第七十話
三神家に到着するなり、零はコミケの汗を洗い流すため、超特急でシャワーを浴びて着替えた。
すっかりさっぱりしてリビングに戻ると、そこにはすでにエプロンを身につけ、やる気に満ち溢れた日本支部トップエースの姿があった。
「シャワーお疲れ様、零くん! さあ、私の任務を教えてちょうだい!」
零の予備のエプロン(少しサイズが大きめでダボッとしている)を借りた羽衣緋雪が、キリッとした表情でキッチンに立っている。
その背後、リビングのソファからは、ポテトチップスを片手にニヤニヤと笑う姉の澪と、妹の玲奈の視線が突き刺さっていた。
「……えーっと、羽衣さん。先ほどスーパーでも言いましたが、今日のルールをおさらいしますよ」
「ええ、任せて!」
「一、火と包丁は絶対に触らない。二、魔力で食材を凍らせない。三、俺が指定した以外の調味料(特にチョコやハバネロ)を勝手に入れない。……いいですね?」
「了解したわ! 対象の完全制圧、指示通りに遂行してみせるわ!」
料理を何かの特殊任務と勘違いしている節があるが、やる気だけは十分らしい。
零は苦笑しながら、手際よくピーマンを千切りにし、耐熱ボウルに入れて電子レンジで加熱した。さらに豚肉をサッと湯通しして冷水で締め、冷しゃぶサラダの下ごしらえを爆速で終わらせる。
「じゃあ、羽衣さんには一番重要な『無限ピーマンの仕上げ』をお願いします」
「重要な仕上げ……ゴクリ」
「この加熱したピーマンと、油を切ったツナ缶に、鶏ガラスープの素とごま油を入れます。羽衣さんは、これをスプーンでムラなく、優しく混ぜ合わせてください。絶対に『氷の魔力』で冷やさないように」
零がボウルとスプーンを手渡すと、緋雪はまるで伝説の聖剣でも受け取るかのような厳粛な面持ちでそれを受け取った。
「わ、わかったわ……。優しく、均等に、魔力を使わずに……!」
カチャカチャ、カチャカチャ。
Aランク魔獣を瞬殺するトップエースが、全神経を指先に集中させ、スプーンでピーマンとツナを慎重に混ぜ合わせている。その姿は、初めてのお手伝いを任された小さな子供のようで、とてつもなく可愛らしかった。
「……ふふっ、ねえ玲奈。あれ見てよ」
リビングのソファから、その光景を生温かい目で見守っていた姉の澪が、小声で妹に耳打ちする。
「見てる見てる。お姉ちゃん、あれ完全に『新婚夫婦の初めての共同作業』だよね」
「間違いない。『ねえあなた、味付けこれでいいかしら?』『ああ、美味いよ。君の愛情スパイスが効いてるからね』ってアフレコしたくなるわ」
「零お兄ちゃん、自覚ないまま日本のトップエースを完全に手懐けてるよ……。大佐も大佐で、魔獣相手にはあんなに恐ろしいのに、お兄ちゃんの前だとただの恋する乙女じゃん」
クスクスと笑い合う姉妹。
当の本人たちといえば、外野のニヤニヤとした視線など全く気にする様子もなく、二人の世界に入り込んでいた。
「れ、零くん! 混ぜ終わったわ! これでどうかしら!?」
「おっ、完璧じゃないですか。ツナとピーマンが綺麗に絡んでます。じゃあ、最後に味見をお願いします」
「あ、味見……っ!」
緋雪の顔がパッと明るくなる。
零が小皿に一口分の無限ピーマンを取り分け、緋雪に差し出した。緋雪はそれをパクッと口に含むと、サファイアブルーの瞳をキラキラと輝かせた。
「——っ! 美味しい! ごま油の香ばしさとツナの旨味が最高よ!」
「よかった。羽衣さんが丁寧に混ぜてくれたおかげですよ」
「私、ちゃんと料理できた……!」
零の褒め言葉に、緋雪は頬をほんのりと桜色に染め、満面の笑みを浮かべた。
ただ混ぜただけなのだが、彼女にとっては「安全で美味しい料理を自分の手で作り上げた」という事実が何よりも嬉しかったらしい。
「よし、冷しゃぶサラダとそうめんも完成です。姉ちゃん、玲奈! ご飯できたぞ、テーブル拭いて!」
「はーい! アツアツ新婚さん、ごちそうさまでーす!」
「末長く爆発しろー!」
「は? 何言ってんだお前ら。火も電子レンジも爆発させてないだろ」
姉と妹の冷やかしの意味が全く分かっていない零は、不思議そうに首を傾げながらそうめんの鉢をテーブルに運んだ。
緋雪だけは「し、新婚さん……!?」と顔から火が出るほど赤面し、ボフゥッと頭から湯気を上げた。
「「「「いただきます!」」」」
食卓に並んだのは、氷を浮かべた涼しげなそうめん、野菜たっぷりの冷しゃぶサラダ、そして緋雪(と零)の共同作業で生まれた無限ピーマン。
真夏の疲れた身体に染み渡る、さっぱりとした完璧な献立である。
「ん〜っ! 冷しゃぶのお肉が柔らかくて美味しい! お兄ちゃん、コミケ帰りでボロボロだったのに、よくこんなの作れるね!」
「ほんと。うちの弟ながら、この主夫力だけは尊敬するわ。零、あんたいいお嫁さんになれるわよ」
「俺は男だ。……それより、褒めるなら明日からの姉ちゃんと玲奈の朝の特訓、少し手加減してくれ」
姉妹の容赦ない食欲を眺めながら、零は疲労の溜まった肩を小さく回した。
ふと視線を横に向けると、緋雪が無限ピーマンを大切そうに少しずつ味わいながら、幸せそうに微笑んでいる。
「零くん、今日も本当にありがとう。……私、こんなに美味しいご飯をみんなでワイワイ食べられるなんて、思ってなかったから」
「大げさですよ。でも、まあ……羽衣さんがそう言ってくれるなら、作った甲斐がありました」
コミケでの地獄の荷物持ち。そして魔獣の襲撃。
心身共に疲労困憊の一日だったが、こうして自分の作った料理を美味しそうに食べてくれる人たちがいるこの食卓の風景は、何事にも代えがたい「平穏」そのものだった。
(……この日常を守るためなら、まあ、少しぐらいの無茶は仕方ないか)
呑気にそんなことを考える零であった。




