第七十二話
三神零が風邪を引いて寝込み、二人のトップエースの手厚すぎる看病(と暗黒物質の脅威)から無事に生還して、いつもの平和な主夫生活に戻りつつあった頃。
彼の預かり知らぬところで、世界は『特S級の亡霊』を巡り、かつてないほどの不穏な胎動を始めていた。
——東京某所、地下深くの隠し施設(闇病院)。
「……バイタル安定。魔力回路、正常に接続完了。アナスタシア様、お目覚めですか」
無機質な医療機器の電子音が鳴り響く中、カプセル型の治療槽から一人の女性が身を起こした。
ロシア支部精鋭部隊の隊長、アナスタシア。
彼女はかつてゴーストを力ずくで屈服させようと奇襲をかけたが、わずか一分で部隊を全滅させられ、自身も全身の骨を砕かれるという凄惨なトラウマを植え付けられていた。
「ええ……。随分と、長く眠っていたような気がするわ」
アナスタシアは、培養液に濡れた長い金髪をかき上げ、自らの両手を強く握りしめた。
最新鋭の魔法医療と、禁忌とされる『魔獣の細胞』を応用した再生治療により、彼女の身体は元通り……いや、以前よりも禍々しい魔力を帯びて復活を果たしていた。
「あの亡霊……。私に屈辱を与え、ロシアの誇りを木っ端微塵に打ち砕いたあの圧倒的な力。……次は、絶対に負けない」
アナスタシアの氷のように冷たい瞳の奥に、狂気じみた執念の炎が宿る。
「私の体に『Aランク変異種』の因子を定着させる実験を急ぎなさい。……次会う時は、あの小娘の綺麗な顔を、私が絶望で歪ませてやるわ」
——同時刻。在日アメリカ大使館、極秘執務室。
「チッ……。中国の『黒龍』部隊も、尻尾を巻いて逃げ帰ったってわけ?」
CIAの特務エージェントであり、アメリカ支部の魔法少女でもあるキャロラインは、葉巻の煙を燻らせながら、デスクに放り投げられた報告書を忌々しそうに睨みつけた。
「ロシアの武力介入も、中国の封魔の陣も、あのゴーストには通用しない。100億円の年俸提示でも微動だにしない。……本当に、規格外のバケモノね」
「キャロライン様。いかがいたしますか? これ以上、我が国が直接手を出せば、日本政府も黙ってはいないかと」
部下の問いかけに、キャロラインは妖艶な笑みを浮かべた。
「直接の勧誘がダメなら、外堀から埋めるまでよ。……日本の情報班トップ、新実少佐が『特異体質者』に目をつけているという情報が入ったわ」
「横取りする、と?」
「ええ。日本政府には、我が国から強烈な外交圧力をかけるわ。『対魔力ジャマー技術の共有』をチラつかせれば、あの従順な犬どもは簡単に尻尾を振る。……ゴースト、あなたは最終的に、星条旗の下で踊る運命なのよ」
諜報と政治力を駆使したアメリカの搦め手が、静かに、しかし確実に零の足元へと忍び寄ろうとしていた。
——そして、東京湾に浮かぶ豪華客船のVIPルーム。
そこは、世界規模で暗躍する犯罪シンジケート『福音の鐘』の日本における拠点の一つだった。
「ふふふ……素晴らしい。新宿でのアラクネのテロでは『ゴースト様』は私たちの期待以上の見事なパフォーマンスで応えてくれました」
ワイングラスを片手に、妖しく微笑む幹部の須藤真里。
その向かいのソファには、無表情でタブレットを操作する堀宮子や、双子の幹部であるルカとリリアが腰を下ろしていた。
「対魔力ジャマーのデータ収集は完了した。現在、効果範囲と出力を十倍に引き上げた『第二世代ジャマー』の量産体制に入っている」
宮子が淡々と報告する。
それを聞いたルカとリリアが、残酷な笑い声を上げた。
「あははっ! じゃあ、これで日本のエース部隊は完全にただの女の子にできちゃうね!」
「うん。でも、ゴースト様だけは別。あの方には、どんなジャマーも効かないんだから」
「そうよ。あの方こそ、私たちの『福音』を完成させるための最後のピース」
真里が立ち上がり、夜景の見える窓ガラスに手を触れた。
「協会も、各国の支部も、あの美しい亡霊を『兵器』や『実験体』としてしか見ていない。なんと浅ましいことでしょう。……私たちが、ゴースト様をふさわしい玉座へとお迎えするのです」
犯罪シンジケートの幹部たちの目に宿るのは、狂信的なまでの崇拝。
彼らはゴーストを神格化し、世界を混沌に陥れることで、彼女を闇の女王として君臨させようと企んでいた。
「さあ、始めましょうか。日本魔法少女協会を崩壊させる、最も美しく、残酷なショーの準備を」
「……はっくしょん!!」
翌日の夕方。
自宅のリビングでスーパーのチラシを広げていた三神零は、盛大なくしゃみをした。
「お兄ちゃん、大丈夫? 風邪、ぶり返したんじゃないの?」
合同キャンプから帰還し、ソファでアイスを食べている玲奈が心配そうに声をかける。
「いや、熱は完全に下がったんだけどな。……なんか急に、背筋に悪寒が走ったっていうか」
「誰かがお兄ちゃんの噂でもしてるんじゃない? 羽衣大佐とか」
「姉ちゃん、それは絶対にない。羽衣さんは今日、北海道への遠征任務だって言ってたからな」
零は鼻をズズッとすすりながら、赤ペンでチラシに丸をつけた。
「よし、明日は特売の卵パックと、鶏肉を狙いに行くぞ。姉ちゃんと玲奈は、卵のタイムセールで一人一パックずつ確保する係な」
「「りょーかい!」」
世界各国の精鋭部隊や狂気的な犯罪組織が、己の全てを懸けて『ゴースト』を手に入れようと暗躍している。
しかし、その渦の中心にいる最強の亡霊本人は、卵のタイムセール(お一人様一パック限り)の戦略を練ることに全神経を集中させているのだった。




