第六十五話
凛音の夢を見た数日後。
三神零は、深夜の廃工場地帯にて、特S級の亡霊『ゴースト』の姿で一体のBランク魔獣(巨大なカマキリ型)を氷漬けにし、トドメの火球で消し炭にしていた。
「ふぅ。今日のはこれで終わりね。早く帰って、録画しておいた深夜アニメ見なきゃ」
誰に聞かせるわけでもない独り言を呟き、零は足元に『闇』のゲートを開こうとした。
——その瞬間である。
キンッ!!
足元のコンクリートが突如として眩い黄金色の光を放ち、ゴーストの周囲を取り囲むように、複雑な幾何学模様の『陣』が浮かび上がった。
同時に、地中から無数の魔力で編まれた『光の鎖』が飛び出し、ゴーストの四肢を何重にも雁字搦めに縛り上げる。
反応する間もなかった。鎖は瞬き一つの間に手首、足首、首元にまで食い込み、じりじりと魔力を吸い上げていく。まるで無数の蛭に全身の血を啜られているような、不快な虚脱感。ゴーストの膝が、わずかに沈んだ。
(——速い。しかも、魔力そのものを奪ってくる術式か)
「……なに、これ?」
ゴーストが冷ややかな視線を巡らせると、廃工場の鉄骨の影から、音もなく複数の人影が現れた。
黒を基調とした隠密用のボディスーツに身を包んだ、六人の魔法少女たち。すでに完全に包囲は完成していた。逃げ場を潰すように、鉄骨の陰、資材の裏、崩れた壁の隙間——死角という死角が塞がれている。
その先頭に立つ、切れ長の目と艶やかな黒髪をポニーテールに結んだ長身の女性が、扇子で口元を隠しながら優雅に歩み出てきた。
「見事な戦いぶりでしたよ、特S級の亡霊。……ですが、油断しましたね」
異国の訛りを感じさせる、流暢な日本語。
彼女たちの身につけている魔装の紋章を見て、ゴーストは内心で深々とため息をついた。
(マジかよ……西の大国、北の軍事同盟に続いて、今度は「龍克機関」のお出ましってわけか……)
女は扇子をパチンと閉じて恭しく一礼した。
「初めまして。龍克機関・暗部『黒龍』部隊の隊長、李と申します。あなたを我々の研究施設へご招待するために参りました」
「ご招待? 随分と手荒な歓迎ね」
軽口を叩きながらも、ゴーストは鎖越しに全身の魔力を静かに探っていた。——本当にまずいのはここからだ。鎖が奪っているのは魔力の総量ではなく、術式を編むための『制御力』。このままではゲートすら開けなくなる。
「あなたの命を奪うつもりはありません。欲しいのは、あなたの『身体』だけですから」
李の瞳の奥に、昏い探求心がギラリと光った。
「一つの身体に『氷』と『炎』、さらには未知の第三属性。……あなたは、現代魔法学の常識を覆す存在なのですよ」
「面倒な組織ね、私を解剖でもするつもりかしら?」
李は無言のまま笑みを深めた。図星らしい。
「特に喉から手が出るほど欲しいのが——空間を跳躍し、あらゆる事象を呑み込む『闇』のメカニズムです。世界中の魔法少女協会が、遅かれ早かれあなたに辿り着く」
李の部下たちも、ゴーストを囲むようにジリジリと距離を詰めてくる。革靴の底がコンクリートを踏む音が、じわじわと包囲網を狭めていく。六人分の魔装が、それぞれ違う波長で唸りを上げ始めた。次の一手を、いつでも撃ち込める体勢。
狂信的なまでの探求心と、組織の野望。
西の大国は『金と地位』で懐柔しようとし、北の軍事同盟は『武力』で屈服させようとした。そして龍克機関は、『徹底的な研究対象』として彼女を拉致しようとしているのだ。
(……どいつもこいつも、俺の平穏を脅かすことしか考えないんだな)
鎖が、また一段締まった。指先の感覚が鈍くなっていく。——のんびりしていられる時間は、もうあと数秒もない。
零は、光の鎖に縛られたまま、フッと自嘲気味に笑った。
「——なるほど。私の『闇』がそんなに欲しいのね」
ゴーストの声音が、絶対零度の冷たさを帯びる。
「なら、特別に教えてあげるわ。……闇の魔法の真髄を」
「強がりを。その鎖に繋がれている限り、あなたは——なっ!?」
李が言い切る前だった。
——ズブォォォォォォッ!!
ゴーストを縛り上げていた『光の鎖』が、まるで泥沼に沈むように、彼女の身体から溢れ出した漆黒のオーラの中にズブズブと【吸い込まれて】いったのだ。
それは破壊ではなかった。
鎖の輝きが、まず端の方から色褪せていく。黄金の光沢が灰色に変わり、次いで存在そのものが希薄になっていくように、輪郭が滲んで消えていく。まるで濃い墨を数滴垂らした水槽の中で、インクがゆっくりと透明な水を侵食していくような光景だった。
鎖だけではない。周囲の空気ごと、音が、光が、その一帯だけ吸い取られたように静まり返る。李たちの耳元で、自分の心臓の音だけが異様に大きく響いた。誰も、動けない。動いていいのかどうかすら、判断できない。
「ば、馬鹿な……この吸収力……!?」
「言ったはずよ。これが『闇』だと」
ゴーストが優雅に腕を払うと、足元の黄金の陣すらも、黒い染みが広がるように一瞬にして喰い破られ、消滅した。陣を構成していた幾何学模様が、外側から内側へと蝕まれるように黒く塗り潰され、最後の一筆が消える瞬間、パリンと薄氷が割れるような音を立てて完全に霧散した。
「……私の闇は、光も、熱も、あなたたちの野望も、等しく無に還すのよ」
その底知れぬ深淵の力に、李をはじめとする黒龍部隊の面々は、本能的な『恐怖』に全身の粟を立てた。
肌が粟立つ感覚だけではない。指先から徐々に体温が奪われていくような、生理的な悪寒。まるで自分たちの足元にも、見えない『無』の穴が静かに口を開けているかのような錯覚に陥る。誰かの荒い呼吸音が、やけに大きく廃工場に反響した。
捕獲対象などではない。自分たちが鎖をかけようとしていたのは、触れてはならない何かだったのだ。
「ひぃっ……! さ、散開——」
「遅いわ」
ゴーストが指先をパチン、と鳴らす。
瞬間、六人の魔法少女の足元の影が意志を持ったように隆起し、彼女たちの身体を『闇の触手』が縛り上げた。触手は鎖のような硬質さを持たず、粘性のある漆黒の靄のような質感で、締め付けるというより『沈める』ように四肢の自由を奪っていく。
「あぐっ!?」
「動け、ない……!」
もがけばもがくほど、闇はまるで意志を持った沼のように深く絡みつき、抵抗する魔力そのものを静かに呑み込んでいく。得意の魔装を展開しようとした一人の少女は、詠唱の途中で声すら『無』に吸い取られ、言葉にならない呻きだけを漏らした。誰かが小さく啜り泣く声が聞こえたが、それを咎める余裕すら、もう誰にもなかった。
先ほどまでゴーストを縛っていた彼女たちが、今度は文字通り手も足も出ない状態に陥る。
ゴーストはゆっくりと歩み寄り、恐怖で顔を青ざめさせている李の顎に、白魚のような指先をそっと添えた。冷気を帯びたその指先が触れた瞬間、李の肌に薄っすらと霜が降り、吐く息が真っ白に凍りついた。
「実験台にするなら、もう少し相手の力量を測ってからにすることね。……次に無断でここへ来たら、その時は本当に、あなたたちの存在ごと『闇』に溶かしてあげるわ」
李たちは声も出せず、ただガチガチと歯の根を鳴らして首を縦に振ることしかできなかった。
「……賢明ね。さあ、とっととお家に帰りなさい」
ゴーストが手を離すと同時に、闇の縛りが解け、六人の魔法少女たちは蜘蛛の子を散らすように撤退していった。
「……はぁ。魔獣と戦ってるだけなのになんで俺、世界中から狙われてるんだろうな……」
誰もいなくなった廃工場で、ゴーストに変身したままの零は、どっと押し寄せる精神的疲労に肩を落とした。手首には、鎖が食い込んでいた痕がまだ薄っすらと赤く残っている。
特S級の力など、見せびらかしたくて使っているわけではない。ただ、アニメを見たり、特売の肉を買ったり、家族とご飯を食べたりする『当たり前の平穏』を守るために、降りかかる火の粉を払っているだけなのだ。
(西も北も、東の機関も。……協会だけじゃなくて、裏社会の「福音の鐘」とかいう連中もいるし。マジで胃薬が必要になってきたぞ)
零は足元に『闇』を展開し、今度こそ自宅の自室へと向けて跳躍した。
強大な力を持てば持つほど、厄介事に巻き込まれていく。
宇宙一過保護で平和を愛する一般人の休日は、これからも国際的かつ超常的なスケールで蹂躙され続ける運命にあるようだった。




