第六十二話
その日の夕方。
三神零は、スーパーの特売日に無事勝利し、両手にずっしりと重いエコバッグを提げて帰路についていた。
しかし、山の天気と秋の空は変わりやすいと言うが、突然空が鉛色に濁ったかと思うと、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が降り始めたのだ。
「うわっ、マジかよ!?」
慌てて近くの公園の東屋に駆け込んだものの、雨足は強まるばかり。もちろん傘など持っていない。
特S級の魔力を持つ『ゴースト』に変身すれば、水分子を凍らせたり闇の結界で弾いたりして濡れずに帰ることも可能だが、こんな市街地のど真ん中でそんな真似ができるはずもない。
(参ったな……。このままだと、特売の合い挽き肉の鮮度が落ちちゃうぞ)
エコバッグを抱えながら途方に暮れていた、その時だった。
「——あら。あんなところに、可愛い迷子の子犬がいるわね」
雨音を透かして、ひどく美しく、そして聞き馴染みのある声が響いた。
振り返ると、透明なビニール傘を差した私服姿の美少女——日本支部トップエースにして『氷の女王』、羽衣緋雪が立っていた。
「羽衣さん!? どうしてこんなところに……」
「非番のパトロールよ。……なんて、本当はただのショッピングの帰りだけど」
緋雪はふわりと微笑むと、零の隣に並び、そっと自分の傘を彼の方へと傾けた。
「困っているみたいね。うちの優秀な情報班の予測によると、この雨はあと一時間はやまないそうよ。……送っていくわ、零くん」
「えっ! いや、でもそんな、トップエースに相合い傘なんて申し訳なさすぎます!」
「ふふっ、遠慮しないで。それに、冷たい雨に打たれてあなたが風邪でも引いたら、私が悲しいもの」
有無を言わさぬ、しかし甘い圧。
こうなると、一般人(仮)の零に断る権利などない。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「ええ。さあ、もっとこっちに寄って。濡れちゃうわよ?」
緋雪は嬉しそうに微笑むと、零の腕にピタリと自分の肩を密着させた。
雨音だけが響く帰り道。一つの傘の下、微かに香る緋雪のフローラルなシャンプーの匂いと、トップエースとは思えないほど柔らかい体温に、零は心臓をバクバクさせながら歩幅を合わせた。
「着きました。送っていただいて、本当にありがとうございます」
三神家の玄関前。
零が頭を下げてふと緋雪を見ると、彼女の右肩がぐっしょりと濡れていることに気がついた。
傘を零の方に大きく傾けていたため、彼女自身が雨に打たれてしまっていたのだ。
(うわっ、最悪だ俺! 女の子を、しかも日本の宝であるトップエースを濡らして帰らせるなんて……!)
零の持ち前の「究極のお人好し」と「過保護」のスイッチが入った。
「羽衣さん、その肩! すいません、俺のせいで……っ。もしよかったら、中に入ってください! タオル出しますし、温かいお茶も淹れますから!」
「……えっ。い、いいの? ご家族もいるのに」
「もちろんです! 濡れたまま帰すなんてできません!」
零が玄関のドアを開ける。
緋雪の表情は「申し訳ない」と言いつつも、内心では**(よっしゃあああああッ!! 憧れの零くんのお家キタコレ!!)**と歓喜のガッツポーズを決めていた。
「ただいまー。姉ちゃん、玲奈、お客さん連れてきたぞー」
零がリビングの扉を開けた瞬間。
そこには、ヨレヨレのジャージ姿でポテトチップスを貪りながら、寝転がってテレビゲームに興じている姉の澪と妹の玲奈の姿があった。
「あー、おかえりお兄ちゃん。お客さんって稔くんでしょー? 適当に上がってー」
「お姉ちゃん、右右! 回復アイテム取って!」
「いや、稔じゃなくて……」
零の背後から、緋雪が「お邪魔します」と上品に微笑みながら顔を出した。
「——えっ」
「——は?」
訓練生である姉妹の思考が、一瞬にしてフリーズした。
テレビの中では操作を失ったキャラクターが魔物にボコボコにされているが、そんなことはどうでもよかった。
目の前に、自分たちが目標とし、崇拝してやまない『氷の女王・羽衣大佐』が立っているのだから。
「「…………は、羽衣大佐ァァァァァァッ!!?」」
絶叫。そして大パニック。
澪と玲奈は弾かれたように跳ね起きると、光の速さで散らかっていたお菓子を隠し、ジャージのジッパーを上まで上げ、直立不動の姿勢をとった。
「き、気をつけぇッ! 第三訓練校所属、三神澪! および三神玲奈! お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんッ!!」
「ふふっ、そんなに硬くならないで。今日は非番だし、ただの零くんの友人としてお邪魔しただけだから」
「「ゆ、ゆ、友人……ッ!?」」
姉妹の信じられないものを見るような視線が、零に突き刺さる。
(お前、いつの間にトップエースを家に連れ込むまでの関係になってたんだよ!?)という心の声がはっきりと聞こえた気がした。
その後、タオルで髪を拭いた緋雪を交え、なぜか四人でテレビゲームをすることになった。
「いっけえええっ! 私の必殺技!」
「あーっ、玲奈ずるい! そこは私の取り分だったのに!」
人気の大乱闘対戦ゲーム。最初は緊張でガチガチだった姉妹も、緋雪の意外なほど気さくな態度に打ち解け、白熱したバトルを繰り広げていた。
「羽衣さん、右からアイテム飛んできてますよ!」
「えっ? あっ、ほんと! ……えいっ!」
緋雪は、現実の戦闘では超人的な反射神経を誇るトップエースだが、ゲームの操作に関してはポンコツだった。指先がコントローラーのボタンに全く追いつかず、画面の中で彼女のキャラクターが虚無に向かってパンチを繰り返している。
「ああっ、また落ちちゃった……! 零くん、助けて!」
「任せてください、今カバーに入ります!」
ゲームの中でも過保護を発揮する零が、緋雪のキャラクターを手厚くサポートする。
その光景を見ながら、姉妹はこっそりと目配せをした。
(なんか……羽衣大佐、お兄ちゃんの前だとただの恋する乙女じゃない?)という無言のテレパシーが交わされていた。
「さて、そろそろ夕飯の支度するか。羽衣さんも、もしよかったら食べていきませんか? 今日は合い挽き肉の特売だったんで、ハンバーグですけど」
「本当!? ……あ、コホン。ええ、ご迷惑でなければ、ぜひご馳走になろうかしら」
零がエプロンを締めると、緋雪がスッと立ち上がった。
「零くん、私も手伝うわ。いつも戦ってばかりだと思われてるかもしれないけれど、こう見えて家庭的な一面もあるのよ?」
「えっ、羽衣さんが? でも、お客さんに手伝わせるわけには……」
「いいからいいから! さ、包丁貸して!」
緋雪は強引に零から包丁を奪い取ると、まな板の上の玉ねぎに向かい合った。
(好きな男の子に手料理を振る舞うチャンス! ここで家庭的なところをアピールして、胃袋を掴むのよ!)
気合十分の緋雪。しかし、彼女には決定的に欠けているものがあった。
それは、**「料理の基礎知識」と「魔力コントロールのオンオフ」**である。
「よし、ハンバーグならまずは玉ねぎをみじん切りね! ——【氷刃・一閃】!」
「えっ」
——シャァァァァァンッ!!
緋雪が包丁を振るった瞬間、まな板の上の玉ねぎが、絶対零度の冷気を帯びたオーラによって微塵切りにされると同時にカチンコチンに凍結し、水晶のような氷塊へと変貌した。
「よし、完璧なみじん切りよ! 次はひき肉をこねて味付けね! えーっと、塩コショウと……本に書いてあった隠し味に、この『チョコレート』と『炭酸水』と『七味唐辛子』も練り込んだら、ふっくらスパイシーで美味しくなるはず!」
「ストォォォォップ!!」
謎の暗黒物質を生み出そうとする緋雪の腕を、零が全力でホールドした。
「羽衣さん! 玉ねぎが凍って砕けてます! そしてその味付けはハンバーグじゃなくて新種の毒薬です!」
「えっ? でも、お菓子作りの本にはチョコは甘みを引き立てるって……」
「ハンバーグはお菓子じゃありません! ……お願いですから、座ってテレビでも見ててください!」
究極の過保護兄貴である零は、流れるような動作で緋雪から包丁と危険な調味料を没収し、リビングのソファへと彼女を強制送還した。
「……うぅ、ごめんなさい。私、お料理は少し苦手で……」
ソファの上で小さくなり、しゅんと落ち込むトップエース。
その姿は、普段の「氷の女王」からは想像もつかないほど可愛らしく、澪と玲奈は「大佐にもあんな弱点があったんだ……」と妙な親近感を抱いていた。
「気にしないでください。その分、俺がめちゃくちゃ美味いハンバーグを作りますから」
零が優しく微笑みかけ、手際よくキッチンでボウルにひき肉と炒めた玉ねぎを入れ、愛情を込めてこね始めた。
やがて、フライパンからジュージューと肉汁が弾ける香ばしい匂いと、特製デミグラスソースの濃厚で甘酸っぱい香りがリビングに広がっていく。
「……うん。零くんの後ろ姿、すごくかっこいい」
緋雪は、エプロン姿で料理をする零の背中を特等席で見つめながら、ポツリと漏らした。
その顔は、氷の女王ではなく、完全に恋に落ちたひとりの少女のそれだった。
やがて完成した、ふっくらと焼き上がったハンバーグ定食を囲み、四人で食卓につく。
「「「いただきます!」」」
「——っ! 美味しい……! お肉がすごくふっくらしてて、噛むと肉汁が口の中に溢れてくる! ソースも濃厚で、お店の味みたい……!」
一口食べた緋雪が、パァッと顔を輝かせた。
「ふふ、お兄ちゃんの料理は最高でしょ? うちの自慢の兄なんだから!」
「へへーん! 羽衣大佐でも、こればっかりは勝てないでしょ!」
妹たちが自慢げに胸を張る。
零は照れくさそうに頭を掻きながら、「おかわりもあるんで、たくさん食べてくださいね」と笑った。
雨の日の偶然から始まった、トップエースとの奇妙な食卓。
料理スキル絶望的な氷の女王は、三神家の温かい味と、愛しの少年の手料理にすっかり胃袋を掴まれ、満面の笑みで白米とハンバーグをかきこむのだった。




