第四十一話
早朝の地獄のランニング(およびロシアの特務エージェントからの接触)を終え。
三神家の三人は、朝日が完全に昇り切った住宅街を、並んで歩いていた。
「はぁーっ、いい汗かいた! やっぱ朝のランニングは最高ね!」
「お兄ちゃん、最後の方全然走れてなかったよ。訓練校の基礎メニューの半分しかやってないのに」
涼しい顔でタオルで汗を拭う澪と、ペットボトルの水を飲みながら呆れる玲奈。
その数歩後ろで、零はゾンビのように足を引きずりながら、掠れきった声で反論を試みた。
「……だから、俺は昨日まで、極限の文化祭労働をしてたんだって……。足の筋肉が、もう限界なんだよ……」
「言い訳しないの。あんたねぇ、もし有事の際に魔獣から逃げ遅れたらどうするの? 私たちは今度こそ魔法少女になるんだから、家族であるあんたもしっかり自衛できるようにしておかないとダメなのよ」
「そうだよ。お兄ちゃんみたいなヒョロヒョロの男子、すぐキメラの餌になっちゃうんだから」
正義感と使命感に燃える姉と妹。
しかし、その「キメラ」を昨日、裏山で氷漬けにして焼き尽くしたのは、他ならぬこのヒョロヒョロの男子(特S級)である。
その事実を喉の奥まで出かかったものの、零はグッと飲み込み、ただ深い溜め息を吐くことしかできなかった。
(……この二人が本物の魔法少女になって戦場に出たら、絶対に俺と鉢合わせる日が来るよな。……どうやって正体を誤魔化そう……)
そんな将来の胃痛の種に思いを馳せていた、その時だった。
「——あれ? 零さん?」
前方から、鈴を転がすような、どこか聞き覚えのある美しい声が響いた。
三人が顔を上げると、住宅街の角から、買い物袋を提げた一人の少女が歩いてくるところだった。
透き通るような銀髪を、朝の陽光に煌めかせ。
清楚な白いブラウスに、薄手のカーディガンを羽織った、どこか儚げで神々しいまでの美貌。
日本支部トップエース、『氷の女王』こと羽衣緋雪大佐、その人であった。
「あっ。羽衣さん」
「おはようございます、零さん。朝早くからジョギングですか? 健康的で素敵ですね」
緋雪は、零の姿を認めるなり、パァッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
文化祭でのエスコート(お化け屋敷での密着)を経て、彼女の零に対する警戒心はゼロどころか、完全に『好意』へと振り切っている。
「おはようございます。……健康っていうか、ただのしごきというか……。羽衣さんはお買い物ですか?」
「はい。カン詰……いえ、特売の卵を買いに、近くのスーパーまで。……ふふっ、なんだか、零さんと朝からお会いできるなんて、嬉しい偶然ですね」
緋雪はほんのりと頬を染め、上目遣いで零を見つめてくる。
その、あまりにも親しげで、恋する乙女のような距離感。
——しかし、その光景を横で見ている『二人』の反応は、全く異なるものだった。
「「…………ッ!!?」」
姉の澪と、妹の玲奈。
訓練校で日々「日本支部の偉大なるトップエースたちの武勲」を叩き込まれ、彼女たちを目標に血の滲むような努力をしている魔法少女の卵たち。
彼女たち訓練生にとって、目の前にいる『羽衣緋雪大佐』は、ただの綺麗な17歳の女の子ではない。
それは雲の上の存在であり、生ける伝説であり、そして——『絶対的な上官』である。
「は、はは、羽衣ッ……!?」
「ひ、ひゆ、緋雪大佐ァァァッ!?」
バチィィィッ!!
澪と玲奈は、まるで落雷にでも打たれたかのように、軍隊式の見事な直立不動の姿勢をとり、カチコチに固まった。
背筋はピンと伸び、両手は太ももの横にピタリとつけられ、息すら止めている。
「えっ……? あ、あの、零さん……こちらの二人は?」
急に石像のように固まった二人の少女を見て、緋雪が目を瞬かせた。
「ああ、すいません。こいつら、俺の姉と妹です。……おい、挨拶くらいしろよ」
「「…………ッ!!!」」
零が軽く突っつくと、二人はガクガクと震えながら、ロボットのようにカクカクとした動きで頭を下げた。
「ほ、本物……! 初めまして、大佐殿ッ! わ、私は、三神澪と申します! 現在は訓練校にて基礎カリキュラムを受講中でありますッ!」
「み、三神玲奈ですッ! 大佐の、あの、新宿での魔獣討伐の動画、毎日百回見てますッ! 尊敬してますッ!」
顔を真っ赤にして、ガチガチに緊張しながら自己紹介する姉妹。
「まあ、そうだったんですね。零さんのお姉さんと妹さん……。初めまして、羽衣緋雪です。訓練、頑張ってくださいね」
緋雪が優しく微笑みかけると、澪と玲奈は「は、はいぃぃっ!」と涙目になりながら直立不動を維持した。
しかし、彼女たちの心の中は、パニックと混乱のるつぼと化していた。
((な、なんで……なんでうちの凡人のお兄ちゃん(零)が、トップエースの羽衣大佐と、あんなに親しげに話してるの!?))
姉妹の視線が、零と緋雪の間を猛スピードで往復する。
緋雪は完全に『プライベートの女の子』の顔で零を見つめており、零も「羽衣さん」と呼びながら、緊張する様子もなく普通に世間話をしている。
訓練校の教官たちですら恐れ多いと敬語を使う大佐殿に、ただの高校生である兄が、まるでクラスメイトのように接しているのだ。
「あの、零さん。今度の週末、もしお時間が合えば……その、この間交換したSメッセージで、お話ししてもいいですか?」
「あ、はい。俺でよければいつでも。……最近、変なメッセージ(ロシアのスパイ)とかも来るんで、羽衣さんからの連絡ならホッとしますし」
「ふふっ、嬉しいです。……あ、お姉さんたちをお引き留めしてしまってごめんなさい。それじゃあ、また」
緋雪は最後に零に満面の笑みを向けると、「失礼します」と澪たちに軽く会釈をして、軽やかな足取りで去っていった。
……静寂。
緋雪の姿が見えなくなってから数秒後。
「「…………ぜぇぇぇいぃぃぃっ!!!」」
澪と玲奈が、バァンッ! と零の胸ぐらと肩を同時に掴み、猛烈な勢いで詰め寄ってきた。
「ちょっと零! あんた、今のどういうこと!? なんで羽衣大佐とあんなに仲良さそうに喋ってんのよ! ていうか『羽衣さん』って何!? Sメッセージ交換したって何!?」
「お兄ちゃん、いつの間にトップエースと繋がり持ったの!? ずるい! 私だって握手会一回しか行ったことないのに!」
左右から鼓膜を破らんばかりの勢いで問い詰められ、零は顔を引きつらせた。
「い、いや、ちょっと文化祭で偶然知り合って……向こうが俺のクラスのカフェに来てくれて……」
真実を話すわけにはいかない。
『文化祭で、俺がゴーストのコスプレして客引きしてたら、大佐たちが俺を気に入ってくれて連絡先交換した』などと口が裂けても言えるはずがなかった。
「偶然で連絡先なんか交換するわけないでしょ! あの『氷の女王』が、あんたみたいなヒョロヒョロの高校生にニコニコ笑いかけるなんて……! もしかしてあんた、大佐の弱みでも握って脅してるんじゃないでしょうね!?」
「お兄ちゃん、もし大佐に変なことしたら、私がお兄ちゃんを風の刃で切り刻むからね!」
「俺をどんな極悪人だと思ってんだお前ら! 脅してないし、変なこともしてない!」
零は慌てて姉妹の手を振り解き、後ずさった。
「とにかく、俺は大佐のプライベートの友達ってだけだ! 訓練校の教官とかには絶対言うなよ、大佐に迷惑がかかるからな!」
必死に誤魔化そうとする零だったが、澪と玲奈は、目を細めてじっと彼を見つめた。
「……ふーん。まあ、大佐殿がプライベートを大事にしたいなら、私たちは口出しできないけど」
澪が腕を組み、探るような視線を向ける。
「でも、あんた、何か隠してるわよね。文化祭の筋肉痛って言ってたけど、それにしては動きに無駄がないというか……。さっきも、私たちが大佐の気配に気付くより一瞬早く、あんたが大佐の方を向いたし」
「ギクッ……!」
零の背筋に冷たい汗が流れる。
訓練校で鍛えられ始めた姉妹の感覚は、確実に鋭くなっていた。
「ま、いいわ。あんたの秘密なんてそのうち暴いてあげるから。……ほら、特訓再開よ! 大佐の友達なら、それなりの体力つけてもらわないと困るからね!」
「お兄ちゃん、次はスクワット百回ね!」
再び地獄の特訓へと引きずり込まれる零であった。




