第三十九話
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
魔法少女協会・アメリカ支部の中枢に位置する地下の最高機密会議室では、重苦しい沈黙が支配していた。
薄暗い空間の中心、ホログラムテーブルの前に立つアメリカ支部総司令官、キャロライン・ミラー大将。
そして、通信回線越しに立体投影されているロシア支部総司令官、ナターシャ・イヴァノワ大将。
世界を牛耳る二大国のトップは、テーブルに投影された「日本のとある高校の文化祭」の映像を睨みつけたまま、微動だにしていなかった。
「……信じられないわ。我々アメリカのCIAと、ロシアのSVR(対外情報庁)が裏で糸を引く諜報網を駆使して、未だにたった一人の未登録魔法少女の『居場所』すら掴めないなんて」
キャロラインが、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
日本の『秋桜祭』での一連の騒動。
文化祭初日、体育館のステージに突如としてゴーストが降臨したという情報が入った瞬間、米露の両陣営は即座に動いた。
二日目、彼らは日本のメディアやゴーストマニアの群衆の中に、最高レベルの訓練を受けたスパイたちを大量に紛れ込ませたのだ。ゴーストが再び姿を現せば、最新の魔力追跡デバイスで彼女のアジトを特定し、拉致、あるいは交渉に持ち込む算段だった。
『ですが、結果はご存知の通りです、キャロライン大将。……二日目、彼女は一切姿を現さなかった』
ナターシャが、氷のように冷たい声で事の顛末をなぞる。
「ええ。我々のエージェントたちは丸一日、無意味にパンケーキの行列に並ばされ、学生のお遊戯を監視するだけで終わった。……そして、問題は三日目(最終日)よ」
キャロラインが指を鳴らすと、ホログラムの映像が切り替わった。
映し出されたのは、文化祭の最終日。裏社会のシンジケートが放った『キメラ魔法少女』が中庭を襲撃した直後の映像だ。
「二日目の空振りを重く見た現地エージェントたちは、三日目の昼過ぎには『これ以上の潜伏は無意味』と判断し、撤収を開始した。……その『直後』よ。まるで我々の監視の目が無くなるのを待っていたかのように、ゴーストは再び中庭に降臨したのよ」
映像の中で、ゴースト(零)がキメラ魔法少女を一瞬で氷漬けにし、闇の瞬間移動で連れ去る姿が再生される。
その後、裏山に残されていたのは、魔獣因子だけを綺麗に叩きのめされたキメラ魔法少女だけだった。
『……我々のスパイが完全撤収した、わずか数十分後の出来事。偶然と呼ぶには、あまりにも出来すぎたタイミングです』
ナターシャの銀色の瞳に、明らかな『戦慄』の色が浮かんだ。
『彼女は、我々の諜報員の配置から、撤収のタイミングまで……全てを完璧に把握していたとしか思えません』
「……同感ね。さらに言えば、裏社会のシンジケートが放ったあの刺客すら、ゴーストにとっては『我々を出し抜くための舞台装置』に過ぎなかったのかもしれない」
キャロラインは深くため息を吐き、額を押さえた。
——実際は、ただ単に零が文化祭のシフト(客引き)をこなしており、突発的に現れたキメラ魔法少女に対応するため、やむを得ず本物に変身して裏山で処理しただけである。
しかし、国家の命運を懸けて動いている大国のトップたちからすれば、その偶然の重なりは「神がかった情報戦の完全勝利」にしか見えなかった。
「まるでお釈迦様の手のひらの上で踊らされる孫悟空ね。我々は完全に、あの亡霊に手玉に取られているわ」
『ええ。彼女はただ戦闘力が特S級というだけではない。国家規模の諜報機関すら手玉に取る、底知れぬ情報網と頭脳、そして絶対的な隠密性を持っている。……恐るべき存在です』
米露のトップが、極東の島国にいる一人の男子高校生(現在、筋肉痛と喉の痛みで泥のように爆睡中)に対して、究極の過大評価を下し、勝手に恐怖を募らせていた。
「このまま小手先の諜報員を送り込んでも、彼女の影すら踏めないでしょう。……ナターシャ大将。我々も、フェーズを移行するべき時ね」
『異存はありません。ゴーストの戦力は、すでに一国の軍隊を凌駕しつつある。……我々ロシア支部が誇る、最高戦力を日本へ向かわせましょう』
ナターシャの背後に、二つのシルエットが浮かび上がった。
極寒の凍土で鍛え上げられた、ロシア支部の特務エージェント(エース)。
「アメリカからも、CIAの特殊魔法戦術部隊から選りすぐりのエージェントを派遣します。……彼女たちの任務は、ゴーストの身辺調査、および日本支部エース部隊への『接触』です」
『ええ。日本支部は、あの文化祭で羽衣大佐や只野大尉をゴーストと接触させていた。彼女たちなら、何らかの手がかりを持っているはず』
まさか、その日本支部エース部隊がゴーストの正体を「ちょっと顔が良くて親切な一般人の男子高校生」と勘違いし、絶賛恋心を拗らせている最中だなどとは、米露の諜報網をもってしても予測不可能な事態であった。
「日本の平穏な日々も、ここまでね。……世界の覇権を懸けた狩りを始めましょう」
キャロラインの冷酷な宣言と共に、ホログラムの映像がプツリと途切れた。
——大国が誇る『本物の特務魔法少女』たち。
彼女たちが、極秘裏に日本への入国を果たし、三神零の暮らす街へと影を落とし始めるのは、もう間もなくのことであった。
そして、翌日。
日本の関東郊外。
三神家の二階、零の自室。
「うぅ……ん……。あ、イタタタタ……ッ」
ベッドの上で目を覚ました三神零は、身をよじった瞬間に全身を襲った凄まじい筋肉痛に、悲鳴のようなうめき声を上げた。
文化祭最終日での、六時間連続の変身状態維持、極限の魔力隠蔽、そして男声と女声の超絶技巧切り替え。
その反動は、一晩の睡眠程度で回復するような甘いものではなかった。
腕は上がらず、足は棒のように重く、そして何より、声帯を酷使したせいで喉が燃えるように痛い。
「……あー、あー。……声、ガラガラじゃん……」
掠れた、ひどい声しか出ない。
今日は文化祭の振替休日だったのが、不幸中の幸いだった。もし学校があれば、間違いなく休んでいただろう。
「お兄ちゃーん! 起きてるー?」
その時、一階から妹の玲奈の声が響いた。
(……え? 玲奈? 訓練校の寮に入ったはずじゃ……)
ギシギシと軋む体に鞭打ってベッドから這い出し、階段を下りてリビングに向かうと、そこにはスーツケースを持った姉の澪と、妹の玲奈の姿があった。
「お、お前ら……なんで帰ってきてるんだよ」
「あ、起きた。お兄ちゃん、声ひどいわね。風邪?」
澪が呆れたような顔で零を見る。
「実はね、訓練校の施設でちょっとしたトラブルがあって、今週いっぱい臨時休校になっちゃったの。だから、一時帰宅許可が出たんだー!」
「トラブル……?」
零が眉をひそめると、玲奈が「うん」と頷いた。
「なんかね、海外の偉い魔法少女の人たちが視察に来るらしくて、その受け入れ準備でバタバタしてるんだって」
「海外の……魔法少女……?」
その言葉に、零の背筋にゾクリと悪寒が走った。
タイミングが悪すぎる。自分が文化祭で目立った直後に、海外の魔法少女が日本へやってくる?
偶然だろうか。いや、特S級の直感が、それが自分に関連する動きであると告げていた。
「あーあ、せっかく訓練のリズム掴めてきたところだったのに。お兄ちゃん、また明日から一緒に朝のランニング付き合ってよね!」
「そうよ零。あんた、文化祭でちょっと動いたくらいで全身筋肉痛になってる場合じゃないわよ。鍛え直しね」
ニヤリと笑う姉と妹。
スパルタ特訓の再開宣言に、零は顔面を蒼白にさせた。
(……待ってくれ。俺は昨日、六時間も魔力を隠蔽しながら客引きをして、キメラ魔法少女まで倒したんだぞ……! なんで振替休日に、身内にしごかれなきゃならないんだ……ッ!)
しかし、ゴーストであることを隠している以上、そんな言い訳が通用するはずもない。
「……俺を、虚無へ誘ってくれ」
掠れた声で痛ポエムを呟きながら、零はリビングの絨毯の上に崩れ落ちた。




