↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未登録の魔法少女  作者: 浅川


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
367/368

第三百六十七話

 夜明け前の群青色の空の下を、古い外套のフードを深く被った黒い髪の少女が、北へ向かって歩いていた。工場を出てから、まだ半刻も経っていなかった。北の丘陵の麓の、響かない家までは、このまま歩けば、夜が明け切る前に辿り着けるはずだった。


 だが、咲耶の足は、丘陵へ続く坂道の手前で、止まっていた。


 階段の上で、泣きながらしがみついてきた紫の髪の少女の腕の重さが、まだ外套の上に残っていた。ナンバー7は生きてる、必ず会わせる、と言った。それなのに、自分だけが響かない家へ帰ってしまえば、無響は、残った五人を、一人ずつ写しの元に当てるだろう。


 届くまで、何度でも。そう告げた声に、冗談の温度は少しもなかった。

 咲耶は、坂道の手前で、長い間、立ち尽くしていた。帰ってきなさい、と言ってくれた人たちの家は、すぐそこにあった。それでも、今帰れば、あの紫の髪の少女を、地下に一人で置き去りにすることになる。


(……まだ、帰れない)


 咲耶は、坂道に背を向けた。帰るのは、残った五人を、あの地下から連れ出してからだった。そのためには、まず、地下へ戻らなければならなかった。オリジナルを連れてこられなかった理由を、無響が呑み込めるだけの、確かな理由を持って。


 咲耶は、外套の下で、拳を握りしめた。連れてこようとして、連れてこられなかった。それには、オリジナルの傍にいる、誰かに阻まれたことにするのが、一番いい。そして、その誰かは、本当に阻んでくれる相手でなければならなかった。無響は、何もかもを聴いている。偽りの戦いの音など、すぐに聴き破られてしまう。


 咲耶の脳裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。翼の家の会議の夜、頼まれもしないのに煎餅の袋を提げてやってきて、縁側の端で、湯呑みを両手で包んでいた少女。オリジナルが、師匠と呼んでいた少女。可憐な顔をしているのに、その目だけが、ひどく古かった。オリジナルが夜ごとに稽古をしている場所なら、咲耶は、影の中で言葉を交わしたあの夜から知っていた。


 町外れの河川敷の中州は、明け方の白い霧に包まれていた。咲耶が霧の中を砂利を踏んで進んでいくと、中州の端の大きな流木に、浴衣にケープを羽織った小柄な少女が、杖を膝に立てかけて、ぽつんと腰かけていた。足元には、水筒が一本、置かれていた。


「……来ると思うとった」


 ヴィルヘルミナは、霧の向こうの咲耶を見もせずに、水筒の蓋に茶を注いだ。


「弟子が帰ったあと、どうにも寝つけんでのう。……年寄りは、こういう朝は、外で茶を飲むに限る」


 咲耶は、流木から数歩離れた場所で、足を止めた。オリジナルは、いなかった。そのことに、少しだけほっとして、それから、背中の狙撃銃の負い紐を、ぎゅっと握りしめた。


「……頼みがある」


「待て」


 ヴィルヘルミナは、咲耶の言葉を遮ると、杖の石突きで、砂利を一度だけ、こん、と叩いた。中州を流れる川の音が、ふっと厚みを増して、霧の内側を、薄い膜のように包み込んでいった。


「……ここから先の話し声は、外には漏れん。あの音のない者の耳にも、届かん。……話してみい」


「俺と、戦ってくれ」


 ヴィルヘルミナの手が、水筒の蓋の上で止まった。古い目が、初めて、まっすぐに咲耶の顔を見た。


「あいつに、オリジナルを連れてこいと言われた。連れてこられなければ、残った五人を、使い潰すと。……だから、連れてこようとして、オリジナルの傍の魔女に阻まれた。そう、言いたい」


「嘘を言うのに、わしを使うか」


「嘘じゃ、駄目なんだ」


 咲耶は、首を横に振った。


「あいつは、何もかも聴いてる。手加減した音も、芝居の音も、全部、聴き破る。……だから、本当に、撃退されなきゃ、駄目なんだ」


 ヴィルヘルミナは、しばらく黙って、咲耶の顔を見つめていた。それから、喉の奥で、くつくつと小さく笑った。


「嘘を通したい時はの、本当のことだけを並べるのが、一番ええんじゃ」


「……え」


「わしも、そうしとる。……おぬしは、若いのに、それがもう分かっとるのう。ええ筋じゃわい」


 ヴィルヘルミナは、水筒の蓋の茶を一息に飲み干すと、杖を手に取って、流木から、ひょいと立ち上がった。


「ええじゃろう。……戦う音だけは、膜の外へ、そのまま漏らしてやる。ただし、わしは、手加減は下手でのう。死なん程度には、加減してやるが」


 咲耶は、狙撃銃を背中から下ろして、砂利の上に構えた。霧の向こうの小柄な少女は、杖を突いて立っているだけで、構えらしい構えは、何一つ取っていなかった。

 咲耶は、引き金を引いた。狙撃銃から放たれた闇の弾丸が、霧を裂いて、ヴィルヘルミナの肩口を目がけて一直線に走った。手加減は、しなかった。手加減をすれば、それは、無響に聴き破られる音になる。

 だが、闇の弾丸は、ヴィルヘルミナの肩に届く寸前で、ふっと消えた。何かにぶつかったのでも、弾かれたのでもなかった。弾丸の周りの霧が、ほんの一瞬だけ渦を巻き、その渦の中で、闇の弾丸は、まるで最初からそこになかったかのように、跡形もなく溶けていった。


「……っ!」


「闇は、ええ色じゃのう。……じゃが、闇も、どこかの何かの上に乗っとる」


 ヴィルヘルミナは、杖の先で、砂利を一度だけ軽く叩いた。


「乗っとる場所を、少しずらしてやれば、それで終いじゃ」


 咲耶は、狙撃銃を捨てて、腰の拳銃を抜いた。中州の砂利の上を跳ぶように駆けながら、距離を詰めて、立て続けに引き金を引いた。一発、二発、三発。闇の弾丸は、どれも、ヴィルヘルミナに届く手前で、霧の渦の中に溶けて消えていった。

 咲耶は、自分の足元に闇を落とし、その影の中へ沈み込んだ。オリジナルに教わったわけではなかった。オリジナルによく似たこの身体が、闇の使い方を、生まれた時から知っていた。影の中を渡り、ヴィルヘルミナの背後の砂利の上に、浮かび上がろうとした。

 その瞬間、咲耶の身体は、浮かび上がる前に、影の中から弾き出された。ヴィルヘルミナの足元の霧が、咲耶の浮かび上がろうとしたその一点だけ、真昼のように白く光っていた。影の出口が、焼き消されていた。


「影から出る場所は、影がある場所だけじゃろう」


 ヴィルヘルミナは、振り返りもせずに言った。


「わしの弟子は、出口まで自分で作れるようになったがのう。……おぬしは、まだじゃな」


 砂利の上を転がった咲耶の身体を、今度は、足元の霧そのものが、柔らかく、しかし逃れようのない力で、宙へと持ち上げた。霧が、川の水が、風が、まるで一つの大きな手のように咲耶の身体を包み込み、そのまま、中州の端の浅瀬へと、叩きつけるように投げ落とした。

 冷たい水しぶきが、明け方の霧の中に、高く上がった。咲耶は、浅瀬の中で膝をついたまま、肩で息をしていた。外套はずぶ濡れになり、左腕は、浅瀬の石に打ちつけたところから、じんと痺れていた。拳銃は、どこかへ飛ばされていた。

 ヴィルヘルミナは、杖をつきながら、浅瀬の縁まで歩いてきた。小柄な少女の顔の中で、古い目が、少しだけ細められていた。


「……まだ、やるか」


「……っ、まだ……!」


 咲耶は、浅瀬の中から立ち上がろうとして、ふらついた。身体の芯が、空っぽになったように重かった。魔力を使い果たしたのではなかった。ただ、どこへどう撃っても、どこへどう跳んでも、何一つ届かないという事実が、身体の奥の何かを、根こそぎ削り取っていった。


「ええ音じゃった」


 ヴィルヘルミナが、穏やかに言った。


「撃つ音も、跳ぶ音も、叩きつけられる音も、全部、本当の音じゃ。……あの音のない者が、どれほど耳がよかろうと、今の音を、芝居とは聴かんじゃろう」


 咲耶は、浅瀬の中で膝をついたまま、ヴィルヘルミナを見上げた。それから、ようやく、自分の頼みが、文字どおりに叶えられたのだと理解した。撃退された。本当に、手も足も出ずに。

 ヴィルヘルミナは、浅瀬の縁にしゃがみ込むと、ケープのポケットから、包み紙の飴を一つ取り出して、咲耶の濡れた手のひらに、ぽとりと落とした。


「ほれ。お駄賃じゃ」


「……なんで」


「年寄りの朝の茶に、付き合うてくれた礼じゃ」


 ヴィルヘルミナは、腰を叩きながら立ち上がると、浅瀬の向こうに飛ばされていた咲耶の拳銃と、砂利の上に転がっていた狙撃銃とを、杖の先で器用に引き寄せて、咲耶の膝の前に、そっと並べた。


「……五人を連れ出すんじゃろう。あの響かん家に」


 咲耶は、目を見開いた。何も、言っていなかった。


「顔に書いてある。……わしは何も聞いとらんし、誰にも言わん。じゃが、手が要る時は、あの家の縁側に、茶でも飲みに来い」


 それだけ言うと、ヴィルヘルミナは、水筒を拾い上げて、霧の向こうへ、杖をつきながら、のんびりと歩き去っていった。咲耶は、浅瀬の中に膝をついたまま、手のひらの飴と、膝の前の二挺の銃とを、長い間、見つめていた。


 郊外の古い工場の地下に、ずぶ濡れの外套を引きずった黒い髪の少女が戻ってきたのは、朝の光が地上の街の屋根を照らし始めた頃だった。地上への階段の一番上で、膝を抱えて眠り込んでいた紫の髪の少女が、足音に気づいて跳ね起き、泣き腫らした目で、咲耶の姿を見つめた。


「……ナンバー8……! 帰ってきた……!」


 ナンバー1が、階段を転がるように駆け下りてきて、咲耶の濡れた外套に、またしがみついた。咲耶は、今度は振りほどかずに、その紫の髪の頭に、黙って手を置いた。

 一段高くなった場所の前で、咲耶は、片腕のない、温度のない人の形をしたものを見上げた。


「……オリジナルの傍に、魔女がいた」


 咲耶の声は、かすれていた。


「近づく前に、撃退された。……一発も、届かなかった」


 無響は、閉じていた目を開けて、ずぶ濡れの外套と、痺れて垂れ下がった左腕とを、温度のない目で見下ろした。坂の手前で止まった足音が、向きを変えて中州へ向かったのも、無響は聴いていた。中州で鳴った音を、無響は、遠くから、すべて聴いていた。初めのうちは、あの魔女の気配に、いつものように塗り潰されてぼやけていたが、撃つ音も、跳ぶ音も、浅瀬に叩きつけられる音も、どれ一つとして、芝居の音ではなかった。


「……あの魔女か」


 無響は、それだけ言った。それから、また目を閉じた。


「次の手を、考える。……休め」


 咲耶は、小さく頭を下げて、自分の部屋へと戻っていった。その背中に、紫の髪の少女が、毛布を引きずりながら、ぴったりとくっついてついていった。

 部屋の床に座り込むと、咲耶は、外套のポケットの中で、包み紙の飴を、そっと握りしめた。響かない家へ帰るのは、まだ先だった。それまでに、ここにいる五人を、一人残らず、連れ出さなければならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。