第四十二話
関東近郊、放棄された工業地帯。
本来ならば誰も近づかないはずのその廃墟に、突如として禍々しい魔力の気配が充満していた。
「——グルルルァァァッ!!」
ビルほどの巨体を誇る、Aランク上位の魔獣『フロスト・ギガント』が、狂喜に満ちた咆哮を上げる。
その全身から放たれる絶対零度の冷気が周囲の鉄骨を凍てつかせる中、一人の少女が軽やかな身のこなしで宙を舞っていた。
紫がかった漆黒のロングヘアを揺らし、白と黒の魔装に身を包んだ『ゴースト』。
その正体である三神零は、文化祭の筋肉痛と疲労がようやく抜けたこの日の夜、一般市民の領域へ侵入しようとしていたこの巨大な魔獣を単独で追いつめ、討伐の真っ最中だった。
「……本当に出が悪いわね。さっさと終わらせるわよ」
零が口を開く。その声は、変身と同時に自動的に声帯が女性のものへと組み替えられた、鈴を転がすような、しかし底冷えするゴーストの美しい声音だった。男性である時の地声とは似ても似つかないが、零自身は特に意識することなく自然に話している。
零は背に負った漆黒の大剣に『炎』の魔力を纏わせた。特S級の圧倒的な熱量が周囲の冷気を一瞬で蒸発させ、紅蓮の斬撃がフロスト・ギガントの巨大な腕を容易く両断する。
「ガァッ……!?」
勝負は決した。魔獣は致命傷を受け、崩れ落ちるように地面へとひれ伏した。
零がトドメを刺そうと、大剣を振り上げた、その瞬間だった。
——ビュォォォッ!!
「……っ!?」
突如として、背後の暗闇から空気中の水分が瞬時に凍りつくほどの凄まじい冷気が襲い掛かった。零は瞬時に身を翻し、大剣を盾にしてその攻撃を受け止める。
——ガンッ!!
甲高い金属音と共に、激しい衝撃が零の腕を伝う。彼女の足元から周囲の地面にかけて、一瞬で分厚い氷の床が形成され、ガチガチと凍てついていった。魔獣が放つ自然な冷気ではない。明確な殺意と、高度な技巧に裏打ちされた『魔法少女の攻撃』だ。
「……ほう。今の攻撃を、ノーモーションで防ぐか。さすがは『世界を揺るがす亡霊』ね」
冷徹で、美しい、しかし一切の温かみを持たない声。
暗い廃墟の屋根の上から、ふわりと一人の人影が舞い降りた。
プラチナブロンドの長髪。黒のトレンチコート。ロシア支部特務エージェント——アナスタシア・ハリコフ。
朝、河川敷で接触してきたロシアのスパイが、なぜ今、深夜の戦場でゴーストを襲撃しているのか。
(……なるほど。俺が一般人の時に話した目撃情報を元に、独自にゴーストの出没予測を立てて張り込んでいたってわけか!)
零は内心で毒づきながら、大剣を構え直した。
「あなた……は」
無意識に発した声は、やはり完璧なゴーストの女声だった。
「ロシア支部の方ね。……私に何の用かしら?」
アナスタシアはスッと細い指を突き出し、零に向けて氷の銃身を顕現させた。
「回りくどい話は抜きにしましょう、ゴースト。……あなたを、ロシア支部へ同行してもらうわ」
アナスタシアのアイスブルーの瞳が、狂気と冷酷な野心に染まっていた。
「アメリカ支部も、そして我がロシア支部も、あなたの『トリプルスペル』の秘密と、その圧倒的な軍事利用価値に目を付けている。……大人しく捕らわれなさい。さもなくば、その美しい身体を微塵に凍てつかせて連行することになるけれど?」
宣戦布告。その言葉を聞いた瞬間、零の心の中で、プツリと何かが切れる音がした。
文化祭での騒動、姉妹のスパルタ特訓、そして深夜の魔獣討伐。蓄積していたストレスと疲労が、この海外スパイの理不尽な拉致宣告によって限界を突破したのだ。
「私の身体を、凍てつかせる、ね」
零が静かに呟く。その自動的に変換された美しい声音には、隠しきれない『怒り』が滲み、周囲の空間をびりびりと震わせた。
——ズオッ!!!
零の纏う魔力が、一瞬にして跳ね上がった。隠蔽していた『闇』と『炎』の魔力が暴風となって吹き荒れ、アナスタシアが展開していた氷の領域を瞬時に霧散させる。
「なっ……!?」
アナスタシアの表情が凍りついた。ゴーストから放たれたプレッシャーは、彼女が想像していた「特S級の強さ」などというレベルを遥かに超えていた。一国の軍隊すら数秒で消し炭に変えられるほどの、神域の暴力。
「……私の平穏な日常を、これ以上邪魔する奴は……」
零の紫の瞳が、殺意の光を宿してアナスタシアを射抜いた。
「国籍がどこであろうと、容赦なく叩き潰すわ」
怒髪天を衝く特S級の威圧感の前に、ロシアの精鋭エージェントが、冷や汗を拭うことすら忘れて立ちすくむ。静かな夜の廃墟で、世界を揺るがす者同士の衝突が、今まさに始まろうとしていた。




