第六十八話
夏の祭典、コミックマーケット。
参加者たちにとって、本当の地獄は会場内ではなく『帰りの電車』にあると言われている。
「ぐっ……お、重い……っ!」
「耐えろ三神! この紙袋の中には、俺たちの(というか俺の)汗と涙の結晶である薄い本とグッズが詰まっているんだ! 絶対に折ったり曲げたりするなよ!」
東京ビッグサイトから都心へと向かう帰りの電車内。
車内は、戦利品を抱えたオタクたちによって、文字通り足の踏み場もないほどの『すし詰め状態』となっていた。
零はドアの横の窓ガラスにベチャッと頬を押し付けられながら、両手に提げた巨大な紙袋を死守していた。前後左右を汗だくの男たちに完全にホールドされており、腕一本、指一本動かすことすら困難な状況である。
(毎朝の姉ちゃんと玲奈の特訓よりキツいぞ、これ……。早く帰ってシャワー浴びたい……)
零が遠い目をしながら早く最寄り駅に着くことを祈っていた、その時だった。
——ギギギギギギッ!!
突如、電車が鼓膜を劈くような急ブレーキの音を立てて停止した。
車内の照明がチカチカと明滅し、ギュウギュウ詰めの乗客たちがドミノ倒しのように重なり合って悲鳴を上げる。
「な、なんだ!? 地震か!?」
「おい、窓の外を見ろ! 空飛んでるあれ……魔獣じゃないか!?」
パニックに陥る車内。
窓ガラスに顔を押し付けられていた零の視界にも、それははっきりと映っていた。
電車の周囲を飛び回る、巨大なコウモリのような翼を持ったCランク魔獣の群れ。どうやら線路の周囲に発生し、走行中の電車を獲物と見なして群がってきたらしい。
「ひぃぃっ! ま、魔獣だぁっ! 俺の新刊が! 俺の命より大事な神絵師の限定アクスタがあああっ!」
稔が半狂乱になって戦利品の入った紙袋を抱きしめる。
窓ガラスの外では、魔獣たちが鋭い爪で車体を引っ掻き始め、不快な金属音が車内に響き渡っていた。
(ヤバい、このままだと窓が割れるか、電車ごと横転させられる……!)
零は咄嗟に胸元のペンダントに手を伸ばし、『ゴースト』に変身して事態を収拾しようとした。
しかし。
「……っ! 腕が……抜けない!」
周囲を大柄なオタクたちに完全に挟み込まれているため、ポケットはおろか、胸元のペンダントにすら指先が届かない。
仮に無理やり変身できたとしても、ゴーストの変身プロセスは『骨格から完全に再構築される』というものだ。この全く隙間のない密室空間で変身時の強力な魔力波と光を放てば、周囲の一般人を吹き飛ばしてしまうか、最悪の場合、車内のパニックを加速させて圧死者を出しかねない。
さらに、得意の『闇』の瞬間移動を使おうにも、展開した闇の渦に周囲の一般人が巻き込まれて虚無空間に吸い込まれるリスクが高すぎた。
(嘘だろ……。特S級の魔力があっても、満員電車の中じゃ物理的に何もできないのか!?)
いかなる強大な敵も蹂躙してきた最強の亡霊が、日本の『通勤ラッシュ(コミケ仕様)』という物理的拘束力の前に、完全に手も足も出ない状態に陥っていた。
ガシャァァァンッ!!
ついに、隣の車両の窓ガラスが魔獣の体当たりによってひび割れた。
悲鳴が最高潮に達し、零が「もう周りの人間ごと闇の結界で保護するしかないか!?」と覚悟を決めた、その瞬間だった。
——シュパンッ!!
窓の外で、鋭い風切り音が鳴り響いた。
次いで、電車の窓に張り付こうとしていた巨大コウモリ型魔獣の胴体が、見えない『不可視の刃』によって真っ二つに両断され、血しぶきを上げて線路へと墜落していった。
「えっ……?」
零が瞬きをした直後。
窓の外の空中を、ショートヘアの凛々しい少女が、長槍を構えながら一陣の疾風のごとく駆け抜けていった。
「——対象の群れを確認。これより、排除行動に移るわ!」
日本支部トップエース・遊撃要員である『風』の弓飛鳥大尉だった。
彼女の号令と共に、上空から協会の一般部隊の魔法少女たちが次々と降下し、見事な連携で電車の周囲に群がっていた魔獣たちを各個撃破していく。
「おおおっ! 弓大尉だ! トップエースが来てくれたぞ!!」
「助かったぁぁぁっ!」
車内のオタクたちが、今度は歓喜の声を上げて窓の外の救世主たちに声援を送り始めた。
飛鳥の振るう長槍から放たれる『風の刃』は、電車の車体には一切傷をつけることなく、ピンポイントで魔獣の急所だけを的確に斬り裂いていく。
その見事な精密操作と機動力に、零は目を丸くした。
(すげえ……。あんな風に、周囲に全く被害を出さずに立ち回れるのか。さすがはトップエースだな)
ゴースト(零)の戦い方は、圧倒的な魔力による【蹂躙】や【粉砕】が基本である。もしあのまま自分が変身して戦っていたら、魔獣を倒せても、電車の窓ガラスは氷漬けになり、線路は炎で溶け、交通インフラに甚大な被害を出していたかもしれない。
窓の外では、飛鳥と魔法少女たちの活躍により、魔獣の数がみるみるうちに減っていく。
戦況は完全に協会側の優勢であり、乗客の命(と薄い本)に危険が及ぶことはもはや無さそうだった。
(……うん。俺の出る幕はなさそうだな)
零は、変身しようと力ませていた肩の力をスッと抜いた。
自分が無茶をして正体を晒したり、周囲を巻き込んだりするリスクを冒さなくても、日本の平和は彼女たちがしっかりと守ってくれている。
その事実に、零は心底ホッと胸を撫で下ろした。
「おい三神、見たか!? あの風の魔法少女、弓飛鳥大尉! 生で見るとすっげえ可愛いくてかっこいいな! やばい、推し変しそうだ!」
「はいはい、よかったな。だから、耳元で大声出すなよ……」
大興奮で窓の外にスマホのカメラを向ける稔の横で、零は大人しく窓ガラスに頬を押し付けたまま、戦いが終わるのを待つことにした。
(任せたぞ、弓大尉。俺はこのまま、息を潜めて大人しくしてるから……)
世界各国から拉致のターゲットにされ、オタク界隈からは神格化されている特S級の亡霊。
そんなカリスマの正体である少年は、真夏の満員電車の中でひっそりと、ただただ早く家に帰って冷たい麦茶を飲めることだけを祈り続けていたのだった。




