第六十六話
魔獣の影響で延期になっていた日本最大の同人誌即売会、通称『コミックフェスタ』の会場である東京メガドーム展示場は、数十万人という人間の熱気と欲望によって、文字通り地獄の業火のような有様となっていた。
「ゼェ……ハァ……ッ! み、三神……お前、なんで……一滴も汗かいてないんだよ……化け物か……ッ!」
「いや、毎朝妹たちに木刀で追い回される地獄の特訓に比べたら、ただ歩いてるだけのこっちの方が百倍マシだからな」
親友の狭間稔がスポーツドリンクを握り締めながら今にも倒れそうな顔をしている横で、三神零は涼しい顔でパンフレットを眺めていた。
平和な休日を愛する零だが、今回は「俺の命がかかった戦場なんだ! 頼む、荷物持ちをしてくれ!」という稔の土下座に負け、特S級の超人的な体力を活かした『歩く荷物置き場』として駆り出されていたのである。
「よし、次は東ホールだ! 俺がずっと追っかけてる神絵師サークル『フレイム・ストライク』の列に並ぶぞ!」
「はいはい。熱中症で倒れないでくれよ」
人の波を掻き分け、二人は広大な東ホールの島中(一般スペース)へと向かった。
目的のスペースには、新刊を求めるオタクたちの短い列ができていた。
「新刊セット一つですね。はい、千円になります。ありがとうございますー」
スペースの中で売り子をしているのは、キャップを深く被り、大きな伊達メガネと黒いマスクで顔の半分以上を隠した女性だった。
服装もダボダボのパーカーで体型を隠しており、一見するとただの怪しい人物である。
(……ん?)
列に並び、少しずつその女性に近づいていった零は、ピクリと眉を動かした。
一般人には絶対に分からない。しかし、零は、その売り子の女性から漏れ出ている『あるもの』をハッキリと捉えていたのだ。
(おいおい……なんだ、この既視感は……? しかも、この肌をジリジリと焦がすような『炎』のプレッシャーみたいな……間違いない)
零は、目を見開いた。
キャップとマスクとメガネで完全変装しているつもりだろうが、その隠しきれない熱血なオーラと、日本有数の極上の炎の魔力。
それは紛れもなく、日本支部トップエースの一人——新堂鈴乃、その人であった。
(……ウソだろ!? なんでトップエースがこんなところで売り子やってんだよ!?)
零の内心は、魔獣に遭遇した時以上の大パニックに陥っていた。
百歩譲って、一般参加でオタク活動をしているならまだ分かる。しかし、彼女はサークルのスペースの内側に座り、しかも机の上に並べられている新刊の表紙はどう見ても……。
「よし、俺の番だ! 新刊セット、一つお願いします!」
「はいはーい、ありがとうございますっ。えーっと、千円になりま——」
稔の横で固まっていた零と、お金を受け取ろうと顔を上げた鈴乃。
二人の視線が、空中でバチリと交差した。
「…………ッ!!?」
マスクの奥で、鈴乃の目が限界まで見開かれた。
無理もない。彼女からすれば、目の前にいるのは「同じ部隊の羽衣大佐がベタ惚れしている、超家庭的で料理上手な三神零くん」なのだ。
なぜ、こんなオタクの祭典の、よりにもよって『自分のサークル』の前に、彼がいるのか。
(ななななんで三神零がこんなところに!? ヤバいヤバいヤバい、大佐に『私、実は休日は同人作家やってるの』なんて絶対に知られたくないのに!!)
鈴乃の顔が一瞬にして真っ赤(おそらく炎の魔力の影響で物理的にも発熱している)に染まる。
(見なかったことにしよう! 俺は何も気づいてない一般人だ!)
零もまた、ここで「あ、新堂中佐ですよね?」などと声をかければ、国家最高機密レベルのトップエースのプライバシーを暴いた罪でどんな口封じ(あるいは物理的な爆破)に遭うか分からないと本能で察知した。
「あの、お姉さん? 千円、どうぞ?」
「あ、ひゃいっ! あざっす! 新刊セット、あざっす!!」
稔に声をかけられ、鈴乃は裏返った声で新刊を渡した。
その時、零の視界に、机の上に平積みされた同人誌の表紙とタイトルがはっきりと飛び込んできた。
タイトル:『絶対に負けない魔法少女たちの、甘く蕩けるヒミツの夜』
表紙:どこかで見たことのある氷の魔法少女と風の魔法少女が、顔を赤らめて至近距離で見つめ合っている、極めて『百合度』の高い美麗なイラスト。
(……新堂中佐、アンタって人は……!!)
零は愕然とした。
熱血で、脳筋で、エース部隊の頼れるツッコミ役。そんな彼女の隠された顔は、まさかの**『職場の同僚をモデルにした過激な百合同人誌を描く神絵師』**だったのだ。
「すげえよな、この『フレイム・ストライク』先生の描く魔法少女百合! 特に氷の魔法少女の解像度がエグいんだよ! まるで本物を間近で見てるみたいなリアリティでさ!」
「そ、そうだな……(本人が本物の同僚を描いてるんだから当然だろ……!)」
嬉しそうに語る稔の横で、零は引き攣った愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「……あ、あの! そっちの、背の高いお兄さん!」
立ち去ろうとした零に向けて、鈴乃が切羽詰まったような声で呼び止めた。
ビクッと肩を揺らして振り返る零に、鈴乃は机の下からコソコソと、一枚の紙袋を取り出して押し付けてきた。
「こ、これ! 新刊のオマケの、特製ペーパーとアクリルスタンド! あ、あんたにもあげるから! だから、その……今日ここで見たことは、絶対に誰にも言わないでね!! 特にお姉さん……じゃなくて、知り合いの女の人とかには!!」
それは、暗に「羽衣大佐には絶対にバラすなよ、バラしたら燃やすぞ」という、トップエースからの無言の圧であった。
「は、はいっ! 俺、今日は何も見てませんし、ここのサークル主がものすごい熱い炎のオーラを纏ってることにも全く気づいてませんから!」
「よし、よく言った! 帰ってよし!!」
鈴乃は満足げに頷くと、再び帽子を深く被り直して、プロの売り子の顔へと戻っていった。
「いやー、いい買い物ができたぜ! しかし三神、お前なんかあの売り子のお姉さんに気に入られてなかったか?」
「気のせいだろ。ただのオマケだよ」
会場の外に出て、海風に吹かれながら、零はどっと噴き出した(冷や)汗を拭った。
(羽衣さんは料理スキル絶望的だし、新堂中佐は百合同人作家だし……日本支部のトップエース、癖が強すぎないか?)
貰った紙袋の中には、氷の魔法少女(モデル:緋雪)と風の魔法少女(モデル:飛鳥)のアクリルスタンドが入っていた。
「……このスタンド、部屋に飾ったら鈴乃中佐に消し炭にされそうだな」
世界から狙われる特S級の亡霊は、日本の防衛の要たちの『深すぎる闇(趣味)』を知ってしまい、また一つ、平穏とは程遠い秘密を抱え込むのだった。




