第六十九話
すし詰めの満員電車と魔獣襲撃というダブルパンチの地獄を抜け、三神零が最寄り駅に降り立った頃には、すっかり日が暮れかけていた。
「お、おい三神……! 俺の、俺の神絵師セットが……無事だああぁぁっ!」
「はいはい、よかったな。俺の腕と肩は完全に死んだけどな」
駅のホームで、無傷の戦利品を抱きしめて号泣する稔と別れ、零は重い足取りで改札を抜けた。
全身は汗と他人の熱気でベタベタだ。早く家に帰って、冷たいシャワーを浴びて、キンキンに冷えた麦茶を一気飲みしたい。それだけが今の彼の切実な願いだった。
「あーっ、お兄ちゃんだ! おーい!」
駅前広場を歩き出そうとした時、聞き慣れた声に呼び止められた。
振り向くと、姉の澪と妹の玲奈が、楽しそうに手を振りながらこちらへ駆け寄ってくる。
「おっ、お前らも今帰りか?」
「うん! 二人でカラオケ行って、日頃の訓練のストレス発散してきたの!」
「お兄ちゃん、お疲れみたいだね。コミケで荷物持ちさせられたんでしょ? どんまい!」
カラオケ帰りでテンションの高い姉妹と、HPが赤ゲージ点滅中の兄。
澪がニカッと笑って、零の背中をバンバンと叩いた。
「よし、合流したことだし、このまま駅前のスーパーで夕飯の買い出しして帰ろうぜ! お兄ちゃん、今日のご飯なにー?」
「……俺の疲労度を考慮して、今日はさっぱりと冷しゃぶサラダと、ツナ缶使った無限ピーマン、あとはそうめんで許してくれ」
「やったー! お兄ちゃんの冷しゃぶ、お肉がしっとりしてて好きなんだよね!」
文句一つ言わず瞬時に献立を弾き出す零の主夫力に、姉妹は歓声を上げる。
かくして、三神家の一同は駅前の大型スーパーへと吸い込まれていった。
「豚肉の薄切りと、ピーマンと……あとはツナ缶だな」
スーパーの特売品を手際よくカゴに入れながら、零は缶詰コーナーへと向かった。
しかし、その通路に足を踏み入れた瞬間、零の特S級のシックスセンスが『ビリッ』と反応した。
(……なんだ? スーパーの缶詰コーナーから、微かに、しかし極めて純度の高い『氷』の魔力が漏れ出ている……?)
零が警戒しながら視線を向けると、ツナ缶やサバ缶が並ぶ棚の前に、一人の女性が立ち尽くしていた。
深く被ったキャスケット帽に、変装用の伊達メガネ。しかし、その帽子からこぼれ落ちる美しい銀髪と、周囲の気温を2〜3度下げているような凛としたオーラは、隠しきれるものではない。
日本支部トップエース、『氷の女王』こと羽衣緋雪その人だった。
「……ツナ缶……それに、サバの味噌煮缶……」
緋雪は、棚に並ぶ缶詰を真剣な——まるでAランク魔獣の弱点を分析するような鋭い眼差しで睨みつけ、ブツブツと独り言を呟いていた。
「零くんは『火と刃物は絶対に使うな』と言っていたわ……。でも、缶詰なら調理済みだから、火も包丁も使わずにアレンジできるはず……。ツナ缶に、この『練乳』と『ハバネロソース』を混ぜ合わせて、電子レンジで缶ごと加熱すれば……甘辛くてスパイシーな、愛の手作りディップソースが……!」
「ストォォォォップ!!」
謎の暗黒物質(電子レンジ爆発のおまけ付き)がこの世に産み落とされる寸前、零は反射的にカゴを放り出し、緋雪の腕をガシッと掴んだ。
「あっ!?」
緋雪がビクッと肩を揺らして振り返る。
「れ、零くん!? どうしてここに……!」
「こっちのセリフです! 羽衣さん、電子レンジでアルミ缶を加熱したら火花が散って大惨事になります! それに、ツナと練乳とハバネロソースの組み合わせは、もはや兵器です!」
「えっ、そ、そうなの……!? お料理のネット記事で『甘みと辛みの絶妙なハーモニー』って書いてあったから、手軽な缶詰で私なりのアレンジを加えようと……」
シュンと肩を落とすトップエース。
どうやら彼女は、零に手料理(?)を振る舞うため、火や包丁を使わない「缶詰アレンジ料理」を真剣に研究していたらしい。ベクトルは完全に間違っているが、その健気な理由を知ってしまえば、零の過保護なお人好しスイッチが入らないわけがなかった。
「お兄ちゃん、急に大声出してどうした……って、ええええっ!? は、羽衣大佐!?」
遅れて追いついてきた澪と玲奈が、変装姿の緋雪を見て目を丸くする。
「こ、こんばんは、澪ちゃん、玲奈ちゃん……。その、お恥ずかしいところを見られちゃったわね」
「大佐、こんなところで何してるんですか?」
「えっと……お料理の、特訓を……」
顔を真っ赤にして俯く氷の女王。
その姿に、姉妹は(あー、またお兄ちゃんのために無茶しようとしてたんだな)と全てを察し、生温かい視線を交わした。
「……はぁ」
零は深くため息をつくと、緋雪が手に持っていた練乳とハバネロソースをそっと棚に戻し、代わりに特売のツナ缶を三つ、自分のカゴに入れた。
「羽衣さん。今日の夕飯、うちで一緒に食べていきませんか? ツナ缶を使った『無限ピーマン』、美味しいですよ」
「えっ……でも、私、お料理の特訓が……」
「料理は、まずは俺の横で『正しい調味料の組み合わせ』を見るところから始めましょう。火も包丁も使わせませんし、電子レンジの正しい使い方も教えますから」
零が呆れ半分、優しさ半分で微笑みかけると、緋雪の瞳がパァッと輝いた。
「ほ、本当!? 行く! 絶対行くわ!」
「やったー! 今日も大佐と一緒にご飯だー!」
「お兄ちゃん、私の分のピーマン大盛りでね!」
疲労困憊で、一刻も早くシャワーを浴びて寝たかったはずの零だが、結局のところ、年上のポンコツ可愛いトップエースと騒がしい姉妹のおねだりには抗えなかった。
「はいはい、了解。じゃあ、早く帰って飯にするぞ」
そう言うと、買い出しを済ませて4人で帰路に着いた。




