最悪の事態だった。
「なら……『最初から何もなかったこと』にすればいいのよ」
ゴーストは両腕を広げ、彼女だけが操ることのできる未知の第三属性——『闇』の魔力を全開にした。
紫色の瞳が、深淵の如き漆黒に染まる。
「すべてを呑み込め。——【深淵なる虚無の清掃】!」
ゴーストの足元から、漆黒のドーム状の結界が半径五十メートルにわたって展開された。
それは、光も音も、そして『事象』すらも飲み込む絶対的な闇。
その闇のドームの中で、魔獣の微小な肉片、飛び散った体液、破壊されたフェンスやアスファルト、さらには空気中に残留していた氷や炎の『魔力波長』に至るまで、ありとあらゆる「戦闘の痕跡」が、ブラックホールに吸い込まれるように虚無へと還元されていく。
そしてその時、ゴーストのシックスセンスが、路地の片隅——空間の隙間に隠蔽されるように設置されていた『あるもの』を捉えた。
(……ん? なんかあそこの空間に、人工的で嫌な感じの魔力波を放ってる機械みたいなのがあるわね。不法投棄かしら?まあいいわ、どうせなら路地裏は綺麗にしておくべきよね。ついでに消してしまいましょう)
ゴーストは全く意に介することなく、闇の触手を伸ばし、その隠蔽されていた機械——犯罪シンジケート『福音の鐘』が莫大な資金と技術を注ぎ込んで開発した【対ゴースト用・新型魔力ジャマー】を、周囲のゴミごと跡形もなく呑み込み、完全な虚無へと還元した。
さらにゴーストは、闇の空間操作を極限まで応用し、破壊される前の正常な空間の記憶を上書きするように、削り取られたアスファルトやフェンスを『事象の復元』によって完全に元通りに修復した。
数秒後。
闇のドームが晴れた後には、チリ一つ落ちていない、魔力の乱れすら全く感じられない、完璧に日常通りの「ただの夕暮れの裏路地」だけが残されていた。
「完璧ね。これなら、どんな最新鋭の探知機や魔法でも、私がここで戦ったことなんて絶対に分からないわ」
満足げに頷いたゴーストは、地面に置いていたスーパーの袋を大事そうに手に取ると、足元に小さな闇のゲートを開き、誰にも気づかれることなく空間跳躍して姿を消した。
「な、なんですか、これは……!?」
ゴーストが立ち去ってから三分後。
日本魔法少女協会・情報班の指令室に、新実由鶴少佐の悲鳴のような声が響き渡っていた。
「つい先ほど、東京のK地区でAランク相当の魔獣の発生シグナルと、それに拮抗する規格外の魔力反応……間違いない、あの『ゴースト』のシグナルを検知したはずです! なのに、なぜ現場の映像には『何も』映っていないんですか!?」
指令室のメインモニターには、現場に急行した超小型探知ドローンからの映像が映し出されている。
しかし、そこに映っているのは、夕日に照らされた平和な裏路地のみ。魔獣の死骸はおろか、戦闘によって破壊された痕跡すら一つもない。
「新実少佐! 現場の魔力波長の解析が完了しました! ……残留魔力、ゼロです! 氷も、炎も、魔獣特有の瘴気も、一切検出されません。まるで、最初から誰もいなかったかのような数値です……」
「馬鹿なことを言わないでください! 確かにシグナルはありました! 空間ごと証拠を隠滅したとでも言うのですか!? 空間復元など、神の領域の奇跡ですよ!? あああっ、私の大切な研究対象の手がかりがぁぁぁっ!!」
理知的な眼鏡の奥の瞳を血走らせ、由鶴はタブレットをバンバンと叩きながら発狂した。
ゴーストの痕跡を採取し、ジャマー無効化の謎を解き明かそうとしていた情報班にとって、「証拠が微塵も残らない」という事態は、目隠しをされた状態で迷路に放り込まれたに等しかったのだ。
そして、由鶴以上の絶望と怒りに打ち震えている者たちがいた。
東京湾に浮かぶ豪華客船、犯罪シンジケート『福音の鐘』のVIPルーム。
パリンッ……!!
幹部の須藤真里が、手にしていた高級なワイングラスを握り潰した。赤ワインが血のように彼女の白い手を伝い落ちる。
「……宮子。今、なんと言ったの?」
「……ご報告した通りです。K地区に設置していた試作型第二世代・極大魔力ジャマーとのリンクが完全に途絶しました」
無機質な声で答える堀宮子の顔にも、明らかな動揺が浮かんでいた。
「魔獣を餌にしてゴースト様を誘い出し、新型ジャマーの最大出力で彼女の魔力を封印、あるいは最低でもその規格外の力のデータを収集する……それが今回の作戦でした。しかし、ジャマーを起動する直前……ジャマーのシステム、物理デバイス、発していた妨害電波のログに至るまで、ネットワーク上からジャマーの存在証明そのものが『最初から無かったこと』のように消滅しています」
その報告に、双子のルカとリリアも顔を見合わせて震え上がった。
「うそでしょ……? あんなに頑丈に隠蔽してたのに、壊されたんじゃなくて『消された』の?」
「私たちの切り札が、ゴースト様にとっては路傍の石ころと変わらなかったってこと……?」
「やってくれたわね、ゴースト」
常に余裕の笑みを浮かべていた真里が、美しい顔を夜叉のように歪ませて歯噛みした。
ゴーストを神として君臨させるための彼らの最高傑作。何十億という資金と数年単位の技術開発を注ぎ込んだ対特S級用の絶対兵器が、ゴーストにとっては「不法投棄されたゴミ」と同列に扱われ、証拠隠滅のついでに文字通り『無』へと還元されてしまったのだ。
「なんという……なんという圧倒的な理不尽……! 私たちの粋を集めたジャマーが、起動すら許されずに消し去られるなんて……!」
己の無力さと、ゴーストの底知れぬ深淵を見せつけられ、犯罪シンジケートは本来の目的を何一つ達成できないまま、ただ絶望と恐怖に打ち震えることしかできなかった。
混乱の波は、世界の諜報機関にも及んでいた。
「Fuck!! どうなってんのよ!!」
アメリカ支部(CIA)の特務エージェント、キャロラインは、極秘執務室のデスクを蹴り飛ばした。
「軍事衛星の熱源センサーも、最高機密の魔力探知システムも、完全に沈黙!? たった一人の魔法少女のシグナルが、あんな一瞬で地球上から跡形もなく消え失せるなんて、物理的にあり得ないわ!!」
彼女が日本に外交圧力のカードを切ろうにも、そもそもターゲットの存在証明が完全に途絶えてしまえば、交渉のテーブルにつくことすらできない。
一方、地下の闇病院で復讐の炎を燃やしていたロシア支部のアナスタシアも、部下からの報告に呆然としていた。
「ゴーストの……戦闘の痕跡が消えた? 世界中、どこを探しても見つからないと?」
「は、はい。まるで、幽霊という名前の通り、この世界からフッと消え去ってしまったかのように……」
「ふざけるなッ! 私のこの身体に刻まれた屈辱を、一体誰に返せというの!!」
アナスタシアの絶叫が、無機質な病室に空しく響き渡る。
さらに中国の『黒龍』部隊の李も、「我が国の探知網にすら一切引っかからない。やはりあの闇は、世界の理を外れたバグだ。安易に手を出せば、今度こそ我々が消される」と恐れおののき、探索活動を完全凍結する決断を下していた。
日本協会、犯罪シンジケート、そして世界の超大国。
世界を裏から牛耳る巨大な力を持つ者たちが、たった一人の魔法少女が本気で行った『証拠隠滅』の前に、完全に手詰まりとなり、その足を止めてしまったのだ。
世界中のパワーバランスがフリーズし、各国のエージェントたちが血眼になってゴーストの行方を探している、まさにその日の夜。
混沌の中心にいる『最強の亡霊』は——。
「お兄ちゃん、おかわり! 今日の親子丼、お肉がすっごくプリプリしてて美味しい!」
「私もおかわり! 卵の半熟加減と、出汁の旨味が絶妙ね。さすが零、うちの自慢の弟だわ。料亭に出せるレベルよ!」
三神家の温かいリビングで、エプロン姿の零が、姉と妹の空になった丼を嬉しそうに受け取っていた。
「はいはい、たくさん作ったから急いで食うなよ。……いやー、タイムセールで安く買えたし、帰り道も『誰にも見つからずに』帰ってこれたし、今日は本当にいい日だったな」
零は満足げに微笑みながら、自分用の親子丼を一口頬張った。
甘辛い出汁の香りと、とろとろの卵の食感が口いっぱいに広がり、特売戦争と魔獣討伐で疲れた身体を優しく癒やしていく。
(俺の証拠隠滅作戦、大成功だったみたいだな。ついでに路地裏の不法投棄みたいなゴミも掃除できたし。これで情報班とか、海外のヤバい連中に後をつけられる心配もない。明日からも、平和にスーパーの特売を回れそうだぞ)
自分のたった一つの魔法が、犯罪シンジケートの切り札を粉砕し、世界中を大パニックに陥らせていることなど露知らず。
最強の亡霊の意図せぬ神隠しは、こうして世界に束の間の静寂と、底知れぬ規模の混乱をもたらしたのだった。




