第五十話
深夜の関東郊外、深い山林。
木々が不自然になぎ倒された獣道の奥で、三頭のAランク魔獣『ブラッド・ハウンド』が、血走った眼で獲物を睨みつけていた。
強靭な四肢と、鋼鉄すら噛み砕く顎を持つ凶悪な魔獣たち。しかし、彼らは今、本能的な『恐怖』に震えながら後ずさっていた。
「……グルルッ……」
その視線の先。
月明かりに照らされた倒木の上に、漆黒の魔装に身を包んだ少女——未登録魔法少女ゴーストが、静かに佇んでいた。
「……三頭同時か。夜更かしも大概にしたいんだけど」
鈴を転がすような、冷徹な美声が夜の森に響く。
三神零は小さくため息をつくと、右手で『炎』を、左手で『氷』の魔力を同時に練り上げた。
極大の熱と絶対零度の冷気が、彼女の周囲で螺旋を描きながら融合していく。相反する属性を同時に制御するなど、現代の魔法少女の常識ではあり得ない神業である。
「手早く済ませるわよ」
ゴーストが両手を交差させるように振り抜いた瞬間。
熱膨張と急速冷却による凄まじい『魔力爆発(水蒸気爆発の魔法的発展型)』が巻き起こり、三頭のAランク魔獣は悲鳴を上げる間もなく、一瞬にして細胞レベルまで消し飛ばされた。
あとに残されたのは、綺麗に整地されたクレーター状の地面だけである。
「ふぅ……。これで今夜のノルマは達成、っと」
ゴーストが大剣を呼び出すまでもなく戦闘を終わらせ、帰還のために『闇』を展開しようとした、その時だった。
「——素晴らしい。噂に違わぬ、いや、それ以上の圧倒的な力ですね。特S級魔法少女、ゴースト」
突如、暗闇の森の中からパチパチという拍手と共に、流暢な日本語が響いた。
空間の歪み(光学迷彩)が解け、一人の女性が姿を現す。
プラチナブロンドの髪をタイトにまとめ、機能的な黒のスーツ型魔装を着こなした、怜悧な顔立ちの白人女性。
彼女の胸元には、アメリカ魔法少女協会——そして、CIA特殊魔法戦術部隊のエンブレムが光っていた。
「……アメリカ支部の犬が、こんな極東の山奥で私に何の用かしら?」
ゴーストは表情一つ変えず、紫の瞳で冷ややかに相手を見据えた。
内心では、(うわぁ……ロシアの次はアメリカかよ。大国のエージェントってどんだけ暇なんだ)と、男子高校生としての特大の舌打ちを響かせている。
「お初にお目に掛かります。私はアメリカ合衆国・魔法少女協会CIA特殊部隊所属、ジェシカ・ハワード大佐。……本日は、あなたに『交渉』をしに参りました」
ジェシカは恭しく一礼すると、ビジネスライクな笑みを浮かべた。
ロシアの特務部隊が力押しで挑み、わずか一分で全滅させられた報告を、アメリカは熟知している。だからこそ、彼女は武器を一切抜かず、両手を広げて敵意がないことを示していた。
「交渉?」
「ええ。単刀直入に申し上げましょう、ゴースト。——我々アメリカ支部は、あなたを『最高ランクの待遇』でお迎えしたい」
ジェシカの言葉に、ゴーストは無言で先を促した。
「あなたがアメリカ合衆国への亡命、および我が支部への所属に同意してくださるなら、以下の条件をお約束します。第一に、アメリカにおける『特級大将』の地位と、不可侵の永住権。第二に、年俸にして日本円で約百億円の特別報酬。第三に、最高クラスの専用拠点と、あなた専属のバックアップ部隊の無償提供です」
それは、まさに超大国だからこそ提示できる、破格中の破格の条件だった。
一国の軍隊を凌駕する力を持つゴーストを飼い慣らすためなら、アメリカはいくらでも金を積む用意がある。
「さらに」
ジェシカは、自信ありげに微笑みを深めた。
「あなたには、ご家族や大切な方がいらっしゃるのではありませんか? 我々は、あなたの家族全員のアメリカへの移住をサポートし、生涯にわたる絶対的な安全を保証します。もしご家族の中に魔法少女の適性を持つ者がいれば、世界最高の環境でエリート教育を施すこともお約束しましょう」
——ピキッ。
その言葉を聞いた瞬間、ゴーストの心の奥底で、冷たい怒りのようなものが一瞬だけ跳ねた。
(……家族、だと?)
零の脳裏に、スパルタだが家族思いの姉(澪)と妹(玲奈)の顔が浮かぶ。
アメリカは、ゴーストの正体が「三神零」であると突き止めたわけではない。これは単なる交渉術の常套句であり、「誰にでも大切な人はいるだろう」という前提で投げた餌に過ぎない。
だが、その『餌』は、零の逆鱗を撫でるには十分だった。
(百億円? 大将の地位? ふざけるな。そんなものをもらってアメリカの軍門に下れば、一生『国家の兵器』としてこき使われるだけだ。……姉ちゃんや玲奈を、そんな薄汚い政治の道具に巻き込んでたまるかよ)
零が求めているのは、あくまで『平穏な一般人としての日常』なのだ。
「……話はそれだけ?」
ゴーストは、氷のように冷たい声でジェシカの言葉を遮った。
「え……?」
「下らないわね。百億の紙切れで、私を買えると思ったの?」
ゴーストの足元から、禍々しい『闇』のオーラが静かに溢れ出し、周囲の木々を黒く染め上げていく。
その神域のプレッシャーを直接浴びたジェシカは、強がりな笑みを浮かべたまま、顔面から血の気を引かせていた。
「っ……ゴースト、これはあなたにとっても悪い話では……!」
「私はどこにも属さないし、誰にも飼われない。金や権力に興味はないわ」
ゴーストは、紫の瞳を鋭く細めた。
「特に……私の大切な存在に、土足で踏み込もうとする連中には、一切の容赦をしない。……ロシアの連中と同じ目に遭いたくなければ、二度と私の前に姿を現さないことね」
——ズオォォォォッ!!
解放された特S級の魔力が、暴風となって森を吹き荒れる。
ジェシカは強風に吹き飛ばされそうになりながら、腕で顔を庇い、ギリッと奥歯を噛み締めた。
交渉の余地は、ミリ単位すら存在しない。彼女は、最強の亡霊が放つ『拒絶』の意思の固さを、身をもって理解した。
「……分かりました。本日のところは、これで引き下がらせていただきます」
ジェシカは青ざめた顔のまま一礼すると、ホログラム迷彩を展開し、闇夜の中へと逃げるように消え去っていった。
アメリカの徹底した合理主義が、ロシアのような『全滅』という最悪の結末を回避させたのだ。
「……行ったか」
プレッシャーを収め、静寂を取り戻した森の中で、ゴーストは小さく息を吐いた。
(マジで心臓に悪い。アメリカのエージェントなんて、映画の中だけの存在だと思ってたのに……)
百億円という莫大な金額には一般人として少しだけ心が揺れそうになったが、家族をダシにされたことで完全に頭が冷えた零。
ロシアの武力介入、アメリカの外交交渉。
世界を牛耳る二大巨頭を立て続けに袖にしたことで、ゴースト(三神零)の置かれている状況は、かつてないほど国際的な政治の渦の中心へと引きずり込まれようとしていた。
「はぁ……明日は姉ちゃんの特訓、少し手加減してくれないかな……」
特S級の亡霊は、世界を揺るがす交渉を一蹴した直後だというのに、あくまで『男子高校生の明日への憂鬱』を口にしながら、闇の中へと姿を消すのであった。




