第三百六十八話
河川敷沿いの土手道は、西に傾いた夕日に照らされて、草の一本一本までが橙色に染まっていた。川面には細かな光の粒が揺れ、対岸のグラウンドからは、少年野球の掛け声と、金属バットがボールを弾く乾いた音とが、風に乗って途切れ途切れに届いてきていた。
零は、学生鞄を肩に掛け、右手にスーパーの袋を提げて、その土手道を一人で歩いていた。袋の中には、鶏のもも肉が二パックと、卵が一パックと、片栗粉と、生姜とが入っていて、歩くたびに、がさがさと小さな音を立てていた。昼休みに、父の五郎から「今日は唐揚げがいいなあ」とだけ書かれたメッセージが届き、その下に、よく分からない鶏の絵文字が三つも並んでいたのを思い出して、零は、少しだけ口元を緩めた。
鞄の中には、まだ白紙のままの進路調査票が、折り目もつけられずに挟まっていた。期限の金曜はとうに過ぎ、担任には、来週までには必ず何か書いてこいと念を押されていたが、何を書けばいいのかは、相変わらず少しも分からなかった。大学へ行くのか、働くのか、それとも、と考えかけたところで、零は、考えるのをやめて、袋を持ち直した。
その時だった。
対岸のグラウンドの掛け声が、ふっと途切れた。金属バットの音も、川の流れる音も、頭上を渡っていく鳥の声も、遠くの橋の上を走る車の音も、まるで誰かが一つずつ指で摘まんで取り除いていったかのように、零の耳から、すべての音が消えていった。足元の砂利を踏む自分の靴音さえ、聞こえなくなった。
零の背中を、冷たいものが一気に駆け上がった。この静けさを、零は知っていた。山奥の廃施設の地下で、戦姫の旧寮跡の中庭で、何度も肌に刻みつけられた、凪の静けさだった。
「……いい夕暮れだ」
すぐ隣から、温度のない声がした。
零は、足を止めなかった。止められなかった。いつの間にか、自分の左隣を、背の高い、痩せた男の形をしたものが、同じ歩幅で並んで歩いていた。白い肌に、長い指、整いすぎた顔立ちをしていて、その身体からは、体温も、呼吸の音も、魔力の揺らぎも、何一つ感じられなかった。片方の袖だけが、中身のないまま、夕風に揺れていた。
無響だった。
零は、スーパーの袋を握る指に、力を込めた。土手道の前にも後ろにも、人影は一つもなく、身を隠せるような物陰も、変身できるような死角も、どこにもなかった。仮にあったとしても、この距離で、この相手の前で、ペンダントに手を伸ばす隙など、あるはずがなかった。
「……俺に、何の用だ」
零は、前を向いたまま、低い声で言った。声が震えなかったのは、自分でも不思議だった。
「見に来ただけだ」
無響もまた、前を向いたまま答えた。
「人の姿の、おまえを。……あちらの姿は、何度も見た。だが、こちらの姿は、遠くから聴いていただけだった」
あちらの姿、と無響は言った。ゴーストのことを、まるで天気の話でもするように、当たり前のこととして口にしていた。山奥の廃施設で、街で一人の少年を狙ったと言われた時から、知られていることは分かっていた。それでも、こうして隣を歩かれながら、何でもないことのように告げられると、零の喉は、からからに渇いていった。
無響は、しばらく黙って歩きながら、零の横顔を、首筋を、袋を提げた腕の細さを、歩く時の重心の置き方を、一つずつ確かめるように眺めていた。その目には、敵意も、好奇心も、何も浮かんでいなかった。ただ、医者が患者の顔色を見るような、静かで、遠慮のない目だった。
やがて、その視線が、零の制服のシャツの襟元で止まった。シャツの下には、細い鎖で提げた小さな匣があって、その中で、ペンダントが、ひんやりと静かに眠っていた。
「……その飾りは、まだ眠っている……だが、今までで、一番よく育っている」
無響の声は、少しも調子を変えなかった。
零の足が、ほんのわずかに乱れた。今まで、と無響は言った。今までで、一番。それは、まるで、他にも何人もの誰かを、同じようにして見てきた者の言い方だった。
「……今までって、何だ」
無響は、答えなかった。夕日に染まった川面を、ただ、長い間見つめていた。音のない川は、それでも光の粒を揺らしながら、ゆっくりと流れ続けていた。
「何度、同じ夕暮れを見ても」
やがて、無響が、独り言のように呟いた。
「この川は、同じように流れる。……人は、それを、覚えていないだけだ」
零には、その言葉の意味が分からなかった。分からないのに、なぜか胸の奥が、冷たい手で掴まれたように、ぎゅっと縮こまった。
零は、袋を持ち直して、無理やり別の言葉を探した。
「……写しは、届かなかったな」
ナンバー3も、ナンバー1も、ナンバー2も、ナンバー7も、写しの元には届かなかった。それを口にすることが、この相手に対して、ささやかな反撃になるような気がした。
だが、無響は、少しも表情を変えなかった。
「届かせるために、作ったのではない」
「……は?」
「あれらの身体には、いずれ来るものと同じものが混ぜてある」
無響の長い指が、何もない夕空を、すっと一度だけなぞった。
「雷のように速いもの。氷のように静かなもの。炎のように荒れるもの。土のように硬いもの。群れで動き、群れで狩るもの。……その牙と爪の重さを、先に身体で知っておけ。知らずに出会えば、間に合わない」
零は、思わず無響の横顔を見上げた。いずれ来るもの。それが何なのか、零には見当もつかなかった。ただ、勾玉の解析室で、椎葉が言った言葉が、耳の奥に蘇っていた。まるで、別の場所で生まれて、別の理屈で育った生き物のようだ。縁側で、ヴィルヘルミナが呟いた言葉も、重なって聞こえた。この星の匂いがせん。
「……何が、目的なんだ」
零は、もう一度、前を向いたまま尋ねた。
「おまえが、間に合うことだ」
無響の答えは、それだけだった。零が何かを言い返す前に、無響は、思い出したように付け加えた。
「ナンバー8だが、あれは、見事に撃退されてきた」
零の心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「魔女の音は、芝居ではなかった。……あれは、本当に撃退されて帰ってきた。紙を落としたのも、門を叩いて、あの無音の中へ消えて、また戻ってきたのも、全部、本当の音だった」
無響は、ほんのわずかに、首を傾けた。それが笑ったのかどうか、零には分からなかった。
「ナンバー8が、私の一番、思いどおりに動いている」
零の指先から、すうっと血の気が引いていった。郵便受けに紙を落としたことも、翼の家の門を叩いたことも、すべて、この相手には聴かれていた。魔女に撃退されたという話は初耳だったが、それすらも、無響の口ぶりでは、思いどおりの一つに過ぎないようだった。
それを知った上で、黙って見ていた。いや、見ていたのではなく、そうなるように、待っていたのかもしれなかった。咲耶が自分の意思で選んだと信じているものが、最初から、この温度のない手のひらの上に乗っていたのだとしたら。
「……あの子に、何をさせるつもりだ」
零の声が、初めて、少しだけ荒くなった。だが、無響は、その問いには答えなかった。土手道の先、川に架かる古い橋の袂まで来たところで、無響は、ゆっくりと足を止めた。
「今日は、それだけだ」
温度のない目が、最後にもう一度だけ、零の胸元の匣を見下ろした。
「……よく、育て」
次の瞬間、無響の姿は、夕暮れの土手道から、跡形もなく消えていた。足跡一つ、残っていなかった。
音が、一斉に戻ってきた。川の流れる音と、対岸の少年野球の掛け声と、金属バットの乾いた音と、橋の上を走る車の音と、頭上の鳥の声とが、堰を切ったように零の耳へ流れ込んできて、零は、その場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、息をすることさえ忘れていた。
気がつくと、スーパーの袋の持ち手が、指に食い込んで白い跡をつけていた。握りしめすぎていたのだと気づいて袋の中を覗き込むと、卵のパックの端の一つが、ひびが入って、殻の隙間から、白身がじわりと滲み出していた。
(……一個、割れてる)
零は、ぼんやりとそう思った。それから、自分の手が、まだ小さく震えていることに気づいて、袋を左手に持ち替え、右手をぎゅっと握りしめた。
三神家の台所には、その夜、生姜と醤油の香ばしい匂いが立ち込めていた。零は、いつもと同じように、下味をつけた鶏肉に片栗粉をまぶし、温めた油の中へ、一つずつ静かに落としていった。油の弾ける軽やかな音が、台所いっぱいに広がった。
「おお、唐揚げだ! 零、父さんのメッセージ、ちゃんと届いてたんだなあ!」
仕事から帰ってきた五郎が、ネクタイを緩めながら台所を覗き込み、子どものように顔を輝かせた。
「あの鶏の絵文字、三つもいらないだろ」
「三つ分、食べたいってことだよ」
「お父さん、それ、去年も同じこと言ってた」
居間から、玲奈の呆れた声が飛んできた。食卓に箸を並べていた澪が、ふっと小さく笑い、奈々美は、台所の入り口で、揚がったばかりの唐揚げを一つ、素早く指で摘まんで口に放り込んだ。
「……うん、いい味。零、腕を上げたわね」
「母さん、つまみ食い」
「味見よ、味見」
いつもと同じ、賑やかな夕食の時間だった。五郎は唐揚げを三つ同時に皿に取って奈々美に耳を引っ張られ、玲奈は白百合の先輩の話をしながら箸を振り回して澪に叱られ、澪は、零の作った卵焼きの端が少しだけ欠けていることに気づいて、何も言わずに、それを自分の皿に取った。
割れた卵を、零は、捨てずに卵焼きに使っていた。
縁側の座布団の上では、浴衣にケープを羽織ったヴィルヘルミナが、唐揚げの皿を膝に載せて、湯呑みを傾けていたが、小柄な少女の目が、一度だけ、台所に立つ零の背中に向けられた。
零は、その視線に気づいていたが、振り返らなかった。ヴィルヘルミナもまた、何も聞かなかった。ただ、湯呑みをすすって、夜空のほうへ、ゆっくりと目を戻しただけだった。
夜更けの二階の自分の部屋で、零は、明かりを消したベッドの上に仰向けになったまま、天井を見つめていた。枕元の通信機からは、ついさっきまで、緋雪の声が聞こえていた。白百合の巡回の話と、明日の天気の話と、また今度、二人でどこかへ出かけたいという話だった。零は、そのどれにも、いつもと同じように答えた。土手道のことは、一言も言わなかった。
言えなかった、のではなかった。言わない、と決めた。今日、あの土手道で聴いた言葉は、まだ、誰かに渡せる形をしていなかった。渡せば、それは、渡された相手の胸の中でも、同じように冷たく縮こまるだけだと思った。
零は、シャツの襟元から、細い鎖ごと小さな匣を引き出し、蓋を開けて、ペンダントを手のひらに載せた。暗がりの中で、それは、いつもと同じように、ただ静かに冷たかった。
(……今まで、で、一番)
無響の声が、耳の奥で、何度も繰り返された。今まで。一番よく育っている。何度、同じ夕暮れを見ても。いずれ来るもの。間に合うこと。
そして、ナンバー8が、一番、思いどおりに動いている。
零は、ペンダントをぎゅっと握りしめた。翼の家の居間で、奈緒に名前を贈られ、どんな顔をすればいいのか分からないように唇を結んでいた黒い髪の少女は、今頃、あの地下で、何を思っているのだろうか。あの子が自分の意思で選んだはずの道の先に、何が待っているのかを、零には、まだ何一つ見通すことができなかった。
窓の外では、夜の雲がゆっくりと流れ、その切れ間から、遠い星が一つ、二つと瞬いていた。零は、ペンダントを握ったまま、その星を、眠れないまま、いつまでも見上げていた。




