第三百六十六話
郊外の古い工場の地下は、五人きりになってから、朝の静けさまでが違って感じられるようになっていた。紫の髪のナンバー1は、相変わらずナンバー7の大きな寝台の上で、色褪せた毛布にくるまったまま、時々、ぐずぐずと鼻をすすっていて、燃えるような紅い髪のナンバー3は、朝から壁に向かって長槍を構え、右足を半歩前へ、穂先をやや下げて、と、同じ構えを何十回も繰り返していた。
少し離れた壊れた機械の陰では、背中まで流れる金の髪のナンバー4と、肩までの青い髪の小柄なナンバー5と、短い翠の髪のナンバー6とが、それぞれ思い思いの場所に腰を下ろしていた。ナンバー6が、細い指で干し肉の袋を弄びながら、ぽつりと言った。
「……次は、あたしたちの番かもね」
「まあ、縁起でもないことを」
ナンバー4が、芝居がかった仕草で眉をひそめたが、その声には、いつものような張りがなかった。ナンバー5は、膝を抱えたまま、指先の水の刃を見つめて、淡々と言った。
「……二人一組は、もう、うまくいかない。……魔獣を挟んでも、写しの元には、届かない」
誰も、それに言い返さなかった。錆びた配管から落ちる水滴の音だけが、地下に響いていた。
ナンバー2とナンバー8の部屋の前では、肩にかかる黒髪のナンバー8が、床に座り込んで、ぼんやりと宙を見ていた。誰にも聞こえない声で、口の中で、何度か、何かを転がすように唇を動かしていた。咲耶。翼の家の居間で、紅色の瞳の少女が、両手で手を握って、贈ってくれた名前だった。
「……ナンバー8」
いつの間にか、ナンバー1が、毛布を頭から被ったまま、部屋の入り口に立っていた。赤く腫れた大きな瞳が、不思議そうにナンバー8の顔を覗き込んでいた。
「何か、いいことあった?」
「……っ、何もない」
ナンバー8は、慌てて首を横に振った。ナンバー1は、しばらくじっとナンバー8の顔を見つめていたが、やがて、つまらなそうに唇を尖らせて、毛布を引きずりながら、またナンバー7の寝台のほうへ戻っていった。
「うそ。……口のとこ、ちょっとだけ、笑ってたもん」
ナンバー8は、思わず自分の口元を手で押さえた。
その夜、一段高くなった場所の前に呼ばれたのは、ナンバー8一人だった。地下の他の五人は、それぞれの寝床で眠っているか、眠ったふりをしていた。片腕のない、温度のない人の形をしたものは、閉じていた目をゆっくりと開けて、黒い髪の少女を見下ろした。
「おまえは、オリジナルと話せるな」
ナンバー8の背中が、ぴんと凍りついた。無響の声は、少しも調子を変えていなかった。問いではなかった。もう知っていることを、ただ、告げているだけの声だった。
「北の丘陵の、響かない家。……おまえが紙を落とし、門を叩き、あの無音の中へ消えて、また戻ってくるのを、ずっと聴いていた」
ナンバー8の喉が、からからに渇いていった。咎められなかったのも、問われなかったのも、黙認されていたのも、すべて、このためだったのだと、ナンバー8は悟った。
「オリジナルを、ここへ連れてこい」
温度のない声が、地下の暗がりに落ちた。
「……できなければ、残った五人を、一人ずつ、写しの元に当てる。届くまで、何度でも」
ナンバー8の拳が、膝の横で固く握りしめられた。紫の髪の少女の泣き腫らした目と、紅い髪の少女の、壁に向かって繰り返す構えとが、ナンバー8の脳裏をよぎった。
「……期限は」
「おまえが、決めろ」
無響は、それだけ言うと、また目を閉じた。ナンバー8は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、何も言わずに、自分の部屋へと戻っていった。
通路の途中の暗がりで、壁にもたれて座り込んでいた紅い髪の少女が、長槍を抱えたまま、ナンバー8を見上げた。ナンバー3は、眠ってなどいなかった。
「……何、言われたの」
「……何も」
「嘘」
ナンバー3は、勝ち気な吊り目で、じっとナンバー8の顔を見つめていたが、やがて、ふいと目を逸らした。
「……あんたが何をしてようと、私は知らない。……でも、あの紫のチビを泣かせたら、承知しないから」
ナンバー8は、何も答えずに、ナンバー3の前を通り過ぎた。背中に、紅い髪の少女の視線が、いつまでも刺さっているような気がした。
同じ夜、町外れの河川敷の中州は、いつものように白い霧に包まれていた。漆黒のドレスのゴーストは、砂利の上に自分の闇で影を作り、その中に身体を沈めたまま、目を閉じていた。
影の中から、外を見る。ヴィルヘルミナが二十点分の課題として出したそれは、八十点を取るまでの稽古とは、まるで違う難しさだった。闇の中は、音もなく、光もなく、ただ冷たい水の底のようで、外の世界の気配は、どれほど耳を澄ませても、厚い壁の向こうの出来事のようにぼやけていた。
「……っ、はあ……」
二十秒を数え切る前に、ゴーストは影から弾き出されて、砂利の上に膝をついた。中州の端の流木に腰かけたヴィルヘルミナが、水筒の蓋に茶を注ぎながら、喉の奥で小さく笑った。
「見ようとするから、見えんのじゃ。……闇は、目で見るもんではない」
「じゃあ、何で見るんですか」
「それを、自分で見つけるのが、稽古じゃ」
ゴーストは、砂利の上に座り込んだまま、しばらく黙っていた。それから、ドレスの胸元に下げたペンダントを、指先でそっと握った。
「……師匠。言っていなかったことが、あります」
ヴィルヘルミナの手が、水筒の蓋の上で止まった。
「捕まえたナンバー2とナンバー7を、調べてもらったんです。……二人の魔力の芯に、私と同じ波形が、刻まれていました。きっと、八人全員に」
中州に、川の流れる音だけが響いた。ヴィルヘルミナは、茶を一口すすってから、ゆっくりと立ち上がり、杖をついてゴーストの前まで歩いてきた。それから、ゴーストが握りしめているペンダントに、古い目を、じっと落とした。
「……器、か」
ヴィルヘルミナは、小さく呟いた。
「その飾り。……ずいぶんと、古い匂いがするのう」
「……古い?」
「わしより、ずっと古い。百年や二百年の古さではない」
ヴィルヘルミナは、それ以上は何も言わなかった。中州の霧の中で、いつか、ゴーストの手のひらに霧と川の水とが吸い寄せられた夜のことを、魔女は、黙って思い返していた。三つの色の奥に、まだ、何かある。この子は、何でできとるんじゃ。あの夜の問いの答えの端が、今、その古い飾りの中で、微かに光ったような気がした。
その夜更け、ナンバー2とナンバー8の部屋で、ナンバー8は、床に座り込んだまま、部屋の真ん中の床に残った、溶けた氷の仕切りの跡を見つめていた。主のいない寝台の上には、白銀の髪の少女が使っていた毛布が、きちんと畳まれたまま置かれていた。
オリジナルを、連れていく。それだけは、絶対にできなかった。影の中で、当てなくていい、私が全部躱したことにすればいい、と言ってくれた少女を、この地下へ連れてくることなど、考えたくもなかった。
断れば、残った五人が、一人ずつ写しの元に当てられる。紫の髪、紅い髪、金の髪、青い髪、翠の髪の少女も届くまで、何度でも。
逃げれば、翼の家に迷惑がかかる。響かない家の、あの居間の、あの湯呑みの温かさを、自分が連れてくる災いで壊してしまうかもしれなかった。
ナンバー8は、膝を抱えて、目を閉じた。紅色の瞳の少女が、両手で握ってくれた手の感触が、まだ手のひらに残っていた。咲いたら、いいなって。それから、門の前で、白鳥が言った。次に、危ないと思ったら、迷わず、ここへ来なさい。紙も、門を叩くのも、いらないから。そのまま、帰ってきなさい。
帰ってきなさい、と言われたのは、生まれて初めてだった。
ナンバー8は、ゆっくりと立ち上がった。壁に立てかけてあった狙撃銃を背負い、腰のホルスターに黒い拳銃を収め、古い外套のフードを、頭から深く被った。
夜明け前の、地上へ続く階段の一番上の段に、小さな人影が、膝を抱えて座っていた。紫の髪が、毛布の縁から、ちょこんと覗いていた。
「……ナンバー8も、行っちゃうの?」
ナンバー1の声は、かすれていた。ナンバー8は、階段の途中で足を止めた。答えようとして、言葉が見つからずにいるうちに、ナンバー1が、毛布を払いのけて立ち上がり、階段を駆け下りてきて、ナンバー8の胴に、力いっぱいしがみついた。
「やだ」
小さな腕が、外套ごとナンバー8の身体を締めつけた。
「ナンバー7もいなくなって、ナンバー2もいなくなって、ナンバー8までいなくなったら……あたし……!」
ナンバー1は、小さな身体で精一杯、ナンバー8を階段の下へ引き戻そうとした。紫電は纏っていなかった。ただ、泣きじゃくる少女の、ありったけの力だけだった。
ナンバー8は、振りほどけなかった。しばらくの間、しがみつく紫の髪の頭に手を置いたまま、階段の途中で立ち尽くしていた。それから、ゆっくりと、ナンバー1の腕を、一本ずつ、ほどいていった。
「……ナンバー7は、生きてる」
ナンバー8は、ナンバー1の濡れた顔を覗き込んで、静かに言った。
「必ず、会わせる。……だから、それまで、ここで待ってろ」
ナンバー1は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、ナンバー8の顔を見上げていた。それから、唇を噛みしめて、小さく、一度だけ頷いた。
ナンバー8は、階段の最後の一段を上がり、夜明け前の群青色の空の下へ出ていった。ナンバー1は、それ以上は追いかけなかった。毛布を胸に抱きしめたまま、階段の上で、遠ざかっていく黒い外套の背中を、見えなくなるまで見送っていた。
郊外の古い工場の屋根の上で、片腕のない、温度のない人の形をしたものが、北へ向かって遠ざかっていく足音を、目を閉じたまま聴いていた。その足音は、もう、振り返らなかった。
無響は、ゆっくりと目を開けて、白み始めた東の空と、まだ星の残る西の空とを、長い間、見上げていた。数えきれないほど何度も、こうして同じ空を見上げてきた。そして、その空から降ってくるものに、一度も、間に合わなかった。
「……今度は、間に合うかもしれん」
温度のない声が、明けかけた空の下に、静かに落ちた。




