第六十三話
「ふぅ……すっごく美味しかった。私、こんなにお腹いっぱい食べたの久しぶりかもしれないわ」
食後の温かい緑茶をすすりながら、羽衣緋雪は幸福感に満ちたため息をついた。
テーブルの上には、ハンバーグの肉汁もデミグラスソースも綺麗に平らげられた空のお皿が並んでいる。氷の女王らしからぬ見事な食べっぷりに、作った零としても大満足であった。
「お粗末様でした。羽衣さんの口に合ってよかったです」
「お兄ちゃんのハンバーグは世界一だもんね! 大佐、今度は生姜焼きの時にも来てくださいよ!」
「あっ、玲奈ずるい! 私はオムライスの時がいいな!」
すっかり緋雪と打ち解けた澪と玲奈が、楽しそうに笑う。
日本のトップエースと、ただの訓練生である姉妹。普段なら雲の上の存在でまともに口を利くことすらできない相手だが、この三神家のリビングでは、まるで親戚のお姉ちゃんが遊びに来たかのような和やかな空気が流れていた。
ふと、零がリビングの窓の外に目を向ける。
網戸の向こうから聞こえていた激しい雨音は、いつの間にかピタリと止んでいた。雲の切れ間からは、雨上がりの澄んだ夜空と、煌々と輝く三日月が顔を覗かせている。
「あ、雨、上がったみたいですね。でも、すっかり暗くなっちゃったな」
壁掛け時計の針は、すでに夜の八時を回っていた。
緋雪も時計を見て、少し名残惜しそうに立ち上がった。
「本当ね。長居しちゃってごめんなさい。……とっても楽しかったわ。そろそろお暇するわね」
「あっ、ちょっと待ってください。羽衣さん」
エプロンを外した零が、慌てて玄関へと向かう緋雪を引き止めた。
「俺、送っていきますよ。こんな時間ですし、夜道は危ないですから」
「……えっ?」
緋雪は、キョトンと目を丸くした。
それもそのはずである。彼女は日本魔法少女協会のトップエースであり、戦闘力で言えば単独で一個師団を壊滅させられるほどの規格外の化け物なのだ。その辺のチンピラや魔獣が出たところで、指先一つで氷漬けにできる。
夜道が危ないどころか、夜道を歩く彼女の存在こそが最大の安全保障である。
「お、お兄ちゃん……。羽衣大佐に夜道が危ないって、いくらなんでも過保護すぎない? 大佐なら、通り魔が出ても一秒で氷の彫刻にできるよ?」
「いや、そういう問題じゃないだろ。女の子を夜遅くに一人で帰すなんて、男として……いや、人としてダメだ。それに、今日は俺のせいで肩を濡らしちゃったお詫びもあるし」
妹の玲奈の至極まっとうなツッコミを真顔で一蹴し、零は玄関でスニーカーの踵をトントンと鳴らした。
本気で心配しているその真っ直ぐな瞳に、緋雪の心臓がトクンと大きく跳ねる。
(……っ! 私のことを、ちゃんと『一人の女の子』として心配してくれてる……!)
普段は「頼れる氷の女王」「絶対に負けない最強の魔法少女」としてしか見られない緋雪にとって、零のこの一般人感覚の過保護さは、劇薬のように甘く胸に染み渡った。
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。お願い、零くん」
「はい。姉ちゃん、玲奈、戸締まりしっかりしとけよ」
ほんのり頬を染めて微笑む緋雪に、零も釣られて柔らかく笑い返した。
そんな二人を、澪と玲奈はニヤニヤと生温かい目で見送っていた。
雨上がりのアスファルトは濡れて黒く光り、街灯の光を反射している。
ひんやりとした秋の夜風が心地よい住宅街の道を、零と緋雪は並んで歩いていた。
「ごめんなさいね、わざわざ送ってもらっちゃって」
「いえ、気にしないでください。いつも日本の平和を守ってくれてるトップエースの護衛(?)ができるなんて、光栄ですから」
「ふふっ。頼もしいナイト様ね」
緋雪がクスクスと笑う。
彼女の住むマンションは、三神家から歩いて二十分ほどの距離にある、協会がトップエース用に用意したセキュリティ万全の高級タワーマンションだ。
並んで歩く二人の距離は、相合い傘をしていた夕方よりも、ほんの少しだけ近い。
「……ねえ、零くん」
「はい?」
「今日、すごく楽しかった。零くんの家族、とっても温かくて……。私、小さい頃から魔法少女の訓練ばかりで、あんな風に誰かとゲームをして笑い合ったり、手作りのご飯をみんなで食べたりすること、全然なかったから」
緋雪の声に、少しだけ寂しさと、それを上回る温もりが混じる。
彼女は協会に保護されて以来、ずっと『最強』であることを義務付けられてきた。だからこそ、今日の三神家での数時間は、彼女にとって夢のような『普通の女の子の日常』だったのだ。
「そうですか。……俺の家族なんて、姉ちゃんはガサツだし、玲奈はうるさいし、騒がしいだけですよ。でも、まあ……退屈はしないですね」
「ううん、すごく素敵な家族よ。……それに、零くんのハンバーグ、本当に美味しかった」
緋雪は立ち止まり、零の顔を真っ直ぐに見つめた。
街灯の光に照らされた彼女の白い肌と、雨上がりのように澄んだ青い瞳が、息を呑むほど美しい。
「……また、遊びに行ってもいいかな? 今度は、オムライスの日にでも」
「えっ」
それは、トップエースとしての顔ではない。
ただの一人の少女としての、勇気を振り絞ったアピールだった。
「……あ、あはは。もちろんですよ。いつでも来てください。姉ちゃんたちも喜びますし、俺でよければ、いくらでもご飯作りますから」
照れ隠しに頭を掻きながら快諾する零。
その言葉に、緋雪の顔がパァッと花が咲いたように明るくなった。
「本当!? 約束よ! ……ふふっ、それじゃあ、今度は私が何かお土産持っていくわね。包丁を使わないケーキとか!」
「あ、それは助かります! 絶対、火と刃物は使わない方向でお願いしますね!」
冗談交じりに笑い合う二人の前に、やがてそびえ立つ高級タワーマンションのエントランスが見えてきた。
「ここまでで大丈夫よ。今日は本当にありがとう、零くん」
「はい。気をつけて帰ってくださいね。あ、もしまた変な魔獣とかが出たら、無理しないでくださいよ」
「ふふっ。ええ、肝に銘じておくわ」
緋雪は名残惜しそうに小さく手を振ると、エントランスの自動ドアの奥へと消えていった。
その背中を見送りながら、零は小さく息を吐いた。
(……羽衣さん、いい人だな。戦ってるときはあんなにすごいのに、普通に笑ってると、どこにでもいる女の子みたいだ)
自分が裏社会や国家権力から狙われている『ゴースト』であるという秘密。
そして、彼女が自分を追う『トップエース』であるという現実。
その厄介な関係性を一時だけ忘れさせるほど、今日の時間は平穏で、心地よいものだった。
「さてと。特売の合い挽き肉も無事に消費できたし、俺も帰ってアニメの録画でも見るか」
雨上がりの澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、零は足取り軽く自宅への帰路についた。
——この時、彼はまだ気づいていなかった。
自分から「いつでも来てください」「いくらでもご飯作ります」などという【最強のプロポーズじみたフラグ】を、よりにもよって『氷の女王』に立ててしまったことの、重大な意味に。




