第六十話
「——う、うわああああああッ!!」
静まり返った路地裏に、三神零の悲痛な叫び声が響き渡った。
「な、なんですか突然!?」
冷静沈着な由鶴が、思わずビクッと肩を揺らしてデバイスから顔を上げる。
零はエコバッグを放り投げ、その場にガクンと膝をついて激しく腹を抱え込んだ。
「い、痛い痛い痛いッ! 腹が! いや、全身の細胞が急に内側から熱く……ッ! これが、魔力耐性の暴走……!? Aランクのプレッシャーに中和細胞が過剰反応して、身体が破裂するぅぅぅッ!!」
「は? 魔力耐性の暴走? そのような医学的理論は過去の文献にも一切存在しませ——」
「うおおおおッ! 吐く! もらしそう! 一般人の見苦しいところを見られたくない! トイレ!!」
零は、由鶴がツッコミを入れ終わる前に立ち上がり、脱兎のごとく駆け出した。
向かった先は、路地裏の突き当たりにある古びた公衆トイレ。
毎朝の妹たちとの地獄の特訓で鍛え抜かれた一般人離れした脚力で、瞬く間に男子トイレの中へと飛び込み、一番奥の個室の鍵をガチャン!と閉めた。
「……ちょっ、三神さん!?」
由鶴は慌ててドローンをトイレの入り口まで飛ばしたが、さすがに情報班トップといえども、年頃の男子高校生が排泄(あるいは嘔吐)している真っ最中の個室内にまでカメラを入れる趣味はない。ドローンは男子トイレの入り口でピタリと停止し、ホバリングしながら監視モードに入った。
「……やれやれ。やはりただの気の弱い一般人でしたか。先ほどの安定したバイタルは、極度の緊張で一時的に感覚が麻痺していただけ……ふふっ、魔力耐性の暴走だなんて、アニメの見過ぎですね」
由鶴は呆れたようにため息をつき、監視をドローンに任せて前線の情報支援へと意識を戻した。
一方、トイレの個室。
便座の蓋の上に立ち、息を潜めていた零は、ドローンが外で待機している音を確認すると、ニヤリと笑った。
(よし、完璧な大芝居だ。由鶴のドローンが外を監視してるってことは、これで『俺がトイレから一歩も出ていないアリバイ』が成立したってことだからな)
零は胸元のペンダントを強く握りしめた。
眩い光が溢れ、骨格が再構築され、黒と白のドレスを纏った特S級の亡霊『ゴースト』へと変身を遂げる。
「さて。サクッと終わらせて、生姜焼きを作らないとね」
ゴーストは足元に『闇』を展開し、音もなく異空間へと沈み込んだ。自作アプリが示した魔力波形の中心——前線である廃工場へと向けて。
ドォォォンッ!!
廃工場の敷地内で、巨大な土煙が上がった。
「くそっ、また弾かれた!」
真奈が巨大なハンマーを振り抜いたが、巨大なスライムのような半透明の身体を持つ変異種魔獣は、その表面の粘液でハンマーの衝撃を見事に吸収し、ボヨンと弾き返した。
「本当に厄介ね! 私の氷も、凍結する前に魔力を吸われてただの冷水になっちゃうわ!」
「私の炎も同じよ! 着弾した瞬間に魔力だけ吸い取られて、物理的なダメージが通らない!」
緋雪と鈴乃が歯噛みしながら後退する。
Aランク変異種『アブソーブ・スライム』。
どんな強力な魔法を撃ち込んでも、その粘液が魔力を際限なく吸収して自身のエネルギーへと変換してしまう。さらに物理攻撃にも極めて高い耐性を持つ、エース部隊にとって天敵とも言える相手だった。
『——気をつけて! 魔獣の体内に溜め込まれた魔力が臨界点に達しようとしてる! 広範囲の魔力レーザーが来るわよ!』
通信機越しに由鶴の警告が飛ぶ。
スライムの体内に、緋雪たちの氷と炎の魔力がドロドロと混ざり合い、不気味な光を放ち始めた。
「まずい! 真奈、防壁を!」
「わ、わかってる!」
真奈が急いで土の壁を隆起させようとした、その瞬間だった。
——ズオォォォォッ!!
スライムの頭上に、漆黒の『闇』の渦が出現した。
そこから、一切の重力を感じさせない優雅な動作で舞い降りたのは、黒と白の魔法少女。
「ゴースト!?」
緋雪たちが驚愕の声を上げる中、ゴーストはスライムの巨大な身体の上にふわりと着地した。
「ギィルルルル……!」
スライムが獲物の接近に気づき、体表から無数の触手を伸ばしてゴーストを捕食しようとする。
しかし、ゴーストは表情一つ変えず、スライムの本体に直接右手を突き立てた。
「魔力を吸収する能力、ですって?」
ゴーストの紫の瞳が、冷酷な光を放つ。
「なら、喰らい尽くしてみなさい。……あなたのキャパシティが、私の魔力にどこまで耐えられるか、見物ね」
——ドォンッ!!
次の瞬間、ゴーストの右手から、常軌を逸した量の『氷』と『炎』の魔力が、スライムの体内へと直接、そして暴力的なまでに流し込まれた。
特S級、しかも二つの相反する極大魔法の同時注入。
「ギ、ギギギギギギィィィッ!?」
スライムの巨体が、風船のようにパンパンに膨れ上がり始める。
魔力吸収能力には、当然『限界容量』が存在する。だが、ゴーストの注ぎ込む魔力は、たった数秒でその限界を遥かに突破していた。
「あ、あら……もうお腹いっぱい? だらしないわね」
ゴーストは冷たく笑うと、最後に極低温の『氷』の魔力を一点に凝縮して放った。
「——【氷結粉砕】」
パチン、と指を鳴らす。
限界まで膨張し、熱を帯びていたスライムの巨体が、内側から一瞬にして絶対零度で凍結。急激な温度変化と許容量オーバーの魔力に耐えきれず、まるでガラス細工が割れるように、粉々に砕け散った。
キラキラと光る氷の粒子となって、厄介なAランク変異種は跡形もなく消滅した。
「……嘘でしょ。私たちが三人掛かりで傷一つつけられなかった変異種を、力技で破裂させた……!?」
「どんだけデタラメな魔力量してんのよ、あいつ……」
緋雪と鈴乃が、あまりの規格外な光景に呆然と立ち尽くす。
「ふぅ。間に合ってよかったわ。あとはよろしくね」
ゴーストは、ポカンとしているエースたちに背を向けると、再び『闇』を展開し、一切の言葉を残さずに一瞬で姿を消した。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ」
数分後。
路地裏の公衆トイレから、三神零がフラフラとした足取りで出てきた。
顔は(演技で)青白く、額には(急いで変身と戦闘をこなしたための)汗が滲んでいる。
「おや、生きていましたか、三神さん」
トイレの入り口で腕を組んでいた由鶴が、少しだけ面白そうな顔で迎えた。
「す、すいません……全部、出しました……。魔力耐性の暴走、治まったみたいです……」
「だからそんな医学用語はありません。単なる急性の胃腸炎か、過敏性腸症候群でしょう。……まあ、安心してください。あなたがトイレに引きこもっている間に、事態は解決しました」
「えっ? 魔獣、倒したんですか?」
「ええ。ちょうど先ほど、あの『ゴースト』が現れて、魔獣を一撃で粉砕して去っていきました。彼女の気まぐれに、またしても助けられた形ですね」
由鶴は忌々しげに眼鏡を押し上げながら、零をジッと見つめた。
ドローンによる完璧な監視。三神零は魔獣が出現してから討伐されるまでの間、ずっとこのトイレの個室にいた。
つまり、ゴーストの正体や協力者であるという疑い(もしあったとしても)は、この鉄壁のアリバイによって完全に払拭されたのである。
(よし! アリバイ成立! これで情報班の監視リストから外れるはずだ!)
零が内心でガッツポーズを決めた、その時。
「ですが、あなたのその『魔法に対する異常な耐性と、それに伴うプラシーボ効果的な腹痛』……やはり興味深い。今度、我々の研究室でぜひ精密検査を……」
「や、遠慮しておきます! 俺、生姜焼き作らなきゃいけないんで! 失礼しますッ!」
零は地面に落ちていたエコバッグを拾い上げると、由鶴の静止を振り切って、今度こそ本気で逃げるように自宅へと走り去っていった。
ゴーストバレは完璧に防いだ。
しかし、「特異体質として情報班に目をつけられる」という新たなフラグを強固に打ち立ててしまったことに、不器用な最強の亡霊はまだ気づいていなかった。




