第五十一話
三神家の朝の食卓には、いつになく緊張感と高揚感が漂っていた。
「いよいよ今日から、実践形式の魔獣討伐実習ね。玲奈、準備はいい?」
「うんっ! お姉ちゃんとの連携パターン、昨日までみっちり復習したからバッチリだよ!」
次世代魔法少女の育成校に通う姉の澪と、妹の玲奈が、トーストをかじりながら意気込んでいる。
一時的な休校期間が明け、本日からカリキュラムの一環として、協会が管理する演習場での低ランク魔獣討伐が行われるのだ。
「……二人とも、あんまり無理するなよ。危なくなったらすぐ教官の後ろに隠れろよ? 命あっての物種なんだからな」
向かいの席でコーヒーを飲んでいた零が、心配そうに声をかけた。
しかし、姉妹は「何を言っているんだ」とばかりに呆れた視線を兄に向けた。
「あのねぇ、お兄ちゃん。私たちは協会が管理してる安全な演習場で、Cランク以下の魔獣を相手にするのよ? そんなの、基本中の基本じゃない」
「そうだよ! 私たち、トップエースの羽衣大佐たちみたいになるんだから、これくらいでビビってられないもん!」
頼もしく笑う姉妹を見送りながら、零は「そうか、頑張れよ」と手を振った。
玄関のドアが閉まる音を確認した瞬間——零の表情が、般若のような険しいものへと豹変した。
(無理無理無理無理!! 絶対無理だろ!!)
零は頭を抱えてリビングをウロウロし始めた。
(いくら協会が管理してるからって、相手は魔獣だぞ!? もし予想外の変異種が出たら? もし演習場の結界が破れてAランクが乱入してきたら!? あいつら、まだ十代の学生なんだぞ!?)
零の脳内では、すでに最悪のシミュレーションが百パターン以上も構築されていた。
彼は深く息を吸い込み、自室へと駆け込んだ。
(……見に行く。絶対にバレないように、こっそりと)
零がペンダントを握りしめると、光が溢れ、その身体は瞬く間に白と黒の魔装を纏った『ゴースト』へと再構築された。
ゴーストは両手を胸の前で合わせ、目を閉じた。
「……魔力、極限隠蔽」
鈴を転がすような美しい声で呟く。
普段は体内に封じ込めている特S級の莫大な魔力を、さらに極限まで圧縮し、己の気配を『周囲の環境音や空気』と同化させる。
さらに『闇』の魔力を薄く纏うことで、光の屈折を利用した完璧な光学迷彩——由鶴の認識阻害フィールドを遥かに凌駕する『不可視状態』を作り上げた。
ゴーストは自室の窓を開け、闇に溶け込むようにして空へと舞い上がった。
関東郊外、魔法少女協会・第三演習林。
人工的に隔離された森の中で、澪と玲奈を含む訓練生たちが、教官の指示のもとで散開していた。
「——右から来るわ! 玲奈、風の障壁を!」
「了解!」
鬱蒼とした木々の間から飛び出してきたのは、猪型のCランク魔獣『ワイルド・ボア』だった。
玲奈が風の魔法で突進の軌道を逸らし、そこへ澪が炎の剣を振り下ろす。姉妹の連携は見事で、訓練生の中でも群を抜いた動きを見せていた。
……その頭上、高さ二十メートルほどの太い木の枝の上で。
誰の目にも見えず、魔力探知にも一切引っかからない『完全なる隠密状態』のゴーストが、木にへばりつくようにして姉妹の戦いを見下ろしていた。
(よしよし、いい動きだ! 姉ちゃんの炎も鋭くなってるし、玲奈の風もタイミング完璧……って、あっ!!)
魔獣が倒れ際に、最後の足掻きとして鋭い牙を振り回した。
その軌道が、澪の足元を掠めそうになる。
(危ないッ!!)
ゴーストは反射的に指先を弾いた。
目に見えないほど極小の『氷』の粒が、音速を超えて魔獣の足元に命中。地面をほんの数センチだけ凍結させる。
直後、魔獣はツルッと見事に足を滑らせ、明後日の方向へと倒れ込んだ。
「えっ? なんか勝手に転んだわね」
「チャンスだよお姉ちゃん!」
「ええ! ふっ!」
澪の炎が魔獣にトドメを刺し、光の粒子となって消滅する。
(……ふぅぅぅっ。心臓に悪い……)
木の上で、ゴーストは胸を撫で下ろして安堵の息を漏らしていた。
魔力を極限まで絞り込みながら、姉妹の戦いを妨害しないレベルの超極小魔法で『こっそりサポートする』というのは、針の穴に糸を通すような精密な魔力操作を要求される。
Aランク魔獣を特大の魔法で消し飛ばすことの百倍、神経をすり減らす作業だった。
その後も、ゴーストの過保護なストーキングは続いた。
玲奈の背後に魔獣が回り込もうとすれば、木の上から微弱な『闇』の結界を張って魔獣の足並みを遅らせる。
澪の炎の魔法が少し逸れそうになれば、極小の『風(魔法ではなく、単なる物理的な気流操作)』を起こして軌道を修正してやる。
教官はおろか、戦っている澪と玲奈本人たちすら、「今日はなんか調子がいいわね!」「うん、風向きが味方してくれてるみたい!」と無邪気に喜んでおり、自分たちが『世界最強の特S級魔法少女』に手取り足取り介護されていることなど、微塵も気づいていなかった。
夕方。
無事に討伐実習を終え、教官から高評価をもらった澪と玲奈が、意気揚々と三神家に帰宅した。
「ただいまー! お兄ちゃん、私たち無傷でパーフェクトだったよ!」
「ふふん、教官にも褒められちゃった。私たち、意外と才能あるかもしれないわね」
リビングのドアを元気よく開けた姉妹だったが。
そこには、ソファーにうつ伏せになり、魂が抜けたように真っ白に燃え尽きている兄の姿があった。
「…………おかえり……よかったな……」
零はピクリとも動かず、かすれた声で呟いた。
その顔には濃い隈ができ、まるでフルマラソンを三回連続で走った直後のような、尋常ではない疲労感が漂っている。
「え、ちょっ、お兄ちゃん!? なんでそんなにボロボロなの!?」
「今日はずっと家で留守番してたんでしょ!? 熱でもあるの!?」
慌てて駆け寄る姉妹に、零は「大丈夫だ……ちょっと……神経衰弱を……極めただけだ……」と謎の言い訳を漏らした。
全魔力を極限まで圧縮した隠密状態を半日以上維持し、ミリ単位の魔力操作で魔獣の邪魔をし続ける。
それは、ロシアの精鋭部隊を壊滅させることや、アメリカの凄腕エージェントの勧誘を撥ね除けることよりも、三神零の精神力と体力を容赦なく削り取ったのである。
(……もう二度と、あんな真似はしない……。でも、二人が無事で本当に良かった……)
最強の亡霊である兄は、姉妹に背中をさすられながら、深い深い眠りの底へと落ちていくのであった。




