第七十一話
「……けほっ、げほっ……。頭、痛ぇ……」
平日の午前十時。
三神零は、薄暗い自室のベッドの上で、熱い息を吐きながら呻いていた。
脇に挟んでいた体温計を取り出して液晶画面を見ると、『38.5℃』という数字が非情にも点滅している。
(……やっちまった。夏の疲れが出たのか、完全に風邪引いた……)
毎朝の過酷な特訓も、今日ばかりは免除である。
というか、そもそも今日から三日間、姉の澪と妹の玲奈は、第三訓練校の『魔獣討伐合同キャンプ』に参加するため、早朝から山奥の演習場へと出発してしまっていた。
つまり、現在の三神家には、高熱で身動きが取れない零がただ一人きり。
「のど、渇いたな……」
フラフラする頭を抱え、麦茶を求めてキッチンへ向かおうとベッドから身を起こした、その時だった。
——ピンポーン。
静かな家の中に、玄関のチャイムが響き渡った。
(……こんな時間に誰だ? 宅配便か?)
重い足取りでフラフラと廊下を歩き、玄関のドアをガチャリと開ける。
そこに立っていたのは、配達員ではなかった。
「零くん!! 大丈夫!? 熱が38度5分もあるって聞いたわ!!」
ドアを開けた瞬間、猛烈な勢いで飛び込んできたのは、息を切らした私服姿の『氷の女王』——羽衣緋雪だった。
その背後には、呆れたようにため息をつきながら、両手にスーパーのレジ袋を提げた『風』のトップエース・弓飛鳥が立っている。
「は、羽衣さん!? それに、弓大尉も……どうしてここに……?」
「お邪魔するわ、三神くん。……いやね、非番のパトロール中に、大佐のスマホに三神のお姉さんからメッセージが入ったのよ。『弟が熱出して一人で寝込んでるから、もし時間あったら様子見てやって』って。……それを読んだ大佐が、顔面蒼白でパニックになって、気がついたらスーパーで買い出しをしてここまで飛んできたってわけ」
「み、澪ちゃんから頼まれたんだもの! 大切な部下の弟……ううん、零くんの一大事に、私が駆けつけないわけにはいかないわ!」
澪め、余計な気を回しやがって。
零が内心で恨み言を呟いた直後、足元がフラッ……と大きく揺れた。
「あっ……」
「零くん!」
崩れ落ちそうになった零の身体を、緋雪が慌てて抱き止める。
彼女から伝わってくる、氷の魔法少女特有のひんやりとした体温が、熱を持った零の身体には驚くほど心地よかった。
「だ、ダメよ零くん! こんなに身体が熱いじゃない! 飛鳥、零くんをベッドまで運ぶわよ!」
「はいはい。三神くん、ちょっと失礼するわね」
こうして、高熱で抵抗する気力もない一般人は、日本が誇る二人のトップエースの手によって、過保護なほど手厚く自室のベッドへと強制送還されたのだった。
「いい? 絶対安静よ。水枕持ってくるから、大人しく寝てるのよ」
ベッドに寝かしつけられ、首元までしっかりと布団をかけられた零に、緋雪が母親のように言い聞かせる。
「す、すいません……。お見舞いに来ていただいたのに、お構いもできなくて」
「ふふっ、そんなの気にしないで。いつも零くんには美味しいご飯を作ってもらってるんだから、今日くらいは私に恩返しさせてちょうだい」
緋雪は嬉しそうに微笑むと、ギュッと両手で拳を握りしめた。
「さあ! 風邪を治すには、まずは栄養満点のご飯を食べることよね! 飛鳥、買ってきた食材を出して!」
「……嫌な予感しかしないけど、一応買ってきたわよ」
飛鳥がレジ袋から取り出したのは、白米、ネギ、卵といった無難な食材……の他に。
**『大量のニンニク』『ハチミツ』『プロテインの粉末』『青色のスポーツドリンク(2リットル)』**であった。
「なっ……羽衣さん、それ……」
零の頭痛が、熱とは別の理由でガンッ!と跳ね上がった。
「ええ! 風邪の時はお粥がいいってネットに書いてあったわ! だから、ただのお水じゃなくて、この**『スポーツドリンク』で白米を煮込んで**、さらに滋養強壮のために**『ニンニク』と『プロテイン』**を混ぜ合わせれば、最強の栄養食になるはずよ!」
「やめろぉぉぉぉッ!!」
高熱の身体に鞭を打ち、零はベッドの上で全力のツッコミを叫んだ。
「ダメです! 絶対ダメです! スポーツドリンクで米を炊いたら甘ったるい地獄になりますし、風邪の胃袋に大量のニンニクとプロテインはトドメを刺しにきてます!」
「えっ!? そ、そうなの……!? でも、水分と栄養を同時に摂れる画期的なアイデアだと……」
「画期的なのは破壊力だけです! ……ああっ、俺が作るから、キッチンには立たないで……けほっ、ごほっ!」
起き上がろうとした零だが、激しい咳き込みと共に再びベッドに倒れ伏してしまった。
「……はぁ。やっぱりこうなるのね」
惨状を見かねた飛鳥が、額に手を当てて深くため息をついた。
そして、暴走しそうになっていた緋雪の肩をガシッと掴む。
「大佐、あなたはここで三神くんの看病(水枕の交換や汗拭き)をしてなさい。料理は私が作るから」
「えっ、でも飛鳥……」
「青いスポーツドリンクのお粥なんて作ったら、三神くんが別の意味で死んじゃうでしょ。キッチンは私が制圧するわ」
そう言って、飛鳥はエプロンを取り出し、さっそうとキッチンへ向かっていった。
残された緋雪は、シュンと肩を落として零のベッドの脇に正座した。
「……ごめんなさい、零くん。私、また迷惑かけちゃって。看病に来たのに、足引っ張ってばっかりで……」
落ち込む氷の女王。その姿は、まるで雨に濡れた子犬のようだった。
零は苦笑いしながら、熱で重い手を伸ばし、緋雪の頭をポンポンと優しく撫でた。
「迷惑なんて、思ってないですよ。……羽衣さんが俺のために急いで駆けつけてくれたこと、すっごく嬉しかったですから」
「……っ! 零くん……」
「それに、羽衣さんの手が冷たくて……すげえ、気持ちいいです」
緋雪のひんやりとした手が額に触れると、氷の魔法少女ならではの心地よい冷気が、熱を持った身体のダルさをスッと和らげてくれた。
零の言葉に、緋雪は顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに微笑んだ。
「う、うん……! 私、一生懸命冷やすわね!」
数十分後。
飛鳥が作ってくれた、卵とネギのシンプルな(そして正常な)お粥を、緋雪の「あーん」という過保護すぎる介護付きで食べさせてもらった零は、薬を飲んで深い眠りについた。
「……寝たわね」
「ええ。安らかな寝顔だわ……ふふっ」
スヤスヤと眠る零の寝顔を特等席で見つめながら、緋雪は完全に幸せオーラを放っていた。
その様子を後ろから眺めていた飛鳥は、やれやれと肩をすくめる。
(大佐も、完全に普通の女の子よね……。まあ、あの『ゴースト』とかいう正体不明のバケモノや、過酷な任務の重圧を忘れられるなら、こういう時間も悪くないか)
飛鳥は、まさか目の前で寝込んでいる無防備な少年こそが、その『ゴースト』本人であるなどとは夢にも思わず、窓の外の青空を見上げた。
姉妹不在の孤独な闘病生活になるはずだった一日は、こうして二人のトップエースの不器用で温かい看病によって、賑やかに過ぎていくのだった。




